まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中
3 先生と告白
由良は医療機器メーカーの医療部で働いていて、忙しいけれど充実した毎日を過ごしている。
「由良さん、大丈夫? 今日顔色悪いよ」
憧れていた医療分野に携わることができて、できる限り一生懸命仕事をしたいのに、体が強くないのが由良の痛いところだった。
同僚は医療関係者が多く、由良を気遣ってくれるのがありがたくも申し訳ない。
由良は看護師である同僚の上川に、うなずいて答える。
「ちょっと寝不足で。すみません。今日帰ったらよく休みますから」
「医務室行ってきたら? 水曜日だから、北条先生いるよ」
由良は何気なく言われたそれを聞いて、肩を緊張させながら言葉に詰まった。
北条は取締役の一人でありながら医務室のドクターも務めていて、体調の悪い社員は医務室で北条に診てもらうこともある。
「……先生は忙しいです。貧血なんかに付き合ってもらうのは悪いと思うんです」
でも一社員の由良から見て取締役の北条は雲の上の人で、今朝ご迷惑をかけたことがとても心苦しかった。
上川は苦笑して、ぽんと頭を叩くように言う。
「遠慮しないでいいのに。調子の悪い人を診るのがドクターの仕事なんだから。無理しないで、何かあったら言ってね」
「は、はい。ありがとうございます」
看護師の上川にとってドクターの北条は身近な存在なのかもしれないが、由良にはとてもそうは思えなかった。
……だって、調子の悪い人を診る仕事を普段たくさんしているだろうけど、今朝は勤務時間外だったのだ。それを思うと、由良はなんだかしゅんとしてしまった。
今日中に一度顔を見せるようにと言われたけど、どんな顔を見せたらいいんだろう。そんなことを思いながら、仕事に取り掛かった。
ところで現在、由良は繁忙期にあった。桜に心躍らす時期は、由良の一年のうち一番重要な、定期統計を提出する時期と重なる。事務方の由良にとっては、なるべく一日も休みたくない頃なのだった。
山ほどのデータをみつめながら分厚い書類をせっせと仕分けして、いつも以上にしゃかりきと働いていたら、昼食を食べ逃してしまった。
仕方なく三時頃になって購買のパンを買ったけれど、朝と同じで気分が悪く、ほとんど食べられない。
帰った方がいいのかな。でもあと少しで区切りがつきそうだし、もうちょっとがんばりたい。そう思って、執務室に戻る途中だった。
「あ」
そのとき、廊下の向こうから歩いてきた北条と目が合ってしまった。
由良はとっさに目を逸らして、廊下の端に寄ろうとした。でも北条は由良を見やって、一瞬だけ考えた間があった。
それで北条は足を止めて、眉をひそめて言う。
「由良さん」
……私の名前、知ってくださっていたんだ。それが少しうれしくて、由良はこくんと息を呑んだ。
北条は由良の前にやって来ると、よく見える目で由良を見下ろして言う。
「気分が悪いんでしょう。ついて来てください。医務室、すぐそこですから」
由良は抵抗しようとして、できなかった。体調が悪いのもあったのだけど、厚意と言うには優しさに近いような提案に逆らえなくて、小さくうなずいた。
エレベーターに乗って医務室にやって来ると、そこには「休憩中」の札が掛かっていた。由良が入るのをためらっていると、北条はさっさと扉を開けてしまう。
「看護師も今は出払っていますけど。さ、入って」
「で、出直します。先生、休憩中に悪いですから」
由良が慌てて言うと、北条は今朝も見せた優しい目で由良を見返した。
「言ったでしょう? ……ただ心配だからじゃ、だめですか」
由良はまた、その提案に逆らえなかった。どうしてこんなに良くしてくれるのか訊けないまま、そろそろと医務室に足を踏み入れた。
初めて入る医務室は、オフィスの中にあるとは思えないほど立派な診療所だった。待合室の先に小部屋があって、診察室に続いていた。
