まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中

6 苦手な仕事と予期せぬ味方

 由良の春の仕事の山場は、アルバイトを総括して統計を提出することだ。 
 でも毎年のことではあるのだけど、人に指示する仕事というのが由良は苦手だった。
「これ、去年と違うよ。どうしてやり方を変えたの?」
 アルバイトにはもう十年来毎年のようにこの仕事に参加しているベテランもいて、由良のように数年ごとに変わる担当をよく思わない人もいる。
 由良はどもりながらどうにか説明しようとする。
「は、はい。今年はシステムの業者が変わったので、印字の位置を動かして……」
「だったら様式を全部変えなきゃいけないじゃない。間に合わなかったらどう責任を取るの?」
 長年同じ仕事をしていて、年齢も二十歳以上年上。それで資格も持っていない一事務員の由良にあれこれ指示されて気持ちがいいはずがない。自然と言葉がきつくなる。
 由良は冷や汗を流しながらうなずく。
「確認の上、また様式について説明します」
「由良さん、ちょっと。これ壊れたかも」
 別のアルバイトから呼ばれてパソコンをのぞき込むと、エクセルが大変なことになっていた。
 一方で、今年から雇われた人の中にはほとんどエクセルが触れない人もいる。
 由良は気づかれないように息を呑んで、焦る気持ちを押し殺しながらうなずく。
「私のパソコンからもう一度データを送りますね。マニュアルに従って、私と一緒に進めていきましょう」
「またやり直しなんだ。面倒くさい」
 由良はデータを転送するために、自分の席の方に戻ろうとする。
「マニュアル通りにやれってさ。上から目線だよね」
 分室は狭いから、彼女が小声で隣のアルバイトに言うのも全部聞こえる。
 でも黙々と、着実に進めてくれる人もいる。
「これお願いします」
「ありがとうございます」
 由良はそうして出来た成果物を受け取るたびに、仕事は大変だけどやりがいがあると思う。
 目標なんて、そんな簡単に達成できるものじゃない。だから焦らず少しずつ進めていかなきゃ。私、担当なんだから。由良はそう思いながら今日も仕事に向かう。
「由良さん、進捗はどう?」
 ファイルを見直していたら、北条が部屋に入って来たことに気づかなかった。
 由良はびっくりして慌てて立ち上がろうとすると、片手で制止される。
「いずれ僕のところに納品される統計だから、ちょっと見に来るくらいいいでしょう?」
 北条はいたずらっぽく笑うと、由良を座らせてパソコンを覗き込む。
 北条は由良の斜め後ろに立ってマウスを操作しながら、進捗状況を確認する。
 医務室では白衣だけど、取締役の仕事のときは北条はスーツとタイをきっちり身に着けている。
 新調のスーツなのか、近づくと生地のいい匂いがした。
「せ、先生。どうぞ座ってください」
 ……そういうこと考えてちゃだめだってば。由良は自己嫌悪に顔をしかめて、席を北条に譲ろうとする。
「すぐですから」
 でも北条は立ったまま、由良のまとめたデータに素早く目を通してしまった。由良はその間、近い距離にどきどきし通しだった。
 北条は少し考えて、涼し気な目で由良を見て言う。
「由良さん、感染症と生活習慣病の決定的な違いは?」
 何気なく訊かれた質問に、由良は緊張しながら答える。
「えと、体外に原因があるか、体内に原因があるかです」
「そう。そこが混ざってるところがありますね。だから原因で切り分けて、データを振り分けましょう」
「はい! わかりました」
 そこは由良がちゃんと理解できていなかった点だった。的確に整理されて、由良は大きくうなずく。
「こっちは今の方向性で十分。よく整理していますね」
 北条は印字した資料にもひととおり目を通して、ぽんと安心させるように言う。
「責任のことを今考えるのは早いですよ」
 由良がはっと息を呑むと、北条は苦笑しながら言った。
「これらはこれからいろんな過程でチェックが入って、部長がオーケーを出してから初めて資料になる。由良さんは今自分がやれることをやればいいんですよ」
 先生は本当によく見える目を持っている人なんだなぁと、由良は感服していた。
 アルバイトが由良に責任の言葉を使うたび、由良がぎくりとしていることに気付いた。北条は現場の経験が長いらしいが、それ以上にきっと感性が鋭い。
「また来ます。がんばってください」
「はい……」
 由良が表情をやわらげたのを確認して、北条も笑ったときだった。
「北条先生! 今日のお昼はいらっしゃいます?」
 ふいに若いアルバイトが北条に近づいて言った。
 晴香(はるか)という大学生は、服装もメイクも派手な子だった。パソコンに強いのはありがたいのだけど、すぐ男性社員に声をかけるところがあった。
 北条は由良に見せた笑顔を消して、ひどくビジネスライクに返した。
「僕はこれから外回りなので」
「残念! じゃ、明日どうですか? お弁当作ってきますから!」
 晴香はぐいぐい押して、何とか北条をつかまえようとする。
 由良はそそくさと部屋の隅に書類を取りに行きながら、内心では彼女のことがうらやまくて仕方なかった。
 若さなのか、そういう性格なのか。自分から男の人を食事に誘うのは、由良にはハードルが高すぎてできない。
 ……北条先生と二人でお昼ごはん、いいなぁ。そんなことをぼんやり思うだけで、会社では北条に話しかけるには心の中でリハーサルしないとできないと思う。
 でも北条は淡々と、でも力をこめて言った。
「ごめんなさい。僕、好きな人いるので」
 思わずこくんと息を呑んだ由良に気づいたのか、北条は小さく笑ったような気がした。
「それでは。大変だとは思いますが、引き続きよろしくお願いしますね」
 誰にも不平等にならないように全員のアルバイトを労うと、北条はあっさりと外回りに出かけていった。
 北条が出て行った後、晴香は年上のアルバイトに苦笑いされていた。
「ちょっと目標が高すぎるんじゃないの。相手にされてないわよ」
「だってできたらイケメンがいいじゃん!」
 晴香は頬をふくらませて断言する。
「ここで結婚相手をつかまえないと、あたし、そろそろ就職活動しなきゃいけないもん。働きたくないし」
 そういう年なんだなと、由良はタイプを打ちながら遠い目をした。
 働きたくない。その言葉は、時々聞こえてくる。由良も就職活動が大変だったから、逃げたい気持ちもあった。ただその代替案として結婚を選べるほど、相手がいなかっただけで。
「お疲れ。進んでる?」
 まもなく上川がやって来て、由良は彼にもデータを見てもらう。上川は医療従事者としての目で熱心に見てくれて、印字した資料もまるごと持って行ってチェックしてくれることになった。
「上川さん、お昼一緒にどうです?」
 晴香は、上川にも声をかけた。年配のアルバイトには白けた目をする人もいたが、由良はその熱意に感心した。
 上川は一瞬考える素振りを見せて視線をさまよせる。どうしてか由良と目が合った。
 でも上川は苦笑して、明るく声を上げる。
「おっけー。行こっか!」
 上川は朗らかにうなずいて、早速彼女と携帯番号を交換していた。
 それくらいの勢いがないと結婚ってできないんだろうな。由良はどうにも苦い気持ちで、壊れたエクセルファイルの修復に戻った。
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