夏の序曲
第17話 夏休みの再会
文化祭が終わり、翠峰高校は夏休みに突入した。コンクールを目前に控え、ブラスバンド部は練習漬けの毎日だ。試験勉強も夏休みが勝負だが、悠斗も朝から夕方まで楽器に向き合っていた。
夏休みの朝、悠斗は校門が開くと同時に自転車を停め、部室へと向かう。錬と二人で朝の自主練を開始するのが日課になっていた。ひっそりとした校舎の中、トランペットのロングトーンとトロンボーンの低音が響く。やがて他の部員たちも集まり始め、部室は熱気に包まれていく。
午前中はパート練習が中心だ。それぞれのセクションで苦手なフレーズや細かい音の調整に取り組む。悠斗はトランペットパートの後輩たちに指導しつつ、自身の技術も磨いていた。錬もまたトロンボーンセクションで後輩たちを引っ張りながら、低音のハーモニーを支えている。
午後になると、部員たちは小ホールでの全体練習に臨む。木村遥が指揮棒を振り、自由曲「アパラチアン序曲」の中間部を重点的に合わせていく。テンポの調整や音量のバランス、各パートの役割が指摘されるたびに、部員たちは譜面にメモを取り、次の演奏に備えた。
夕方になると練習が終わり、部員たちはそれぞれ自主練を始める。悠斗もいつものように部室に残り、自主練を続けていた。
夏休みの練習は日ごとに本番へ向けた緊張感を増していた。日々の練習を重ねるうちに、部員たちの息も徐々に合い始め、曲の完成度が高まっていく。
そんな中で迎えたある日、部活の練習を終えた悠斗は、自転車でいつもの帰り道を走っていた。駅の近くまで来ると、見覚えのある後ろ姿が視界に入った。
悠斗はペダルを漕ぐ足を緩め、そのまま紗彩に追いついた。
「お疲れ、紗彩。」悠斗が声をかけると、紗彩は振り返り、軽く手を振った。
「悠斗!お疲れ様。遅い時間だね。」
紗彩の歩調に合わせるように、悠斗は自転車を降りて横に並んだ。
「そっちも練習だったのか?」
「うん。夏休み明けには、秋の定期演奏会もあるしね。」
紗彩は微笑みながら言い、額の汗を軽く拭った。その何気ない仕草に、悠斗はふと目をそらした。
「そっか。でも、こっちはコンクールもあるから、正直プレッシャー半端ないよ。」
悠斗が苦笑いを浮かべると、紗彩は少し驚いた表情を見せた。
「コンクールの練習って、そんなに大変なんだ?」
「曲が難しいし、練習時間がいくらあっても足りない感じだよ。そっちはそんなに追い込んでないの?」
悠斗が尋ねると、紗彩は考えるように視線を上げた。
「うーん、うちはコンクールには出ないからね。そこまで切羽詰まってる感じじゃないかも。でも、演奏会の曲も簡単じゃないから、やっぱり大変だよ。」
紗彩が言葉を続けると、悠斗はふっと笑った。
「まあ、どこも大変なのは一緒か。結局、みんな頑張ってるよな。」
「そうだね。」
紗彩も笑顔を見せながら頷いた。
しばらく黙って歩いていた紗彩が、ふと思い出したように話し出した。
「そういえば、美玖がね、最近ちょっと元気なさそうなんだ。」
「美玖?」悠斗は自転車を押す手を止め、紗彩の顔を見た。
「うん。錬くんとはLINEでやり取りしてるみたいだけど、部活が忙しくて全然会えないみたいでさ。」
「そっか…。錬、朝から夕方まで部活詰めだしな。」悠斗は苦笑しながら答えた。
「俺たちも同じだけど、あいつが美玖と会う時間を作るのは正直きついよな。」
「そうなんだよね。美玖もそれは分かってるとは思うけど…寂しそうにしてる。」
紗彩の声には後輩への気遣いが滲んでいた。
悠斗はふと立ち止まり、夕暮れの空を見上げた。
「…俺、あの時、錬が練習に集中できなくなるかもって心配してたけどさ。」
紗彩も足を止め、悠斗を見上げた。
「それって、俺の視点だけで考えてたんだよな。」
「どういうこと?」
悠斗は自転車のハンドルを握り直し、言葉を選ぶように続けた。
「錬のことしか考えてなかったってこと。練習の邪魔にならないかとか、部活に支障が出ないかとか…美玖の気持ちなんて、全然考えられてなかったんだ。」
紗彩は少し驚いたように眉を上げたが、やがて優しい声で言った。
「でも、それって悠斗が部活を真剣に考えてるからじゃない?悪いことじゃないと思うけど。」