確かに休憩中なのか、部屋には北条と由良の二人しかいなかった。
北条は由良を座らせて対面に座ると、ちらと時計を見上げて、少し困ったように言った。
「一度顔を見せてほしいと言ったのに、もうこんな時間」
「ど、どんな顔を見せたらいいかわからなくて」
「どんな顔?」
由良が大真面目に思ったことを言うと、北条はくしゃっと笑って頬を緩めた。
その優しい笑い方に由良が目を丸くしていると、北条はむずかゆいような表情で言う。
「……まったく、由良さんは。そのままの顔を見せてほしいだけです。もちろん元気な顔が良かったですが、具合が悪いのを隠すのはもっと良くないですよ?」
北条は由良の顔をよくのぞきこむと、しかめ面になって言葉を切り出した。
「今日は終業時間までここで休んでいなさい。後で送っていきます」
「え……っ」
由良は突然の提案に、大慌てで返した。
「とんでもない。先生にそこまでして頂くわけにはいきません!」
「恋人ならいいですか?」
由良が言われた言葉の意味にきょとんとすると、北条はじっと由良をみつめて繰り返した。
「由良さんと付き合っていれば、家まで送ってもいいですか? ……由良さんが良ければ付き合いましょう、ということです」
由良は十秒くらい大真面目にその言葉を心ではんすうした。
自分と先生が付き合う。恋人同士。それを考えようとして、びっくりして首を横に振った。
由良はやっぱり大慌てで言う。
「えと、えと……っ! こ、恋人にしてもらうわけにも……! 先生! 私、一医療部員なんです。からかわないでください……!」
「からかってないですよ。好きなんです、由良さんのこと」
「す、好きって……!」
真っ赤になって困っている由良を、北条は愛しいものを見るような目で眺めていた。
やがて北条は落ち着いた声音で言う。
「今日のところはわかりました。でも僕はあきらめないですよ。覚悟しておいてください」
北条はそう言って、「あと送っていくのは恋人じゃなくてもできますね。いいですよね?」と当たり前のように付け加えたのだった。
「由良さん、大丈夫? 今日顔色悪いよ」
憧れていた医療分野に携わることができて、できる限り一生懸命仕事をしたいのに、体が強くないのが由良の痛いところだった。
同僚は医療関係者が多く、由良を気遣ってくれるのがありがたくも申し訳ない。
由良は看護師である同僚の上川に、うなずいて答える。
「ちょっと寝不足で。すみません。今日帰ったらよく休みますから」
「医務室行ってきたら? 水曜日だから、北条先生いるよ」
由良は何気なく言われたそれを聞いて、肩を緊張させながら言葉に詰まった。
北条は取締役の一人でありながら医務室のドクターも務めていて、体調の悪い社員は医務室で北条に診てもらうこともある。
「……先生は忙しいです。貧血なんかに付き合ってもらうのは悪いと思うんです」
でも一社員の由良から見て取締役の北条は雲の上の人で、今朝ご迷惑をかけたことがとても心苦しかった。
上川は苦笑して、ぽんと頭を叩くように言う。
「遠慮しないでいいのに。調子の悪い人を診るのがドクターの仕事なんだから。無理しないで、何かあったら言ってね」
「は、はい。ありがとうございます」
看護師の上川にとってドクターの北条は身近な存在なのかもしれないが、由良にはとてもそうは思えなかった。
……だって、調子の悪い人を診る仕事を普段たくさんしているだろうけど、今朝は勤務時間外だったのだ。それを思うと、由良はなんだかしゅんとしてしまった。
今日中に一度顔を見せるようにと言われたけど、どんな顔を見せたらいいんだろう。そんなことを思いながら、仕事に取り掛かった。
ところで現在、由良は繁忙期にあった。桜に心躍らす時期は、由良の一年のうち一番重要な、定期統計を提出する時期と重なる。事務方の由良にとっては、なるべく一日も休みたくない頃なのだった。
