野いちご源氏物語 〇四 夕顔(ゆうがお)
 夜の初めごろ、ふたりでうとうとなさっていると、枕元(まくらもと)に何かが座る気配(けはい)がした。源氏(げんじ)(きみ)不審(ふしん)に思って目をお開けになる。美しい女がいた。夕顔(ゆうがお)(きみ)ではない。
「こんなにあなたを愛しているのに、私のことなど放っておいて、たいしたこともない女をかわいがっていらっしゃる。つらい、つらい」
 女は夕顔の君を()さぶって起こそうとする。
 源氏の君ははっと目を覚まされた。
<夢か。妖怪(ようかい)(おそ)われた気がしたが>
 隣で眠る女君をご覧になると、突然部屋の(あか)りがすべて消えた。
不気味(ぶきみ)だ>
 刀を(さや)から抜いて()()けになさる。それから女房(にょうぼう)右近(うこん)をお呼びになった。右近はおびえながら寝室のそばまでやって来た。
(わた)廊下(ろうか)に私の家来(けらい)がいる。灯りを持ってまいるように伝えよ」
「無理でございます。暗くて、恐ろしくて」
 右近はぶるぶると首をふる。

「子どものようなことを」
 源氏の君は苦笑して、家来を呼ぶために手をお(たた)きになった。広いお屋敷に音がこだまする。気味が悪いだけで家来のところまで届かない。
 女君はひどく震えながら滝のような汗をかいている。正気を失った様子だった。
「むやみに怖がってしまうご性格なのです。どんなに恐ろしく思っていらっしゃることか」
 右近は源氏の君に遠慮(えんりょ)して、少し離れたところから心配している。
<たしかに昼間も部屋の奥には背を向けて、明るい空の方ばかり見ていた>
 かわいそうなことになったとお思いになる。
「私が家来を呼んでくる。手を叩いてもこだまがうるさい。そなたはこの人のそばにいてさしあげよ」
 右近を寝室に入れて、ご自分は()(えん)にお出になった。渡り廊下につながる戸を開けると、ここも灯りが消えている。

 ひんやりとした風が吹いた。
 渡り廊下にいるのはお(とも)の少年を含めてたった三人。しかもみんな眠りこけている。
 源氏の君の呼びかけで、まず管理人の息子が目を覚ました。
「すぐに灯りをつけよ。それとそこで寝ている家来を起こして、一緒に弓の(げん)を鳴らせ。こんな人気(ひとけ)のないところで安心して眠るとはけしからぬ。惟光(これみつ)はどこにいる」
「惟光様はお帰りになりました。特に御用(ごよう)もなさそうだから、明日の朝早くお迎えにあがるとおっしゃいまして」
 この管理人の息子は内裏(だいり)警備(けいび)係もしているので、弦を鳴らして()()けをするのが上手い。
「火の用心、火の用心」
 と威嚇(いかく)するように言いながら庭を移動していく。
<ちょうど内裏でも警備係が弦を鳴らしているころだろう>
 まだそれほど夜遅くではないはずだった。

 源氏の君は寝室にお戻りになった。
 暗い中を手探りでお確かめになると、女君は先ほどのまま横になって、右近はうつ()せてしまっている。
「いったいどうしたと言うのだ。少し怖がりすぎではないか。こういう荒れた屋敷は、(きつね)が人をおどかすものだ。私がいるのだから狐など逃げていく。気をしっかり持て」
 引き起こされた右近は力なく言う。
「ひどく気分が悪くなってうつ伏しておりました。御方(おかた)様こそご無事でしょうか」
「どうだろうか。なぜこんなに」
 触れてごらんになると、女君は息をしていない。揺すられてもぐにゃぐにゃとして、力が抜けてしまっている。
<弱々しい人だから、妖怪に()りつかれたのか>
 なす(すべ)もなく見つめていらっしゃるところへ、管理人の息子が灯りを持ってきた。
 右近が濡れ縁に出て受け取ればよいのだけれど、気が動転(どうてん)していて動けない。源氏の君はついたてを動かして女君をお(かく)しになった。
「ここまで持ってまいれ」
 息子はためらう。身分の高い人のおそばになど上がったことがない。
「よいから持ってまいれ。遠慮している場合ではない」
 おずおずと差し出された灯りをたよりにご覧になると、女君の枕元に夢で見た美しい女がいる。
 ぞっとなさった瞬間、その姿は消えた。
<昔話にこんな話があるけれど>
 まさか現実で起きるとは思えない。しかし今はそれよりも女君だった。
<この人はどうなってしまうのだ>
 お胸がざわざわする。
「起きよ、おい、起きよ」
 危険を(かえり)みる余裕もなく、女君にすがりついて声をおかけになる。

 女君の体は冷えていくばかり。
 息はとっくに()えている。
「どうしたらよい。惟光も、頼りになりそうな者もいない。僧侶(そうりょ)を呼んでお祈りをさせなければ」
 強がっていてもやはり十七歳でいらっしゃる。
「生き返れ。生き返ってくれ。こんなつらい目を見せてくれるな」
 何の反応もしない女君を抱きしめて、呼びかけることしかできない。
 お(うで)の中で女君は冷えきってしまった。右近は気分が悪かったことも忘れて泣きまどっている。
「きっと(おに)か何かが(おど)しているだけだ。こちらが弱気になってはいけない。まさかこのまま亡くなってしまうことはないだろう。夜の声は響く。静かにせよ」
 かといってどうしたらよいか、突然のあまりのことに茫然(ぼうぜん)となさる。

 とにかく惟光を呼ぼうと、管理人の息子におっしゃった。
「渡り廊下に戻って、私の家来に惟光をすぐに呼びにいくよう伝えよ。五条(ごじょう)の母親の家にいるはずだ。急病人が出たから、家に僧侶(そうりょ)がいれば一緒に連れてまいるように、と。惟光の母親には適当にごまかせ。私の乳母(めのと)だから心配をかけたくない」
 女君をこんなところで無残(むざん)に死なせてしまったらと思うと、源氏の君は気が気でない。不気味な気配はまだ(ただよ)っている。
 夜中を過ぎたらしく風が少し強くなった。庭の松を揺らしながら吹いていく。聞きなれない鳴き声がして、
<ああ、あれが(ふくろう)か>
 と源氏の君はぼんやりお思いになった。
 広い敷地のどこからも人の声は聞こえない。どうしてこんな屋敷に来てしまったのだろうと後悔なさる。
 隣では右近が震えている。
<この人まで死ぬのではないか>
 とっさに支えておやりになる。正気な人間がご自分しかいない。
 管理人の息子がつけていった灯りは頼りなくちらちらしている。部屋のあちこちの暗がりが気になって、背後(はいご)から不気味な足音が聞こえるような気までなさる。
<惟光、早く参れ>
 いったいどこを遊び歩いているのか、惟光は母親の家にいなかった。家来はあちこちを探すけれど見つからない。
 夜明けまでが千の夜よりも長い。

 ようやく明け方の(とり)が遠くで鳴きはじめた。
<何の因果(いんが)でこのような命がけの目に()うのだ。まさかあのこと(・・・・)(ばつ)なのだろうか。この不祥事(ふしょうじ)はいくら隠しても(みかど)のお耳に届いてしまうだろう。下々(しもじも)の者がおもしろおかしく(うわさ)して、私は(おろ)(もの)と笑われることになるのだ>
 お考えは悪い方にばかり走る。
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