ハイスペ上司の好きなひと
「…っ」
飛鳥が声を失った隙に手を払い、すみませんと言い放ちすぐに部屋を出た。
視界がはっきりしなくて飛鳥の表情はわからなかった。
けれど確実にこちらの顔は見られてしまった。
この涙を、彼はどう捉えられただろう。
感のいい彼の事だ、恐らくこちらの気持ちには気付いてしまったに違いない。
歩みを進め、そのまま勢いよく女子トイレの個室まで入ってその場でうずくまった。
声を押し殺してどんなに拭っても止まらない涙を流しながら、ひたすらに泣いた。
人前で涙を見せたのなんて初めてだった。
でもきっと、これが最初で最後になる。
始まるより前に終わってしまった恋なんて、もうどうしようもないのだから。
結局その日は昼を食べ損ね、泣き腫らした目をどうにかメイクで誤魔化して午後の業務を乗り切った。
予定通りに定時で退社し、その足で上京した母を駅まで迎えに行き2人で自宅へ帰った。
この時初めて母に心から感謝の気持ちを抱いたのは言うまでもない。
何かと小言のうるさい母のおかげで1人で孤独な夜を越すことも、布団の中でさめざめと泣くことも無かったから。
けれどその夜、母と共に寝静まった後のこと。
薄暗く何も無い中で1人、紫は小さな箱を持って立っていた。
それが夢であることはすぐに気付いた。
夢の中の自分はおもむろに胸元に手を当てると、心の内で燻り続けていた恋心を静かに取り出し、それを箱の中に詰め込こんだ。
そして蓋をすると、それを抱き締めて泣いた。
自分の事のはずなのに他人事のようなその光景に、なぜか紫は無感情のままそれを眺めているだけだった。