野いちご源氏物語 〇四 夕顔(ゆうがお)
日が暮れてから惟光は二条の院に戻ってきた。
「もう本当に駄目だったか」
言いながらすでに泣いていらっしゃる。惟光も涙を押さえきれない。
「残念でございましたが。ご葬儀は明日、知り合いの僧侶に行わせます」
「乗り物に同乗させた女房はどうした」
「右近の君は女君に付き添っております。一時は主人のあとを追って死のうとするほどでした。『家で待っている女房たちに御方様の死を知らせたい』と申しましたが、説得して思いとどまらせました。騒ぎになってもよいことはありませんので」
悲しい話ばかりだった。
「私もとても苦しくて、このまま死んでしまいそうな気がする」
「もう何もお考えなさいますな。これも運命でございましょう。誰にも気づかれないように、私がすべて手配しております。ご安心なされませ」
「私も運命だと思って諦めようとしているが、自分の浮気心で人を死なせてしまった罪が苦しい。誰にも言わないでくれ。そなたの母にもだ。厳しい乳母だから、こういうことを何よりも嫌っていた。私はいまだにあの人に頭が上がらない」
少年と青年の心を行ったり来たりして苦しまれる。
「もちろんでございます。僧侶たちにも本当の事情は話しておりません。それらしい作り話を申しておきました」
何もかも惟光は分かっている。源氏の君は心強くお思いになった。
ふたりの会話がなんとなく聞こえる女房たちは、
「何事でございましょうね。穢れに触れたと言って参内もなさらず、ひそひそと嘆いていらっしゃる」
と怪しんでいた。
「引き続き頼む。葬儀のことだが」
細かい注文をつけようとなさる源氏の君を、惟光はお止めした。
「いえ、こういうときは簡単になさった方がよろしゅうございます。目立ってはいけません」
話を切りあげようとするので、源氏の君はお悲しい。
「そなたはあきれてしまうかもしれないが、もう一度あの人の亡骸を見たい。このままでは気が済まないのだ。馬でこっそりと行く」
惟光はとんでもないことだと思ったけれど、小さく諦めのため息をついた。
「かしこまりました。それならば今すぐご出発なさって、夜更け前にお戻りくださいませ。私もお供いたします」
夕顔の家に通うときの粗末な格好に着替えて、源氏の君は馬で出発なさった。お心は弱りきっているから、昨夜の恐ろしい事件を思い出すと、山寺などへふらふら出かけることはためらわれた。
<しかし、これを逃せば来世でも会えるかどうか分からないのだから>
あのかわいらしかった顔を目に焼きつけておこうと、お心を奮い立たせる。山寺まではずいぶん遠い道のりに感じられた。
悲しみに暮れまどって到着なさったのは、薄気味悪い山の中だった。
粗末な小屋の隣にお堂があって、わずかに灯りが漏れている。惟光の知り合いの尼が修行をしているらしい。小屋からは右近の泣き声が聞こえた。
戸の前で尼の息子の僧侶がお経を読んでいた。尊い声に源氏の君の目から涙があふれる。
小屋にお入りになると、横たわった女君の亡骸があった。右近はついたてをはさんで臥している。灯りは亡骸から背けるように置いてある。
<この人もどれほどつらがっていることか>
源氏の君は同情なさった。
女君は生きているときと変わらない、可憐な姿のままだった。
「もう一度声を聞かせてください。私はあっという間にあなたに夢中になったのだ。それをさっさと捨ててしまうなんて、あまりにひどいではないか」
声を上げてお泣きになる。僧侶は詳しい事情を聞かされていないけれど、思わずもらい泣きしていた。
「二条の院へ参らぬか」
源氏の君は右近をお誘いになった。
このまま寺には置いておけない。かといって夕顔の家に帰すわけにもいかない。他の女房たちが女主人の死を知れば、あの男は誰だったのかと右近を問いつめるに決まっている。
右近は力なく首をふった。
「幼いころから片時も離れず御方様にお仕えしてまいりました。私ひとりでどこへ行けましょう。火葬の煙とともに、私も煙になって消えとうございます」
「気持ちは分かるが、世の中とはこういうものなのだ。別れは常に悲しい。この人が死んでしまったのが寿命なら、そなたが生きているのも寿命である。心を落ち着けて私を頼れ。そう言う私こそ、もう生きていられないような気がしているけれど」
とても頼りにならないご様子だった。右近は動こうとしない。
惟光が、
「もう明け方になります。早くお帰りなされませ」
と申し上げる。
源氏の君は何度も振りかえりながら出発なさった。お胸がふさがる。外は朝の霧が濃く漂っていた。ここがどことも分からず、さまよっているようなご気分だった。
<最期のままの姿で寝ていた。亡骸にかかっていたのは、あの日の私の着物だった>
どういう運命でこうなってしまったのかと、馬上でくらくらなさる。惟光がお支えするけれど、ついに馬から落ちてしまわれた。もう正気を失っていらっしゃる。
「こんな道端で死ぬのだろう。二条の院には帰りつけそうにない」
惟光は動揺する。
<きっぱりお止めすればよかった。いくら頼まれても、亡骸のところへなどご案内するのではなかった>
胸騒ぎがして、急いで川の水で手を清めると、清水寺の観音様に祈った。しかしそれから何をしたらよいか分からない。けなげな惟光の姿をご覧になって、源氏の君は気力をふりしぼる。お心の中で仏様に祈り、惟光に助けられながら二条の院へお着きになった。
何も知らない女房たちは深夜のお出かけをよく思わない。
「みっともないこと。近ごろの夜遊びは度が過ぎていらっしゃいますよ」
「それで昨日はご体調を悪くなさったのに、どうしてまたお出かけになったのかしら」
