まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中
4 チョコレートとお誘い
由良は終業時間まで医務室で休んだものの、北条に送ってもらうのはどうにか固辞した。
ドクターに送ってもらうのはいくら何でも職務の範囲外だと思ったし、北条の言葉が衝撃的で、それもどんな顔をしていいかわからなかったからだった。
北条は、素敵な人だと思う。優しくて、しっかりしていて、ちょっと強引なところに戸惑うけれど、惹かれ始めているのを感じている。
でも会社のドクターで、それも取締役なのだから。とても自分が釣り合うことなんてないと、うろたえてしまったのだった。
翌日出勤すると、企画部の同僚の言葉が耳に入ってくる。
「北条取締役に新商品の企画が通りました!」
「やったじゃないか。これでCEOにも採用されるな」
彼はCEO直々に大学病院から呼ばれた最年少の取締役で、CEOに厚い信頼を寄せられている。医療現場のことを熟知していて、医療従事者の社員からも尊敬されているから、オフィスでもその名前をよく聞く。
ただ、話題になるのはその仕事ぶりだけが理由じゃない。
「北条取締役が今朝、チョコレートの紙袋を持って出勤したんだって」
「え、誰、誰!? 誰にあげるの?」
手持ちの紙袋一つで注目されるくらい、常に女子社員の関心の的になっている。
三十五歳独身でドクター、由良も実際にお会いしたら優しい人だったから、女性は放っておかないだろう。
でも由良はそういう話を聞くにつけ、一医療部員の自分とは遠い世界の人なんだなぁと思っていた。
「期待しても無駄だと思うけどな。北条先生、仕事一筋の人だし」
昼休み、看護師の上川が女子社員たちのおしゃべりに眉をひそめて言った。
上川は男性の看護師で、十年間の病棟勤務歴を持つ生粋のナースマンだ。ドクターより患者に近い自身の仕事に誇りを持っていて、ドクターだからと怯んだりしない人だった。
由良はいつものように、自席で隣の上川と一緒にお弁当を食べながら言う。
「上川さんは、前の病院で北条先生とご一緒されていたんでしたね」
「うん。ドクターだからそりゃモテたけど、寄ってくる女性を煙たがってるのが見ててよくわかったな。誰かと付き合ってるみたいな話、聞いたことなかった」
上川は同僚としてという目で、北条のことを淡々と話す。
「だから調子悪かったら、遠慮なく医務室に行きなよ。昨日みたいにがまんしないでさ」
「……すみません」
昨日、医務室で休んでいることを上川に内線で伝えたら、彼は心配して様子を見に来てくれた。
上川はそのときにも言ってくれた言葉をもう一度由良にくれる。
「あと俺、看護師だから事務方の仕事はそれほどわからないけど、体力だけはあるからさ。頼ってくれていいからね」
「あ、ありがとうございます」
由良はほっとして、ぺこりと頭を下げてお礼を言った。
上川は大柄でその性格もさばさばしている。休日は基本サッカーをしている体力の持ち主で、仕事でも体力に自信のない由良のことをたびたび庇ってくれた。
「頭なんて下げなくていいって! ……もう、由良さんは」
上川は彼らしくもなく口の中で何かぼそぼそと言って、困ったように眉を下げた。
いい人だなぁと由良はほっこりしていて、オフィスがざわついたのに気付くのが遅れた。
その正体を知ろうと辺りを見回したときには、もうその人はすぐ側まで来ていた。
「珍しいですね、北条先生」
上川が立ち上がって、ビジネスライクに声をかけた先。そこに、北条が立っていた。
彼は医務室のドクターという意味では社員に近いけれど、取締役という役職がある。企画部のような花形ならともかく、由良の医療部はもっと上席の社員しか彼と会うことはない。由良などは長い間ホームページの写真でしか北条のことを知らなかったくらいだった。
「邪魔して悪いね、上川君」
北条も同僚に接する温度で上川にあいさつを返す。
それで、北条は由良に目を移した。由良は慌てて立ち上がる。
「お昼休みにごめんなさいね、由良さん」
声をかけられてますます恐縮して小さくなる由良に、何かが差し出される。
「お願いがあります。僕とディナーをご一緒しませんか」
