夏の序曲

第18話 卒業生の来訪

夏の日差しが強く照りつける中、部員たちがパート練習を始める頃、部室の扉が静かに開いた。
「お邪魔します。」
その落ち着いた声に、部室の空気が一瞬静まり返った。振り返った部員たちの視線の先には、高橋凛先輩が立っていた。
黒髪をきっちりとまとめ、シンプルで上品な私服に身を包んだその姿は、どこか凛々しくも穏やかなオーラを漂わせている。音楽大学に進学し、オーケストラで活躍する先輩の登場に、部室内はざわめきが広がった。
宮原結衣が真っ先に立ち上がり、嬉しそうに頭を下げた。
「先輩、今日はありがとうございます!お忙しいのに…!」
凛先輩は柔らかな微笑みを浮かべながら答えた。
「皆が頑張っているって聞いたから、少しでも力になれればと思ってね。」
その言葉に、部員たちの視線が期待と緊張で凛先輩に注がれる。
凛先輩の来訪が告げられると、部員たちはそれぞれのパート練習に向かい始めた。
「じゃあ、フルートのパート練習にお邪魔するわ。」
凛先輩が柔らかく微笑みながら宮原結衣に目を向けると、結衣は少し緊張した様子で頷いた。
「よろしくお願いします!」
フルートパートのメンバーが自然と凛先輩を囲むように集まり、練習室に向かう。結衣はその背中を真っ直ぐに伸ばしながら先頭に立った。
悠斗はその様子を横目で見送りつつ、トランペットパートのメンバーに声をかけた。
「さあ、こっちも行くぞ。冒頭部分から音を揃えていこう。」

2時間後、トランペットパートの練習を終え、悠斗はメンバーを伴って部室に戻った。部室では、先に戻った宮原結衣が凛先輩と話をしているのが目に入る。
結衣の顔には少し汗が浮かび、いつもの落ち着いた表情の中にも柔らかな笑みが浮かんでいた。その様子から、充実した練習だったことが窺えた。
凛先輩も、どこか満足げに結衣の言葉に耳を傾けている。悠斗は、凛先輩に挨拶をするため、そちらに歩み寄った。

午後の全体練習が始まると、部員たちは小ホールに集まり、自由曲「アパラチアン序曲」を合わせ始めた。
指揮台には木村が立つ。凛先輩は、パイプ椅子を取り出して座り、部全体の演奏を見守っている。冒頭のファンファーレが響き渡ると、凛先輩の視線が鋭く動き、気になる箇所で時折メモを取っていた。
練習が一通り終わると、凛先輩は前に出て部員たちに向けて声をかけた。
「全体の流れはいいけど、細かい部分で改善できるところがあるわね。特に中間部、木管が旋律を引き継ぐ部分は、もう少し控えめに入って徐々に盛り上げる感じにすると、全体が引き締まると思う。」
凛先輩の言葉に、木村がすぐに頷いた。
「了解です。そこを意識してもう一度合わせましょう。」
その後も練習は続き、凛先輩の具体的なアドバイスで部員たちの演奏は徐々にまとまりを見せていった。
夕方、全体練習が終わると、凛先輩が軽く手を振りながらホールを後にした。
「コンクール、頑張ってね。期待してるわ。」
部員たちの間から「ありがとうございました!」という声が飛び交い、ホール内には緊張感と充実感が残った。

練習後、部室に戻った悠斗は自主練の準備を整えながら時計に目をやった。
(昨日と同じ時間に帰れば…また紗彩に会えるかもしれない。)
そんな考えがふと頭をよぎり、悠斗は自分の思考に驚いた。
(何を考えてるんだ、俺。練習に集中しないと。)
軽く頭を振り、ロングトーンの練習に集中しようとするが、時間を気にする自分がどこかにいる。
「…よし、あともう少しだけやって帰ろう。」
 そう自分に言い聞かせ、練習の集中を取り戻そうとする。紗彩に会えるかもしれない期待と、コンクールに向けた真剣な気持ちが心の中でせめぎ合っていた。
 (そろそろかな。)
悠斗はトランペットをケースに収め、立ち上がって部室を後にした。
外に出ると、夏の夕焼けが空を赤く染めている。

練習が終わり、日が傾き始めた校舎を後にする。いつもの帰り道、悠斗は自転車を漕ぎながら、自然と視線を駅の方向へ向けていた。
(今日も、紗彩に会えるかな。)
駅に近づくと、紗彩の姿が見えた。小さく手を振る紗彩に、悠斗も笑みを返しながら自転車を停める。
二人はいつものように駅からの道を並んで歩き始める。紗彩が部活の話をすると、悠斗もそれに応じてブラスバンド部の近況を話す。何でもない会話の中に、どこか心地よい空気が流れていた。
「じゃあ、またね。」
最後の曲がり角で別れるとき、紗彩が軽く手を振った。悠斗も同じように手を振り返す。それが自然なやり取りになっていることに気付くと、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
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