野いちご源氏物語 〇四 夕顔(ゆうがお)
五条からほど近いお屋敷に到着なさった。
ここは皇室の持ち物で、今は空き家になっている。立派なお屋敷だけれど、きちんと手入れされていないことは一目で分かる。門には雑草が茂り、庭はうっそうとした木立のせいで薄暗い。
しかも濃い霧が出ているから、乗り物の簾を上げた源氏の君の袖は濡れてしまった。
「恋人とこっそり出かけて妙なところに迷いこむなんて、私は初めての経験ですよ。あなたはどうですか」
からかわれて女君は恥じらう。それから不安そうに言った。
「私をどうなさるおつもりかも分かりませんのに、このようなところまでついてきてしまいました。あまりに心細いので、なんだか自分が消えてなくなりそうな気がいたします」
この反応も源氏の君にはかわいらしい。
<あんなごちゃごちゃしたところで暮らしているから、広々とした屋敷や庭が怖いのだろう>
女君は本当におびえているのだけれど、源氏の君には伝わらない。
屋敷の管理人が急いで室内を整える間、源氏の君と女君、そして右近は乗り物の中で待つ。
まるで物語のような成り行きにうっとりしながら、右近はこれまでの女主人の苦労を思い出していた。管理人があまりにうやうやしく尽くすので、男君の正体も確信してしまった。
うっすら明るくなってきたころ、ようやくお屋敷にお入りになった。急なことだったのに室内はすっきりと整えられている。
ひと息ついた管理人は、あたりを見回して怪しんだ。
「お供らしいお供がいない。これは何たること」
この人は源氏の君の自宅である二条の院でも働いている。そちらから何人かお呼びいたしましょうかと、右近を通じてお尋ねした。
「わざとだ。ここを秘密の隠れ家にするのだから、誰にも言ってはならぬ」
源氏の君は口止めなさる。
管理人が簡単な食事をお出ししようにも、給仕係が足りない。そのくらい人目の少ないところだった。こんな気楽な外泊は初めてのことで、源氏の君はひたすら女君を愛される。
日が高くなってようやく寝室からお出になった。ご自分で窓をお開けになる。
広い庭はひどく荒れている。どこにも人の姿はなく、老木の木立が重苦しい。御殿のそばには花壇らしき物があるけれど、特に何が咲いているわけでもない。池は水草に占拠されている。
ちょっとこれはひどい。
敷地の中に管理人一家の住む建物もある。ただ、御殿からは遠くて人の気配を感じない。
「以前は風流な庭のある屋敷だったのですよ。空き家になってずいぶん荒れてしまったらしい。鬼でも出そうな雰囲気だが、さすがの鬼も私なら見逃してくれるだろう」
微笑む男君は、まだ顔を袖で隠している。女君はつらい。
<こんなところまで連れてきて隠しつづけるのも気の毒だ。これだけの仲になったのだから>
と、ついに袖をお離しになった。
「あなたが想像していたとおりの顔でしたか」
「どうでしょう。あの日ちらりと拝見したお顔はもっと美しかったような。黄昏時でしたから、よく見えなかったのかしら」
女君は小さな声で意地悪を言った。それもまた源氏の君にはかわいらしい。
くつろいでいらっしゃる源氏の君はとても美しくて、場所が場所なだけに、かえって不吉な感じさえする。
「あなたがいつまでも素性をお隠しになるから、私も隠していたのですよ。さぁ、もうご自分のことを話してください。このままでは気味が悪い」
「つまらない身分の女でございますから」
女君はまだはぐらかす。素性を秘密にしたまま愛されたいと甘えていた。
「そうか。最初から私が正直に名乗っていればよかったのだろうね」
恨んだりせがんだりしてお過ごしになる。
夕方になって、やっと惟光は主人の居場所を探し当てた。でも、右近が怖くて近づけない。「謎の男君を家に手引きしたのは、やはりあなただったのね。知らん顔をしていたくせに」と怒られてしまいそうだもの。
<こんなところに連れてきてまでかわいがっていらっしゃるのか。なんだかおかしいけれど、それだけの女性なのだろう。自分の恋人にせず主人にお譲りするなんて、我ながら心の広い家来だ>
主人の危なっかしい好色ぶりを心の中で冷やかしていた。
静かな夕方の空をふたりでご覧になる。
奥の部屋は薄暗くて女君が怖がるから、明るい縁側で一緒に横になっていらっしゃる。お互いの顔が夕日に照らされてはっきりと見える。ほっとして気を許していく女君がかわいらしい。
何かにおびえた様子はあいかわらずで、源氏の君のおそばを離れない。少女のような可憐さにお胸がしめつけられた。
窓を早めに閉めて、右近に灯りをつけるようお命じになった。
「何もかも見せてくれているのに、まだ心の中には隠し事があるのですね」
どれほど恨まれても素性は明かさず、女君は優しく微笑んでいる。
<何の連絡もなしに参内しなかったから、帝は心配なさって使者をお出しになっただろう。どこを探しているだろうか。ああ、そういえば六条の御息所もずいぶんとお訪ねしていない。きっと思い悩まれている。これでは恨まれても当然だ>
申し訳ないとは思っていらっしゃる。しかしどうしても御息所のお人柄がしっくり来ない。
<あの人はこちらが息苦しくなるほど物事を深くお考えになる。もう少し肩の力を抜いてくださってもよいのに>