山ほどのデータをみつめながら分厚い書類をせっせと仕分けして、いつも以上にしゃかりきと働いていたら、昼食を食べ逃してしまった。
仕方なく三時頃になって購買のパンを買ったけれど、朝と同じで気分が悪く、ほとんど食べられない。
帰った方がいいのかな。でもあと少しで区切りがつきそうだし、もうちょっとがんばりたい。そう思って、執務室に戻る途中だった。
「あ」
そのとき、廊下の向こうから歩いてきた北条と目が合ってしまった。
由良はとっさに目を逸らして、廊下の端に寄ろうとした。でも北条は由良を見やって、一瞬だけ考えた間があった。
それで北条は足を止めて、眉をひそめて言う。
「由良さん」
……私の名前、知ってくださっていたんだ。それが少しうれしくて、由良はこくんと息を呑んだ。
北条は由良の前にやって来ると、よく見える目で由良を見下ろして言う。
「気分が悪いんでしょう。ついて来てください。医務室、すぐそこですから」
由良は抵抗しようとして、できなかった。体調が悪いのもあったのだけど、厚意と言うには優しさに近いような提案に逆らえなくて、小さくうなずいた。
エレベーターに乗って医務室にやって来ると、そこには「休憩中」の札が掛かっていた。由良が入るのをためらっていると、北条はさっさと扉を開けてしまう。
「看護師も今は出払っていますけど。さ、入って」
「で、出直します。先生、休憩中に悪いですから」
由良が慌てて言うと、北条は今朝も見せた優しい目で由良を見返した。
「言ったでしょう? ……ただ心配だからじゃ、だめですか」
由良はまた、その提案に逆らえなかった。どうしてこんなに良くしてくれるのか訊けないまま、そろそろと医務室に足を踏み入れた。
初めて入る医務室は、オフィスの中にあるとは思えないほど立派な診療所だった。待合室の先に小部屋があって、診察室に続いていた。
確かに休憩中なのか、部屋には北条と由良の二人しかいなかった。
北条は由良を座らせて対面に座ると、ちらと時計を見上げて、少し困ったように言った。
「一度顔を見せてほしいと言ったのに、もうこんな時間」
「ど、どんな顔を見せたらいいかわからなくて」
「どんな顔?」
由良が大真面目に思ったことを言うと、北条はくしゃっと笑って頬を緩めた。
その優しい笑い方に由良が目を丸くしていると、北条はむずかゆいような表情で言う。
「……まったく、由良さんは。そのままの顔を見せてほしいだけです。もちろん元気な顔が良かったですが、具合が悪いのを隠すのはもっと良くないですよ?」
北条は由良の顔をよくのぞきこむと、しかめ面になって言葉を切り出した。
「今日は終業時間までここで休んでいなさい。後で送っていきます」
「え……っ」
由良は突然の提案に、大慌てで返した。
「とんでもない。先生にそこまでして頂くわけにはいきません!」
「恋人ならいいですか?」
由良が言われた言葉の意味にきょとんとすると、北条はじっと由良をみつめて繰り返した。
「由良さんと付き合っていれば、家まで送ってもいいですか? ……由良さんが良ければ付き合いましょう、ということです」
由良は十秒くらい大真面目にその言葉を心ではんすうした。
自分と先生が付き合う。恋人同士。それを考えようとして、びっくりして首を横に振った。
由良はやっぱり大慌てで言う。
「えと、えと……っ! こ、恋人にしてもらうわけにも……! 先生! 私、一医療部員なんです。からかわないでください……!」
「からかってないですよ。好きなんです、由良さんのこと」
「す、好きって……!」
真っ赤になって困っている由良を、北条は愛しいものを見るような目で眺めていた。
やがて北条は落ち着いた声音で言う。
「今日のところはわかりました。でも僕はあきらめないですよ。覚悟しておいてください」
北条はそう言って、「あと送っていくのは恋人じゃなくてもできますね。いいですよね?」と当たり前のように付け加えたのだった。