それはプレゼント用のチョコレートの紙袋だった。今朝、同僚の女子社員の皆がうわさしていた紙袋。
「これは手土産にどうぞ」
中には紙袋と違わず、高そうなチョコレート専門店の紙包、それに小さなブーケとメッセージカードが添えられている。
何が起きているのだろう。プレゼントだということが理解できないまま、由良はたっぷり一分ほども硬直していた。
「あ、あの。頂けません」
由良はどうにか立ち直って、そっと北条に紙袋を押し返す。
「先生、電車で介抱してくださったから気にかけてくださってるんだと思います。でも先生が心配してくださってるなら、私、ちゃんとお医者さんにもかかりますから」
「患者だから気にかけているのではないですよ」
北条は苦笑して、由良をみつめたまま言う。
「由良さんだから食事に行きたいんです。……だめですか?」
北条にそう念を押されると、どうしてか由良はくすぐったいような思いがしてうなずきたくなってしまう。
いたずらっぽい北条の目と、差し出された袋。由良はオフィス中の注目を浴びているのも、一瞬忘れた。ただどきどきして、初めてのような感情に揺られた。
「由良さん、困ってますよ」
ふいになんだか不機嫌そうな声で、上川が口を挟んだ。
「取締役の立場から誘われたら断りづらいでしょ。同僚の目だってある。先生、ちょっと無神経すぎます」
上川は横から強引に紙袋を奪うと、背中に子どもを庇うように声を低めて言う。
「由良さんは何年もここでがんばって仕事をしてきた。先生の気まぐれなんかで、彼女の経歴に瑕をつけないでいただきたい。……さ、お引き取りください」
そう言って、上川はきっと北条をにらみつけた。
「か、上川さん」
由良は北条のプライドに瑕をつけてしまわないかと、揺れた目で二人を見比べた。
でも北条は怒った素振りもなく、ただちょっと苦笑して言った。
「確かにここでいきなりは、無神経でしたね。ごめんなさい、由良さん」
「先生、そんな」
由良が慌てて首を横に振ると、北条は例の強い目で念を押した。
「でも、また誘います。気まぐれじゃないって、じきにわかってもらえると思いますよ」
そう言って、北条はにっこりと笑って見せた。
北条はちらと上川を見たものの、由良には朗らかに笑って、あっさりとその場を去っていった。
ドクターに送ってもらうのはいくら何でも職務の範囲外だと思ったし、北条の言葉が衝撃的で、それもどんな顔をしていいかわからなかったからだった。
北条は、素敵な人だと思う。優しくて、しっかりしていて、ちょっと強引なところに戸惑うけれど、惹かれ始めているのを感じている。
でも会社のドクターで、それも取締役なのだから。とても自分が釣り合うことなんてないと、うろたえてしまったのだった。
翌日出勤すると、企画部の同僚の言葉が耳に入ってくる。
「北条取締役に新商品の企画が通りました!」
「やったじゃないか。これでCEOにも採用されるな」
彼はCEO直々に大学病院から呼ばれた最年少の取締役で、CEOに厚い信頼を寄せられている。医療現場のことを熟知していて、医療従事者の社員からも尊敬されているから、オフィスでもその名前をよく聞く。
ただ、話題になるのはその仕事ぶりだけが理由じゃない。
「北条取締役が今朝、チョコレートの紙袋を持って出勤したんだって」
「え、誰、誰!? 誰にあげるの?」
手持ちの紙袋一つで注目されるくらい、常に女子社員の関心の的になっている。
三十五歳独身でドクター、由良も実際にお会いしたら優しい人だったから、女性は放っておかないだろう。
でも由良はそういう話を聞くにつけ、一医療部員の自分とは遠い世界の人なんだなぁと思っていた。
「期待しても無駄だと思うけどな。北条先生、仕事一筋の人だし」
昼休み、看護師の上川が女子社員たちのおしゃべりに眉をひそめて言った。
上川は男性の看護師で、十年間の病棟勤務歴を持つ生粋のナースマンだ。ドクターより患者に近い自身の仕事に誇りを持っていて、ドクターだからと怯んだりしない人だった。
由良はいつものように、自席で隣の上川と一緒にお弁当を食べながら言う。
「上川さんは、前の病院で北条先生とご一緒されていたんでしたね」
「うん。ドクターだからそりゃモテたけど、寄ってくる女性を煙たがってるのが見ててよくわかったな。誰かと付き合ってるみたいな話、聞いたことなかった」