目の前の無邪気な女君とつい比べてしまわれた。
ここは皇室の持ち物で、今は空き家になっている。立派なお屋敷だけれど、きちんと手入れされていないことは一目で分かる。門には雑草が茂り、庭はうっそうとした木立のせいで薄暗い。
しかも濃い霧が出ているから、乗り物の簾を上げた源氏の君の袖は濡れてしまった。
「恋人とこっそり出かけて妙なところに迷いこむなんて、私は初めての経験ですよ。あなたはどうですか」
からかわれて女君は恥じらう。それから不安そうに言った。
「私をどうなさるおつもりかも分かりませんのに、このようなところまでついてきてしまいました。あまりに心細いので、なんだか自分が消えてなくなりそうな気がいたします」
この反応も源氏の君にはかわいらしい。
<あんなごちゃごちゃしたところで暮らしているから、広々とした屋敷や庭が怖いのだろう>
女君は本当におびえているのだけれど、源氏の君には伝わらない。
屋敷の管理人が急いで室内を整える間、源氏の君と女君、そして右近は乗り物の中で待つ。
まるで物語のような成り行きにうっとりしながら、右近はこれまでの女主人の苦労を思い出していた。管理人があまりにうやうやしく尽くすので、男君の正体も確信してしまった。
うっすら明るくなってきたころ、ようやくお屋敷にお入りになった。急なことだったのに室内はすっきりと整えられている。
ひと息ついた管理人は、あたりを見回して怪しんだ。
「お供らしいお供がいない。これは何たること」
この人は源氏の君の自宅である二条の院でも働いている。そちらから何人かお呼びいたしましょうかと、右近を通じてお尋ねした。
「わざとだ。ここを秘密の隠れ家にするのだから、誰にも言ってはならぬ」
源氏の君は口止めなさる。
管理人が簡単な食事をお出ししようにも、給仕係が足りない。そのくらい人目の少ないところだった。こんな気楽な外泊は初めてのことで、源氏の君はひたすら女君を愛される。
日が高くなってようやく寝室からお出になった。ご自分で窓をお開けになる。
広い庭はひどく荒れている。どこにも人の姿はなく、老木の木立が重苦しい。御殿のそばには花壇らしき物があるけれど、特に何が咲いているわけでもない。池は水草に占拠されている。
ちょっとこれはひどい。
敷地の中に管理人一家の住む建物もある。ただ、御殿からは遠くて人の気配を感じない。
「以前は風流な庭のある屋敷だったのですよ。空き家になってずいぶん荒れてしまったらしい。鬼でも出そうな雰囲気だが、さすがの鬼も私なら見逃してくれるだろう」
微笑む男君は、まだ顔を袖で隠している。女君はつらい。
<こんなところまで連れてきて隠しつづけるのも気の毒だ。これだけの仲になったのだから>
と、ついに袖をお離しになった。
「あなたが想像していたとおりの顔でしたか」
「どうでしょう。あの日ちらりと拝見したお顔はもっと美しかったような。黄昏時でしたから、よく見えなかったのかしら」
女君は小さな声で意地悪を言った。それもまた源氏の君にはかわいらしい。
くつろいでいらっしゃる源氏の君はとても美しくて、場所が場所なだけに、かえって不吉な感じさえする。
「あなたがいつまでも素性をお隠しになるから、私も隠していたのですよ。さぁ、もうご自分のことを話してください。このままでは気味が悪い」
「つまらない身分の女でございますから」
女君はまだはぐらかす。素性を秘密にしたまま愛されたいと甘えていた。
「そうか。最初から私が正直に名乗っていればよかったのだろうね」
恨んだりせがんだりしてお過ごしになる。
夕方になって、やっと惟光は主人の居場所を探し当てた。でも、右近が怖くて近づけない。「謎の男君を家に手引きしたのは、やはりあなただったのね。知らん顔をしていたくせに」と怒られてしまいそうだもの。
<こんなところに連れてきてまでかわいがっていらっしゃるのか。なんだかおかしいけれど、それだけの女性なのだろう。自分の恋人にせず主人にお譲りするなんて、我ながら心の広い家来だ>
主人の危なっかしい好色ぶりを心の中で冷やかしていた。
静かな夕方の空をふたりでご覧になる。
奥の部屋は薄暗くて女君が怖がるから、明るい縁側で一緒に横になっていらっしゃる。お互いの顔が夕日に照らされてはっきりと見える。ほっとして気を許していく女君がかわいらしい。
何かにおびえた様子はあいかわらずで、源氏の君のおそばを離れない。少女のような可憐さにお胸がしめつけられた。
窓を早めに閉めて、右近に灯りをつけるようお命じになった。
「何もかも見せてくれているのに、まだ心の中には隠し事があるのですね」
どれほど恨まれても素性は明かさず、女君は優しく微笑んでいる。
<何の連絡もなしに参内しなかったから、帝は心配なさって使者をお出しになっただろう。どこを探しているだろうか。ああ、そういえば六条の御息所もずいぶんとお訪ねしていない。きっと思い悩まれている。これでは恨まれても当然だ>
申し訳ないとは思っていらっしゃる。しかしどうしても御息所のお人柄がしっくり来ない。
<あの人はこちらが息苦しくなるほど物事を深くお考えになる。もう少し肩の力を抜いてくださってもよいのに>
目の前の無邪気な女君とつい比べてしまわれた。