まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中

5 星月夜の再会

 北条の食事の誘いの件は、幸いにもオフィスでそれほど騒がれなかった。
「大変だね。上川君、完全に保護者の顔してたもんね」
 どうやら上川が同僚たちに、「北条ドクターの気まぐれで一方的な誘い」と言い切ったらしく、周囲はそんな上川の剣幕に押されたようだった。
 元々由良は仕事で上川に庇ってもらうことが時々あったから、今回も上川に申し訳ない思いでいっぱいだった。一応十年勤務している身でありながら、子どものように背に庇ってもらったのが心苦しかった。
 でもそれ以上に、とっさに北条の誘いを断ってしまったのがもどかしかった。
 ……本当は、受け取りたかったなんて。なんて都合のいい言い訳だろうと自分で思うけれど、それが由良の本心だった。
 先生に言っていいのかわからないけれど、伝えたかった。それをくるくる考えているうちに、三日のときが過ぎていた。
 北条は取締役としての職務が忙しいらしく、由良は医務室の休診のお知らせを見た。北条は企画部の方で進めている新商品の話をCEOと詰めているらしく、社員寮の方にも帰っている様子がなかった。
 由良は部屋の排水管のことも、電車で助けてもらったことも、まだちゃんとお礼を言っていなかった。
 ある日の夜、由良は意を決して北条の部屋を訪ねた。お礼の菓子折と、北条がプライベートで着ていたクマのバスタオルを持って行った。
「いない……よね」
 でもここのところ忙しいらしい北条は留守にしていて、由良はしゅんとしながら北条の部屋を後にした。
 以前慌てて下りてきたときと違って、今日は靴も履いていて身支度もちゃんとしている。でも心は子どものように頼りないままで、探し物がみつからないような気分だった。
 雨は降っていなかったけれど、もう桜は散ってしまった。時刻は十時ごろで、当たり前だけど辺りはとうに静まり返っていた。
 会いたいな、とふいに思った。言葉を交わすのだって難しい立場の人だったのに、その気持ちは胸をノックするようにやって来た。
 そのとき、由良は自室の前に立つ人をみつけた。
「あ……!」
 一瞬、自分の身勝手な願望が見せた幻かと思った。それでも会いたい人で、由良は駆け出していた。
「北条先生……!」
 由良は息せき切って廊下を走ると、驚いて目を見開いている北条の前にやって来る。
「由良さん? どうして」
 由良は一度ごくんと息を呑んで、慌てる気持ちを精一杯抑えながら言う。
「えっと……! 先生、話したいことがいっぱいで、ちゃんと伝えられるかわからない、ですけど……」
 北条は会社から帰ったばかりらしく、スーツ姿で鞄も持っていた。彼が由良の部屋の前に立っている理由を訊くより、由良にはあふれそうな気持ちがあった。
「先生が食事に誘ってくださって、とてもうれしかった……!」
 由良は子どものようにまっすぐ北条を見て言うと、そんな自分が恥ずかしくなって口ごもる。
「……でも私、あんな風に……お、お姫様みたいに誘われるの、初めてで。どうしていいかわからなくて。うれしかったのに、後ずさりすることしか考えられなくて」
 由良はじわじわと赤くなって、自分の顔を隠すようにうつむく。
 ……でもこれはちゃんと言わなきゃ。そう思って、由良は口ごもりながら言う。
「わ、私も……好きで、いいですか? 先生のこと」
 北条が息を呑む気配がした。由良はこんなことを言って呆れられないかと焦りながら、必死で言葉を続ける。
「堂々とチョコレートも受け取れない、付き合うなんてまだ想像もできない私、ですけど……。先生と、これからこうして時々でも会えたら……今はそれだけで、幸せなんです」
 北条はちょっと自分の顔を擦ったようだった。由良にはまだその意味はわからなくて、押し付けるように菓子折とクマのバスタオルを手渡す。
「これ、お近づきの印に……受け取ってください! ありがとうございました!」
 子どものような告白をしてしまった。由良はかぁっと過熱した顔を持て余しながら、慌てて踵を返そうとする。
「ゆ、由良さん!」
 呼び止められて、由良は北条の顔を見れないまま足を止める。
 北条も慌てた様子で、由良に言葉をかけてくる。
「何て言っていいか……。い、いや、まちがいなく嬉しいんですけど。ちょっと幸せすぎて整理がつかなくて……」
 私のどもる癖、先生にうつっちゃった? 由良は混乱しながら恐る恐る北条の顔に目を移す。
 北条も少し顔が赤くなっていた。照れくさいような顔もしていた。由良はやっぱり自分のせいのような気がして、口の中でごめんなさいとつぶやく。
 北条は由良の前まで歩いて来て、そっと顔をのぞきこみながら言う。
「本当は今すぐ部屋に連れ込みたいような気持ちですけど。由良さんがそう言うなら……ご近所さんから始めましょう?」
 恥ずかしくて、どう言っていいかわからなくて、でもちょっと幸せで。由良はこくこくとうなずく。
 北条は由良より大人の落ち着きをもって、優しく言う。
「今日は、会えたらうれしいと思って来たんです。だからそれが叶って、僕もうれしかった。それで、明日も会いたい。そうやって、時間を重ねていきましょうか」
「はい……」
 北条は由良の手を取って、その手を両手で包んだ。
 由良ももう片方の手を北条の手に重ねて、口をむずむずさせながらうなずいた。
 その日は星がまたたく綺麗な夜で、温かな宵に包まれて、二人は長いこと恥ずかしげに手を重ねていた。
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