まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中

20 ドクターの誓い

 由良と勇人が出会って一年が経って、また桜の季節がやってきた。
 その頃、由良と勇人の生活は大きく変わっていた。由良は体調を崩して仕事を休み、勇人も仕事を減らして由良に付き添っていた。……由良のお腹に、勇人の赤ちゃんが宿っていたからだった。
 由良は尚史から何度も、戻ってきて尚史の家で療養するように勧められていた。けれど尚史は、まだ勇人と由良の結婚には反対していた。由良はそんな兄にもどかしい思いを抱えながら、決して尚史に世話にはならないと抵抗していた。
 勇人は由良の背をさすりながら、心配そうに言う。
「由良さん、咳がやまないですね……。薬を飲みませんか?」
 由良は数日前の風邪を引きずって、咳が続いていた。けれど由良は赤ちゃんに悪影響だからと、薬を飲むのを拒絶していた。
 由良は苦しげに咳を繰り返しながら、そっと腹部を押さえる。
「だめです。元気に生まれてきてほしいから……」
「適切な投薬なら害は最小限に抑えられます。ドクターの夫が言うんです。子どものためにも……飲んでください」
 勇人は自分が苦しそうに顔をしかめて、由良に水と薬を差し出し続ける。
「そうですよね……自慢の旦那さんが、言うんだから」
 由良は弱弱しく笑って、コップを受け取ろうとしたときだった。
 由良の手からコップが滑り落ちて、床に水たまりを作る。勇人がはっと息を呑んだときには、由良はぐったりと手足を投げ出していた。
「由良さん!?」
 勇人は慌てて由良の額に手を当てて、呼吸音も確かめる。
「熱が高い……! 呼吸音も平常じゃない。……一緒にいて、今まで気づかなかったなんて」
 勇人は普段の平静さを忘れて愕然とする。けれど由良を守らなければという自覚は固く胸にあった。車のキーと財布だけポケットに入れると、由良を毛布に包んで抱き上げる。
 外はどしゃぶりの雨だった。由良の体調不良とちょうど同じ時期に、街は数日前から降りやまない雨に見舞われて、一部では停電もしているという話だった。
「内科、産婦人科……違う、救急だ。ここから一番近くは……!」
 雨音がうるさいほどなのに、勇人には由良のぜぇぜぇという呼吸音が殊更耳に響いた。
 どんな急患だって、自分ならさばいてみせると思っていた。それだけの経験も持ち合わせていた。
「由良さん、大丈夫ですよ……! いざとなったら妊婦の出産だって、何度も経験はあるんですから」
 そんな自分がどうだ。ちっぽけなプライドなど吹き飛んだ。頭の中は混乱しきっていて、ハンドルを握る手だって汗ばんでいる。
 ……それは相手が、たった一人の妻だからだ。失ったら気が狂うくらいに大切な、今はお腹に小さな命も宿している人。
「必ず助けますから……! 気を強く持っていてください」
 勇人は後部座席の由良に呼びかけ続けて、日暮れ時の街の中、車を疾走させた。
 十分後、勇人がたどり着いたのはかつて自分が勤めていた大学病院だった。
「これは……」
 けれどそこはいつもの病院ではなかった。外は赤いランプが回ったままの救急車がいくつも止まっていて、オペ室に入りきらない患者が担架で並べられている。
 ……それは悪夢のようだった列車事故を彷彿とさせる戦場だった。
「北条先生! 応援に来てくださったんですか!?」
 待合室で立ちすくんだ勇人に、縋るように声をかけてきたのはかつての同僚の看護師だった。
「応援?」
「新型インフルエンザの院内感染が発生したんです。別の病院に運び込もうにもこの雨で、交通機関が遮断されていて……!」
 勇人は背中に負った由良を振り向いて、冷たい汗が額を流れたのを感じた。突然の高熱に何日も続く咳、混濁する意識。由良の症状は、勇人が医療情報として聞いていた新型インフルエンザの症状と一致する。
 感染が始まったばかりの、新型インフルエンザの致死率は三割。医療知識として仕入れたときは、まれに見る高さだと分析しただけだった。
 けれど、それが由良のことだとしたら。……三分の一の確率で、生死を分けるとしたら。勇人は胸に激痛が迫ってきて、声を震わせて言った。
「妻も急患なんだ……! 頼む、助けてくれ」
 同僚の看護師ははっとして、「今は院内で手一杯で」と苦しげに拒絶した。
 勇人は踵を返すと受付に懸命にかけあって、由良を治療してくれるように頼みこんだ。けれど答えは同じで、順番を待つしかない状況だった。
 病院では、近隣病院とドクターに、一斉に応援要請を出しているところらしかった。圧倒的にドクターの数が足りない。緊急事態にあるのに天候は最悪で、車で駆け付けるドクターたちも難儀しているようだった。
 勇人は由良が少しでも楽な姿勢であるように、横抱きにしたまま毛布で温める。けれど由良の熱は高くなる一方で、勇人は自分の腕の中から彼女がすり抜けていってしまうような恐怖を味わった。
「由良さん……!」
 たった一人の大事な人も守れないようなら、自分は何なのだろう? そんな絶望感さえ感じたとき、腕の中で由良がかすかな声を上げた。
「勇人さん……」
 勇人は少しだけ安堵の息をついて、由良の顔をのぞきこむ。
「意識が……! 由良さん、大丈夫。ここは病院です。どうにかして、すぐに……」
「応援に、行ってあげてください……」
 由良が弱弱しい声で言った言葉に、勇人は首を横に振って返す。
「置いてなんていけません! 側にいます。妻も守れないようで何がドクターだ……! 僕は……」
「……私、戦いますから」
 ふいに由良は澄んだ目に決意を宿して、勇人を見上げた。
「私しか守れない、この子を守るために……精一杯戦いますから。勇人さんも、守ってあげてください……手が届く、人たちを」
 勇人は一瞬怯んだが、悲痛な声で言い返した。
「僕は由良さんとこの子が守れればいい! 他なんて……!」
「待ってますから。……大丈夫。勇人さんの手が、私とこの子に届くまで、私は死にませんから」
 由良はそっと勇人のシャツの胸元に触れて微笑む。
「……布は縫えないけど、お腹は縫えるんでしょう? ちゃんと縫ってください。信じてますよ?」
 いつかの不器用な冗談を由良が口にすると、勇人はくしゃりと顔を歪めた。
 勇人は一度固く目を閉じると、由良を抱いて立ち上がった。
 看護師に応援要請を受けると告げて、由良を預ける。懐かしい更衣室でスクラブに着替えて、手袋をはめた。
 時間がない。早くこの手で由良を助けたい。けれど彼女が寄せてくれた信頼に、最大限応えてみせよう。自分は、ドクターなのだから。
「……行く」
 由良に誓うようにして、勇人は戻ってきた戦場に足を踏み入れた。
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