〜Midnight Eden Sequel〜【Blue Hour】
玉川通りに繋がる細道をふたつの人影が進む。九条の数歩先を歩く綾菜は都会のビルの隙間から顔を出した白い月を見上げていた。
「月が綺麗ね」
『そうだな』
「こんなに月が綺麗だと、なんだか神様にお膳立てしてもらっているみたい」
両手を横に広げてふらふらと踊るように歩く彼女はどこから見ても正真正銘の酔っ払いなのに、振り向きざまに見せた微笑は少女みたいで。
少女になったり女になったり。忘れられない女に似ていたり似ていなかったり。
『神様なんかいやしねぇよ』
「神様を信じない人?」
『昔は馬鹿の一つ覚えみたいに信じていた時もあったけどな。色んな不条理を経験して、そんなもんを信じられなくなった人』
涙の予兆を感じたのは、月の綺麗さが目に染みたから。
会えない女《ひと》に会いたいと願ってしまったのは、目の前の彼女があまりにもその女《ひと》に似ていたから。
「ねぇ、今から私、あなたにキスするつもりなんだけど」
『……キスを宣言する女に初めて会った』
「キスしたいなって思ったからバーを出る前に口紅塗り直さなかったの。口紅塗りたてでキスすると、相手の唇に色移りしちゃうでしょ。これでも気を遣ってあげたわけ」
果たしてそれは気遣いと言えるのか、それはどうもと感謝すべきなのか。綾菜の物言いが可笑しくて自然と緩んだ九条の唇に、彼女の人差し指が押し当てられた。
「だからちょっと屈んでくれない? このままだと私はどのくらい背伸びすればいいの?」
おそらく日本女性の平均身長である綾菜が長身の九条の唇を迎えに行くには、ヒールのある靴を履いていても背丈が足らない。
ワガママな女王様の唇が“早く迎えに来て”とせがんでいる。
「私ね、きっと九条さんのこと好きになる」
『告白されてるのか、されてないのかわかんねぇな』
「九条さんは真面目なのよ。恋や愛なんて、これくらい不純で不真面目な方が幸せになれるものよ」
綾菜の要求に逆らわずに身を屈めてしてしまったのも、彼女を受け入れてしまったのも全部、酒のせいだ。
柔らかな接触を繰り返す。軽く擦り合わせるだけだった唇同士は、やがてもっと深い場所で繋がった。彼女が吸っていた煙草の味と、酒を含んだ互いの唾液が交ざって溶けて、絡めた舌先からは湿潤の音色が幾度も溢れた。
腕に収めた華奢な身体が縋《すが》りついてくる。久々に感じた女の乳房の丸みや柔《やわ》さが、心の奥に封じた情欲を煽った。
満月に似た丸い月がこちらを見ている。
忘れられない女は夜が似合う女だった。九条を太陽と称した彼女は、太陽ではなく月が似合う女だった。
太陽が己の輝きを鈍らせる頃に月は昇る。どうしたって太陽と月は同じ空では輝けない。
この唇は手に入らなかった愛しいあの女とは違うのに、いつまでもいつまでも、彼は“彼女”を欲しがった。
残像を重ねて、手を重ねて、唇を重ねて、吐息を重ねる。
酔っている自覚はあった。そう、これは全部、酒のせいだ。
酒のせいだけに……しておきたかった。
「月が綺麗ね」
『そうだな』
「こんなに月が綺麗だと、なんだか神様にお膳立てしてもらっているみたい」
両手を横に広げてふらふらと踊るように歩く彼女はどこから見ても正真正銘の酔っ払いなのに、振り向きざまに見せた微笑は少女みたいで。
少女になったり女になったり。忘れられない女に似ていたり似ていなかったり。
『神様なんかいやしねぇよ』
「神様を信じない人?」
『昔は馬鹿の一つ覚えみたいに信じていた時もあったけどな。色んな不条理を経験して、そんなもんを信じられなくなった人』
涙の予兆を感じたのは、月の綺麗さが目に染みたから。
会えない女《ひと》に会いたいと願ってしまったのは、目の前の彼女があまりにもその女《ひと》に似ていたから。
「ねぇ、今から私、あなたにキスするつもりなんだけど」
『……キスを宣言する女に初めて会った』
「キスしたいなって思ったからバーを出る前に口紅塗り直さなかったの。口紅塗りたてでキスすると、相手の唇に色移りしちゃうでしょ。これでも気を遣ってあげたわけ」
果たしてそれは気遣いと言えるのか、それはどうもと感謝すべきなのか。綾菜の物言いが可笑しくて自然と緩んだ九条の唇に、彼女の人差し指が押し当てられた。
「だからちょっと屈んでくれない? このままだと私はどのくらい背伸びすればいいの?」
おそらく日本女性の平均身長である綾菜が長身の九条の唇を迎えに行くには、ヒールのある靴を履いていても背丈が足らない。
ワガママな女王様の唇が“早く迎えに来て”とせがんでいる。
「私ね、きっと九条さんのこと好きになる」
『告白されてるのか、されてないのかわかんねぇな』
「九条さんは真面目なのよ。恋や愛なんて、これくらい不純で不真面目な方が幸せになれるものよ」
綾菜の要求に逆らわずに身を屈めてしてしまったのも、彼女を受け入れてしまったのも全部、酒のせいだ。
柔らかな接触を繰り返す。軽く擦り合わせるだけだった唇同士は、やがてもっと深い場所で繋がった。彼女が吸っていた煙草の味と、酒を含んだ互いの唾液が交ざって溶けて、絡めた舌先からは湿潤の音色が幾度も溢れた。
腕に収めた華奢な身体が縋《すが》りついてくる。久々に感じた女の乳房の丸みや柔《やわ》さが、心の奥に封じた情欲を煽った。
満月に似た丸い月がこちらを見ている。
忘れられない女は夜が似合う女だった。九条を太陽と称した彼女は、太陽ではなく月が似合う女だった。
太陽が己の輝きを鈍らせる頃に月は昇る。どうしたって太陽と月は同じ空では輝けない。
この唇は手に入らなかった愛しいあの女とは違うのに、いつまでもいつまでも、彼は“彼女”を欲しがった。
残像を重ねて、手を重ねて、唇を重ねて、吐息を重ねる。
酔っている自覚はあった。そう、これは全部、酒のせいだ。
酒のせいだけに……しておきたかった。