夏の序曲

第20話 夏休みの終わり

夏休み最終日、ブラスバンド部の練習は大会本番まで1週間を切った仕上げ段階に入っていた。 部員たちは午前中のパート練習で、それぞれのセクションの難所や細かな表現の修正に集中し、午後の全体練習に備えていた。

午後、ホールに集まった部員たちが全体練習をしていると、扉が開き、顧問の田嶋一樹が姿を見せた。普段あまり練習に顔を出さない田嶋の登場に、部員たちの間に一瞬の緊張が走る。
演奏が終わると、木村遥が指揮台から降りて田嶋に近づいた。
「先生、今日は指揮をされるんですか?」
木村が控えめに尋ねると、田嶋は首を横に振りながら答えた。
「いや、今日は仕上がりを確認しに来たんだ。もう一度、最後まで通してみてくれ。」
その言葉に、木村は頷きながら指揮棒を握り直す。部員たちが再び準備を整え始めたとき、滝沢がすっと動いた。
彼は隅に置かれていたパイプ椅子を持ち上げると、田嶋の前に置いて一言。
「どうぞ、先生。」
「ありがとう。」
田嶋は短く応じると椅子に腰を下ろした。その自然なやりとりを横目に、悠斗は心の中で呟いた。
(こういうとこ、滝沢は本当に気が利くよな。)
部員たちが楽器を構え終えると、木村が指揮台に上がり、指揮棒を振り上げた。全体練習が再び始まり、ホールには緊張感の中に響き渡る音楽が満ちていった。

演奏が終わると、田嶋が静かに立ち上がり、前に出て部員たちに向けて数点の指摘を始める。
「全体的にはよくまとまっている。ただ、ここは…」
田嶋の声は低いがしっかりと通り、部員たちは真剣な表情で耳を傾ける。その中で、悠斗は自分の楽譜にペンを走らせ、指摘されたポイントをメモしていた。
再び演奏が始まると、部員たちはさっきよりも一段と集中し、音に細やかな注意を払っているのが伝わった。演奏が終わるたびに田嶋の声が響き、その都度部員たちは譜面を見直し、音の表情やリズムを確認していく。
練習が終わりに近づく頃、田嶋が椅子から立ち上がり、指揮台に立つ木村に声をかけた。
「いい調子だ。この調子で明日からも自信を持ってやってくれ。」
木村が静かに頷き、それを聞いた部員たちも少しだけ緊張を和らげた表情を浮かべた。悠斗も楽器を片付けながら、ホールの空気が少し軽くなるのを感じていた。

練習を終えた悠斗は、自転車を走らせて駅へと向かっていた。
(今日は紗彩に会えるかな…。)
昨日の帰り道の会話を思い出すと、自然とペダルを踏む足に力が入る。
夕方の空は、日が沈みかけたオレンジ色に染まり、風には少しだけ秋の気配が混じり始めていた。
(明日から学校が始まるんだよな…。練習だけだった夏休みの生活も、今日で一区切りか。)
悠斗はそう考えながらも、紗彩と会えるかもしれない期待に、胸の奥が少しだけ高鳴るのを感じた。
やがて、夕焼けに包まれた駅前が視界に広がった。
駅前で紗彩を見つけた悠斗は、自然とペダルを緩めて追いついた。
「また会えたな。」悠斗が声をかけると、紗彩が振り返り、嬉しそうに微笑んだ。
夕焼けが街を染める中、二人は何気ない会話を交わす。
「明日から学校だな。」悠斗がふと呟くと、紗彩は少し頷いた。
「うん。夏休み、終わっちゃったね。でも、悠斗たちはコンクールが控えてるし、まだ終わりじゃないでしょ?」
「まあな。コンクールが終われば、俺たちも部活卒業だ。」
悠斗は自転車を押しながら少し遠くを見つめた。
「そっか…。じゃあ、もうすぐ本格的に受験モードだね。」
「そういうことになるな。部活がなくなれば、その分勉強に集中しないと。」
悠斗の声にはどこか寂しさが混じっていた。
紗彩は少し考え込むように視線を落とし、小さな声で言った。
「…そしたら、もうこんなふうに会えなくなっちゃうのかな。」
悠斗はその言葉に一瞬答えを迷ったが、無理に笑顔を作って言う。
「そんなことないだろ。ほら、試験勉強の合間にでもさ。」
「そっか。…そうだよね。」紗彩も笑みを返したが、その表情にはほんの少しだけ不安が浮かんでいた。
二人の間に流れる微妙な空気を払うように、悠斗が話題を変える。
「それにしても、コンクールまであと一週間。最後の仕上げだな。」
「うん。私も応援してるよ。悠斗たちの演奏、きっと素敵になる。」
暮れゆく夕空を背に、二人は並んで歩き続けた。どこか胸の奥に、言葉にしきれない思いを抱えながら。
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