夏の序曲

第9話 定期演奏会

6月の柔らかな陽射しが文化会館の大きな窓から差し込む午後。市内の文化会館大ホールは、悠斗たちが最後の調整を進める音で満たされていた。
「あと30分で開場よ!各自、準備を整えておいて!」
部長の木村遥が響く声で部員たちに指示を飛ばす。
悠斗は心を静めるように楽器を磨いていた。
(第一部はリラックスしていこう。ディズニーメドレーは絶対に決める。)
ステージ裏で流れる独特の緊張感の中、悠斗はゆっくりと呼吸を整えた。
14時、開場すると、観客がぞろぞろとホールに入ってくる音がステージ裏にも届いてきた。客席を覗くと、家族連れや友人同士らしき姿が見え、観客の期待がひしひしと伝わってくる。
「よし、行こう。」
錬が悠斗の肩を軽く叩き、悠斗も頷いた。

開演の時間になると、会場の照明が落ち、ステージがスポットライトで照らされた。
第一部は軽快でなじみのあるポップスの音楽がホールを包み込み、観客の表情が自然と緩む。3曲の演目をパートリーダーが交代で指揮を務め、和やかな空気を作り出した。
(さあ、次は第二部だ。)
続く第二部の「バラの謝肉祭」。その劇的で色彩豊かな音楽は、聴く者を異国の舞踏会へと誘うようだった。悠斗を含むメンバー全員が、このダイナミックで変化に富んだ曲に全力を注いだ。
冒頭のゆったりとした美しい旋律から、トランペットによる華やかなファンファーレ、行進曲風の疾走感、そして短調の魅惑的なメロディ。各セクションが一体となり、次々と訪れるリズムの変化を鮮やかに乗り越えていく。
クライマックスでは金管と打楽器が力強い響きを放ち、最後の一音が鳴り止むと、会場は大きな拍手に包まれた。
悠斗はほっとした表情で息を整えた。

そして、いよいよ第三部。この定期演奏会の目玉であるディズニーメドレーが始まると、会場の雰囲気はさらに盛り上がりを見せた。
各楽器のパートリーダーが前に出てソロを披露し、観客からの拍手が絶えない。
やがて、悠斗と錬の掛け合いパートがやってきた。悠斗のトランペットが奏でる軽やかな旋律がホールに響き渡る。それに応えるように錬のトロンボーンがリズミカルな低音を重ねた。
錬はトロンボーンのスライドを大きく動かしながら、体をリズムに合わせて軽快に揺らす。その楽し気なパフォーマンスは、音楽を視覚で楽しませ、観客の目を釘付けにした。
観客席でその様子を見ていた美玖は、目を輝かせて息を呑む。
(かっこいい…!)
ステージ上の錬は、美玖の目にはまるでアイドルのように映っていた。音楽を自在に操る自信と余裕に満ちた姿が、美玖の心をさらに惹きつける。
一方で悠斗もリズムに合わせて控えめに体を揺らし、トランペットのアクセントを工夫していた。それでも錬の堂々としたパフォーマンスと比べると、動きのぎこちなさが否めない。
(やっぱり錬はこういうのが得意だよな…。)
悠斗は心の中で苦笑しつつも、音の掛け合いだけはしっかりとテンポを合わせ、最後まで演奏しきった。
曲が終わると、観客席から大きな拍手が湧き起こり、悠斗と錬はお互いに軽く目配せをした。
(決まった…!)
悠斗は胸の中で確信し、元の位置に戻る。
舞台の上の錬を見つめる美玖の瞳は、今まで以上に熱を帯びていた。

アンコールは、翠峰ブラスバンド部伝統のテキーラだ。会場がノリノリの空気に包まれるなか、演奏会は終了した。美玖はその熱気の中、胸に手を当てながら、心の中でそっとつぶやく。
(会ったとき、何を話せばいいんだろう…。)
定期演奏会は大成功のうちに幕を閉じ、部員たちは拍手の嵐の中、達成感に包まれながら舞台を降りていった。

演奏が終わり、花束贈呈の時間が始まった。司会者の澄んだ声がホールに響く。
「これから、花束贈呈を行います。」
観客の拍手が静まり、花束が次々と贈られていく。そして、司会者が次の名前を読み上げた。
「星乃紗彩さんから、笹原悠斗さんへ。」
その瞬間、ブラバンのメンバーの間にざわつきが広がった。
「え、悠斗?」「誰だ、彼女?」
ひそひそ声が聞こえる中、悠斗は軽く息をついた。
(本当にやるんだな…。)
舞台袖から紗彩が現れる。真っ白なワンピースに小さなリボンをつけたその姿は、清楚で堂々としていた。手には鮮やかな花束を持ち、明るい笑顔を浮かべて悠斗に向かって歩いてくる。
その瞬間、観客席や部員たちの視線が一斉に悠斗に注がれた。
「すごくよかったよ!」
紗彩ははきはきとした声で言いながら、花束を差し出した。その一言には、まるで演技であることを感じさせない自然な温かみがあった。
悠斗は花束を受け取りながら、少し照れたように短く答えた。
「ありがとう。」
自分の心拍数が少し上がっているのを感じながらも、演技だと分かっているからこそ、どこか複雑な気持ちになった。
(やっぱり紗彩は上手いな…。これなら錬も違和感なく信じるだろう。)
紗彩は軽く会釈をすると、観客に向けて小さく手を振りながら舞台を後にした。
(とりあえず計画の第一歩は成功だな…。でも、これで終わりじゃない。)
悠斗は花束の香りを鼻先に感じながら、次の段階に向けて気を引き締めた。
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