悠斗は小さく息を吐いた。
「そうだけど…。自分勝手だったなって思うよ。あの時は、考えも及ばなかったけど、こうやって美玖が寂しい思いをしてると聞くと、なんかもやもやする。」
紗彩はしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「そういうことに気づける悠斗は、ちゃんとした人だよ。」
「そうかな。」悠斗は少し照れくさそうに目をそらした。
二人は再び歩き出した。夕焼けが街灯に変わり始める中、悠斗の胸の中にも少しの軽さが戻っていた。
「…まあ、練習が終わるまでは、美玖にはもう少し我慢してもらうしかないよな。」
悠斗が呟くと、紗彩は頷いて明るく笑った。
「そうだね。でも、私もフォローしておくよ。大丈夫、なんとかなるから。」
その笑顔を見た悠斗は、小さく頷きながら歩みを進めた。いつもとは少し違う静かな感覚が、胸の奥に広がっていくのを感じた。
帰宅した悠斗は、トランペットケースを部屋の隅に置き、机に向かった。いつものように練習ノートを軽く確認し、参考書と単語帳を開く。
「まずは英単語からだな。」
鉛筆を握り、単語帳を見ながら意味を確認する。記憶が確実でない単語は、ノートに意味を書き写していく。習慣となった勉強のリズムが、少しずつ集中を引き寄せていくようだった。
だが、ふと手が止まる。
紗彩の笑顔が、まるで目の前に現れるかのように脳裏に浮かんだ。
(今日は偶然だったけど…明日も同じ時間に帰れば、また会えるかもしれない。)
そんな考えが胸をよぎり、心が小さく弾む感覚に気づく。
だが、すぐに首を振った。
(何考えてるんだ、俺。別にそういうんじゃないだろ。)
自分に言い聞かせようとするものの、夕焼けの中で笑う紗彩の表情が何度も頭をよぎる。鉛筆を持つ手に力が入らず、結局そのまま机に置いてしまった。
悠斗は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
心の奥から湧き上がるこの思いを、はっきりと言葉にするのが少し怖かった。それでも、帰り道での紗彩の笑顔と、彼女が何気なく見せた気遣いの一つ一つが、悠斗の心を静かに揺らしていた。
夏休みの朝、悠斗は校門が開くと同時に自転車を停め、部室へと向かう。錬と二人で朝の自主練を開始するのが日課になっていた。ひっそりとした校舎の中、トランペットのロングトーンとトロンボーンの低音が響く。やがて他の部員たちも集まり始め、部室は熱気に包まれていく。
午前中はパート練習が中心だ。それぞれのセクションで苦手なフレーズや細かい音の調整に取り組む。悠斗はトランペットパートの後輩たちに指導しつつ、自身の技術も磨いていた。錬もまたトロンボーンセクションで後輩たちを引っ張りながら、低音のハーモニーを支えている。
午後になると、部員たちは小ホールでの全体練習に臨む。木村遥が指揮棒を振り、自由曲「アパラチアン序曲」の中間部を重点的に合わせていく。テンポの調整や音量のバランス、各パートの役割が指摘されるたびに、部員たちは譜面にメモを取り、次の演奏に備えた。
夕方になると練習が終わり、部員たちはそれぞれ自主練を始める。悠斗もいつものように部室に残り、自主練を続けていた。
夏休みの練習は日ごとに本番へ向けた緊張感を増していた。日々の練習を重ねるうちに、部員たちの息も徐々に合い始め、曲の完成度が高まっていく。
そんな中で迎えたある日、部活の練習を終えた悠斗は、自転車でいつもの帰り道を走っていた。駅の近くまで来ると、見覚えのある後ろ姿が視界に入った。
悠斗はペダルを漕ぐ足を緩め、そのまま紗彩に追いついた。
「お疲れ、紗彩。」悠斗が声をかけると、紗彩は振り返り、軽く手を振った。
「悠斗!お疲れ様。遅い時間だね。」
紗彩の歩調に合わせるように、悠斗は自転車を降りて横に並んだ。
「そっちも練習だったのか?」
「うん。夏休み明けには、秋の定期演奏会もあるしね。」
紗彩は微笑みながら言い、額の汗を軽く拭った。その何気ない仕草に、悠斗はふと目をそらした。
「そっか。でも、こっちはコンクールもあるから、正直プレッシャー半端ないよ。」
