〜Midnight Eden Sequel〜【Blue Hour】
他にも気になった事がある。ここに集まる宮越の作品のすべてに共通して、絵の右下に大人の親指程度の大きさの印鑑が押されていた。
『絵の右下の印鑑には何の意味が?』
「あれは落款印《らっかんいん》と言います。一般的には日本画に押される印鑑で、画家のサインのようなものです」
芸術方面に無知な九条を小馬鹿にするでもなく、綾菜は丁寧に九条の疑問に答えてくれる。理知的な美人ゆえに第一印象はとっつきにくさを与えるが、絵の話をしている時の彼女は無邪気な少女のようにも見えた。
九条はカウンターに最も近い壁に飾られた絵画の右下に目を凝らす。視力の良い両目は、落款印の柄を正確に捉えていた。
『押されている絵柄はトンボですか?』
「よくわかりましたね。でも普通のトンボじゃなくて赤トンボの絵なんです。宮越先生のご家庭の境遇が童謡の赤とんぼを作詞した三木露風《みき ろふう》と似ているらしくて、露風にシンパシーを感じられた先生は昔から赤トンボの落款印をサイン代わりに作品に入れています。赤トンボは先生のアイデンティティなんですよ」
綾菜との雑談が赤トンボの話に帰結したタイミングで九条の手元にアップルサンライズが到着した。
こうしてバーで酒を楽しむ夜はいつぶりだろう。警視庁に異動となって以降の忙殺《ぼうさつ》された日々では、余暇の夜にわざわざ出掛けようとも思わなくなった。
アップルサンライズのグラスの横に綾菜の手で一枚のコースターが並べられた。コースターならすでにグラスの下に敷いてあるし、追加で注文した品もない。
怪訝な顔で九条が手にしたコルクのコースターには、黒のサインペンで文字が書かれていた。
〈閉店後に外で待っていてください。話があります。〉
人差し指を口元に当てた綾菜は、真意を問う九条の視線を微笑で受け流すと、他の客の接客に行ってしまった。
声に出さずこうして内密に伝えてくる彼女の態度から察するに、“話”とは宮越には聞かれたくない話?
二階堂の殺人事件に関する話だとは思うが、あの意味深な微笑が気にかかる。
客との歓談を終えた宮越がカウンターに現れた。秘密の約束が記されたコースターは宮越の目に触れる前に、九条の上着のポケットに沈んでいく。
『先日はどうも。私共の疑いは晴れましたかな?』
『今はプライベートですので、その件については何も……』
どうにもこの巨匠相手には緊張が伴う。政治家や地元の名士など、その類の連中を相手にする時と同じ感覚だった。
奴らはこちらが一歩対応を間違えれば、へそを曲げて二度と口を開かない。警察は自分の盾となり下僕となる、取り替え可能の兵隊だと思って見下している。
『絵の右下の印鑑には何の意味が?』
「あれは落款印《らっかんいん》と言います。一般的には日本画に押される印鑑で、画家のサインのようなものです」
芸術方面に無知な九条を小馬鹿にするでもなく、綾菜は丁寧に九条の疑問に答えてくれる。理知的な美人ゆえに第一印象はとっつきにくさを与えるが、絵の話をしている時の彼女は無邪気な少女のようにも見えた。
九条はカウンターに最も近い壁に飾られた絵画の右下に目を凝らす。視力の良い両目は、落款印の柄を正確に捉えていた。
『押されている絵柄はトンボですか?』
「よくわかりましたね。でも普通のトンボじゃなくて赤トンボの絵なんです。宮越先生のご家庭の境遇が童謡の赤とんぼを作詞した三木露風《みき ろふう》と似ているらしくて、露風にシンパシーを感じられた先生は昔から赤トンボの落款印をサイン代わりに作品に入れています。赤トンボは先生のアイデンティティなんですよ」
綾菜との雑談が赤トンボの話に帰結したタイミングで九条の手元にアップルサンライズが到着した。
こうしてバーで酒を楽しむ夜はいつぶりだろう。警視庁に異動となって以降の忙殺《ぼうさつ》された日々では、余暇の夜にわざわざ出掛けようとも思わなくなった。
アップルサンライズのグラスの横に綾菜の手で一枚のコースターが並べられた。コースターならすでにグラスの下に敷いてあるし、追加で注文した品もない。
怪訝な顔で九条が手にしたコルクのコースターには、黒のサインペンで文字が書かれていた。
〈閉店後に外で待っていてください。話があります。〉
人差し指を口元に当てた綾菜は、真意を問う九条の視線を微笑で受け流すと、他の客の接客に行ってしまった。
声に出さずこうして内密に伝えてくる彼女の態度から察するに、“話”とは宮越には聞かれたくない話?
二階堂の殺人事件に関する話だとは思うが、あの意味深な微笑が気にかかる。
客との歓談を終えた宮越がカウンターに現れた。秘密の約束が記されたコースターは宮越の目に触れる前に、九条の上着のポケットに沈んでいく。
『先日はどうも。私共の疑いは晴れましたかな?』
『今はプライベートですので、その件については何も……』
どうにもこの巨匠相手には緊張が伴う。政治家や地元の名士など、その類の連中を相手にする時と同じ感覚だった。
奴らはこちらが一歩対応を間違えれば、へそを曲げて二度と口を開かない。警察は自分の盾となり下僕となる、取り替え可能の兵隊だと思って見下している。