上川は同僚としてという目で、北条のことを淡々と話す。
「だから調子悪かったら、遠慮なく医務室に行きなよ。昨日みたいにがまんしないでさ」
「……すみません」
昨日、医務室で休んでいることを上川に内線で伝えたら、彼は心配して様子を見に来てくれた。
上川はそのときにも言ってくれた言葉をもう一度由良にくれる。
「あと俺、看護師だから事務方の仕事はそれほどわからないけど、体力だけはあるからさ。頼ってくれていいからね」
「あ、ありがとうございます」
由良はほっとして、ぺこりと頭を下げてお礼を言った。
上川は大柄でその性格もさばさばしている。休日は基本サッカーをしている体力の持ち主で、仕事でも体力に自信のない由良のことをたびたび庇ってくれた。
「頭なんて下げなくていいって! ……もう、由良さんは」
上川は彼らしくもなく口の中で何かぼそぼそと言って、困ったように眉を下げた。
いい人だなぁと由良はほっこりしていて、オフィスがざわついたのに気付くのが遅れた。
その正体を知ろうと辺りを見回したときには、もうその人はすぐ側まで来ていた。
「珍しいですね、北条先生」
上川が立ち上がって、ビジネスライクに声をかけた先。そこに、北条が立っていた。
彼は医務室のドクターという意味では社員に近いけれど、取締役という役職がある。企画部のような花形ならともかく、由良の医療部はもっと上席の社員しか彼と会うことはない。由良などは長い間ホームページの写真でしか北条のことを知らなかったくらいだった。
「邪魔して悪いね、上川君」
北条も同僚に接する温度で上川にあいさつを返す。
それで、北条は由良に目を移した。由良は慌てて立ち上がる。
「お昼休みにごめんなさいね、由良さん」
声をかけられてますます恐縮して小さくなる由良に、何かが差し出される。
「お願いがあります。僕とディナーをご一緒しませんか」
それはプレゼント用のチョコレートの紙袋だった。今朝、同僚の女子社員の皆がうわさしていた紙袋。
「これは手土産にどうぞ」
中には紙袋と違わず、高そうなチョコレート専門店の紙包、それに小さなブーケとメッセージカードが添えられている。
何が起きているのだろう。プレゼントだということが理解できないまま、由良はたっぷり一分ほども硬直していた。
「あ、あの。頂けません」
由良はどうにか立ち直って、そっと北条に紙袋を押し返す。
「先生、電車で介抱してくださったから気にかけてくださってるんだと思います。でも先生が心配してくださってるなら、私、ちゃんとお医者さんにもかかりますから」
「患者だから気にかけているのではないですよ」
北条は苦笑して、由良をみつめたまま言う。
「由良さんだから食事に行きたいんです。……だめですか?」
北条にそう念を押されると、どうしてか由良はくすぐったいような思いがしてうなずきたくなってしまう。
いたずらっぽい北条の目と、差し出された袋。由良はオフィス中の注目を浴びているのも、一瞬忘れた。ただどきどきして、初めてのような感情に揺られた。
「由良さん、困ってますよ」
ふいになんだか不機嫌そうな声で、上川が口を挟んだ。
「取締役の立場から誘われたら断りづらいでしょ。同僚の目だってある。先生、ちょっと無神経すぎます」
上川は横から強引に紙袋を奪うと、背中に子どもを庇うように声を低めて言う。
「由良さんは何年もここでがんばって仕事をしてきた。先生の気まぐれなんかで、彼女の経歴に瑕をつけないでいただきたい。……さ、お引き取りください」
そう言って、上川はきっと北条をにらみつけた。
「か、上川さん」
由良は北条のプライドに瑕をつけてしまわないかと、揺れた目で二人を見比べた。
でも北条は怒った素振りもなく、ただちょっと苦笑して言った。
「確かにここでいきなりは、無神経でしたね。ごめんなさい、由良さん」
「先生、そんな」
由良が慌てて首を横に振ると、北条は例の強い目で念を押した。
「でも、また誘います。気まぐれじゃないって、じきにわかってもらえると思いますよ」
そう言って、北条はにっこりと笑って見せた。
北条はちらと上川を見たものの、由良には朗らかに笑って、あっさりとその場を去っていった。