悠斗が苦笑いを浮かべると、紗彩は少し驚いた表情を見せた。
「コンクールの練習って、そんなに大変なんだ?」
「曲が難しいし、練習時間がいくらあっても足りない感じだよ。そっちはそんなに追い込んでないの?」
悠斗が尋ねると、紗彩は考えるように視線を上げた。
「うーん、うちはコンクールには出ないからね。そこまで切羽詰まってる感じじゃないかも。でも、演奏会の曲も簡単じゃないから、やっぱり大変だよ。」
紗彩が言葉を続けると、悠斗はふっと笑った。
「まあ、どこも大変なのは一緒か。結局、みんな頑張ってるよな。」
「そうだね。」
紗彩も笑顔を見せながら頷いた。
しばらく黙って歩いていた紗彩が、ふと思い出したように話し出した。
「そういえば、美玖がね、最近ちょっと元気なさそうなんだ。」
「美玖?」悠斗は自転車を押す手を止め、紗彩の顔を見た。
「うん。錬くんとはLINEでやり取りしてるみたいだけど、部活が忙しくて全然会えないみたいでさ。」
「そっか…。錬、朝から夕方まで部活詰めだしな。」悠斗は苦笑しながら答えた。
「俺たちも同じだけど、あいつが美玖と会う時間を作るのは正直きついよな。」
「そうなんだよね。美玖もそれは分かってるとは思うけど…寂しそうにしてる。」
紗彩の声には後輩への気遣いが滲んでいた。
悠斗はふと立ち止まり、夕暮れの空を見上げた。
「…俺、あの時、錬が練習に集中できなくなるかもって心配してたけどさ。」
紗彩も足を止め、悠斗を見上げた。
「それって、俺の視点だけで考えてたんだよな。」
「どういうこと?」
悠斗は自転車のハンドルを握り直し、言葉を選ぶように続けた。
「錬のことしか考えてなかったってこと。練習の邪魔にならないかとか、部活に支障が出ないかとか…美玖の気持ちなんて、全然考えられてなかったんだ。」
紗彩は少し驚いたように眉を上げたが、やがて優しい声で言った。
「でも、それって悠斗が部活を真剣に考えてるからじゃない?悪いことじゃないと思うけど。」
悠斗は小さく息を吐いた。
「そうだけど…。自分勝手だったなって思うよ。あの時は、考えも及ばなかったけど、こうやって美玖が寂しい思いをしてると聞くと、なんかもやもやする。」
紗彩はしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「そういうことに気づける悠斗は、ちゃんとした人だよ。」
「そうかな。」悠斗は少し照れくさそうに目をそらした。
二人は再び歩き出した。夕焼けが街灯に変わり始める中、悠斗の胸の中にも少しの軽さが戻っていた。
「…まあ、練習が終わるまでは、美玖にはもう少し我慢してもらうしかないよな。」
悠斗が呟くと、紗彩は頷いて明るく笑った。
「そうだね。でも、私もフォローしておくよ。大丈夫、なんとかなるから。」
その笑顔を見た悠斗は、小さく頷きながら歩みを進めた。いつもとは少し違う静かな感覚が、胸の奥に広がっていくのを感じた。
帰宅した悠斗は、トランペットケースを部屋の隅に置き、机に向かった。いつものように練習ノートを軽く確認し、参考書と単語帳を開く。
「まずは英単語からだな。」
鉛筆を握り、単語帳を見ながら意味を確認する。記憶が確実でない単語は、ノートに意味を書き写していく。習慣となった勉強のリズムが、少しずつ集中を引き寄せていくようだった。
だが、ふと手が止まる。
紗彩の笑顔が、まるで目の前に現れるかのように脳裏に浮かんだ。
(今日は偶然だったけど…明日も同じ時間に帰れば、また会えるかもしれない。)
そんな考えが胸をよぎり、心が小さく弾む感覚に気づく。
だが、すぐに首を振った。
(何考えてるんだ、俺。別にそういうんじゃないだろ。)
自分に言い聞かせようとするものの、夕焼けの中で笑う紗彩の表情が何度も頭をよぎる。鉛筆を持つ手に力が入らず、結局そのまま机に置いてしまった。
悠斗は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
心の奥から湧き上がるこの思いを、はっきりと言葉にするのが少し怖かった。それでも、帰り道での紗彩の笑顔と、彼女が何気なく見せた気遣いの一つ一つが、悠斗の心を静かに揺らしていた。