と嘆きあっている。
「もう本当に駄目だったか」
言いながらすでに泣いていらっしゃる。惟光も涙を押さえきれない。
「残念でございましたが。ご葬儀は明日、知り合いの僧侶に行わせます」
「乗り物に同乗させた女房はどうした」
「右近の君は女君に付き添っております。一時は主人のあとを追って死のうとするほどでした。『家で待っている女房たちに御方様の死を知らせたい』と申しましたが、説得して思いとどまらせました。騒ぎになってもよいことはありませんので」
悲しい話ばかりだった。
「私もとても苦しくて、このまま死んでしまいそうな気がする」
「もう何もお考えなさいますな。これも運命でございましょう。誰にも気づかれないように、私がすべて手配しております。ご安心なされませ」
「私も運命だと思って諦めようとしているが、自分の浮気心で人を死なせてしまった罪が苦しい。誰にも言わないでくれ。そなたの母にもだ。厳しい乳母だから、こういうことを何よりも嫌っていた。私はいまだにあの人に頭が上がらない」
少年と青年の心を行ったり来たりして苦しまれる。
「もちろんでございます。僧侶たちにも本当の事情は話しておりません。それらしい作り話を申しておきました」
何もかも惟光は分かっている。源氏の君は心強くお思いになった。
ふたりの会話がなんとなく聞こえる女房たちは、
「何事でございましょうね。穢れに触れたと言って参内もなさらず、ひそひそと嘆いていらっしゃる」
と怪しんでいた。
「引き続き頼む。葬儀のことだが」
細かい注文をつけようとなさる源氏の君を、惟光はお止めした。
「いえ、こういうときは簡単になさった方がよろしゅうございます。目立ってはいけません」
話を切りあげようとするので、源氏の君はお悲しい。
「そなたはあきれてしまうかもしれないが、もう一度あの人の亡骸を見たい。このままでは気が済まないのだ。馬でこっそりと行く」
惟光はとんでもないことだと思ったけれど、小さく諦めのため息をついた。
「かしこまりました。それならば今すぐご出発なさって、夜更け前にお戻りくださいませ。私もお供いたします」
夕顔の家に通うときの粗末な格好に着替えて、源氏の君は馬で出発なさった。お心は弱りきっているから、昨夜の恐ろしい事件を思い出すと、山寺などへふらふら出かけることはためらわれた。
<しかし、これを逃せば来世でも会えるかどうか分からないのだから>
あのかわいらしかった顔を目に焼きつけておこうと、お心を奮い立たせる。山寺まではずいぶん遠い道のりに感じられた。
悲しみに暮れまどって到着なさったのは、薄気味悪い山の中だった。
粗末な小屋の隣にお堂があって、わずかに灯りが漏れている。惟光の知り合いの尼が修行をしているらしい。小屋からは右近の泣き声が聞こえた。
戸の前で尼の息子の僧侶がお経を読んでいた。尊い声に源氏の君の目から涙があふれる。
小屋にお入りになると、横たわった女君の亡骸があった。右近はついたてをはさんで臥している。灯りは亡骸から背けるように置いてある。
<この人もどれほどつらがっていることか>
源氏の君は同情なさった。
女君は生きているときと変わらない、可憐な姿のままだった。
「もう一度声を聞かせてください。私はあっという間にあなたに夢中になったのだ。それをさっさと捨ててしまうなんて、あまりにひどいではないか」
声を上げてお泣きになる。僧侶は詳しい事情を聞かされていないけれど、思わずもらい泣きしていた。
「二条の院へ参らぬか」
源氏の君は右近をお誘いになった。
このまま寺には置いておけない。かといって夕顔の家に帰すわけにもいかない。他の女房たちが女主人の死を知れば、あの男は誰だったのかと右近を問いつめるに決まっている。
右近は力なく首をふった。
「幼いころから片時も離れず御方様にお仕えしてまいりました。私ひとりでどこへ行けましょう。火葬の煙とともに、私も煙になって消えとうございます」
「気持ちは分かるが、世の中とはこういうものなのだ。別れは常に悲しい。この人が死んでしまったのが寿命なら、そなたが生きているのも寿命である。心を落ち着けて私を頼れ。そう言う私こそ、もう生きていられないような気がしているけれど」
とても頼りにならないご様子だった。右近は動こうとしない。
惟光が、
「もう明け方になります。早くお帰りなされませ」
と申し上げる。
源氏の君は何度も振りかえりながら出発なさった。お胸がふさがる。外は朝の霧が濃く漂っていた。ここがどことも分からず、さまよっているようなご気分だった。
<最期のままの姿で寝ていた。亡骸にかかっていたのは、あの日の私の着物だった>
どういう運命でこうなってしまったのかと、馬上でくらくらなさる。惟光がお支えするけれど、ついに馬から落ちてしまわれた。もう正気を失っていらっしゃる。
「こんな道端で死ぬのだろう。二条の院には帰りつけそうにない」
惟光は動揺する。
<きっぱりお止めすればよかった。いくら頼まれても、亡骸のところへなどご案内するのではなかった>
胸騒ぎがして、急いで川の水で手を清めると、清水寺の観音様に祈った。しかしそれから何をしたらよいか分からない。けなげな惟光の姿をご覧になって、源氏の君は気力をふりしぼる。お心の中で仏様に祈り、惟光に助けられながら二条の院へお着きになった。
何も知らない女房たちは深夜のお出かけをよく思わない。
「みっともないこと。近ごろの夜遊びは度が過ぎていらっしゃいますよ」
「それで昨日はご体調を悪くなさったのに、どうしてまたお出かけになったのかしら」
と嘆きあっている。