野いちご源氏物語 〇四 夕顔(ゆうがお)
全快なさったもののお顔はやせてしまわれて、それがかえって青年らしいお美しさになった。ご体調はもうよいはずなのに、二条の院に戻ってもぼんやりしてばかりでお泣きになることもある。
「妖怪のしわざでは」
と女房の何人かはまだご心配している。
右近をお呼びになって、のどかな夕暮れ時にお話をなさった。
「今も腑に落ちないのだ。あの人はどうして素性を隠していたのだろう。私の愛情を信じてくれていないようでつらかった」
右近は遠慮がちに申し上げる。
「私が思いますに、わざとお隠しになっていたのではなく、お伝えする機会を見失ってしまわれたのです。あなた様のご正体には途中からお気づきでした。かの有名な源氏の君に、お名前もお顔も隠して通われて、本気で愛していただけると思う女がおりましょうか。御方様もつらく悩まれ、少し意地を張られたのでございましょう」
「つまらない意地の張り合いだったのか」
力なく苦笑いなさる。
「私も隠したかったわけではない。身分違いの恋に不慣れだったこともあるし、窮屈な身分だから、はっきりと名乗って女性を口説くことは難しい。曖昧にしたまま関係を始めて、すぐに夢中になってしまった。短い恋だったが私の心から消えることはないだろう。さぁ、もう詳しく話してくれ。今となっては隠すことなどないはずだ。このままでは誰のためとも知れない法要をすることになる」
「御方様が隠していらっしゃったことを、私などがお話しするのは気がとがめますが」
右近は重い口を開いた。
「ご両親は早くにお亡くなりになりました。父君は上級貴族でいらっしゃいましたが、ご出世が思うようにいかず、失望がお命を縮めたようです。御方様をとてもかわいがっておいでだったのですが。
そのうち頭中将が御方様を見初められて、三年ほどこっそりお通いになりました。ところが去年の秋、ご正妻から恐ろしいおどし文句が届きまして、御方様はすっかりおびえてしまわれたのです。
あわてて乳母の家に身を寄せられましたが、都の中でもさびれたところで何かと不便でした。そこで今度は乳母の娘の家に移られたのです。それがあの五条の家でした。もうしばらくしたら静かな山里に引きこもろうとお考えでしたのに、粗末な家にいるところをあなた様に見つかって、おつらそうでいらっしゃいました。あなた様へのご愛情はお持ちだったのですが、そういう感情は恥ずかしがって隠そうとなさる方でしたから、あまり深入りしないご態度でお会いになっていたのでしょう」
やはり頭中将の元恋人だったか、と源氏の君は納得なさる。
「幼い子を行方不明にしてしまったと頭中将は嘆いていたが」
「はい。一昨年の春お生まれになりました。女の子で、とてもかわいらしいお子でいらっしゃいます」
「その姫はどこにいるのだ。私の名前は出さずにここへ連れてきてほしい。あの人の形見として育てたい。まずは父親の頭中将に知らせるべきだが、そうなるとあの人が亡くなった経緯も話さなければならなくなる。頭中将の子なら私の姪だから、私が育てても問題ないだろう。知らせるのはもっと後でよい」
「ありがたい仰せでございます。五条の家にはお世話できる人がいないということで、乳母の家に預けたままになっているのです。あのようなさびれたところでお育ちになるのは心苦しく思っておりました」
夕暮れ時の静かなころだった。
秋の空が美しい。花壇の草花は寂しく枯れ、虫も声をからして鳴いている。庭の木々は紅葉しはじめていた。
二条の院は絵に描いたように美しい。
<こんなところでご奉公をすることになるとは>
あの貧しい夕顔の家を思い出して、右近は恥ずかしくなった。
「あの人はおいくつだったのだ。子どものようにおっとりして見えたのは、早死にする運命だったからかもしれない」
「十九でいらっしゃいました。私の母は御方様の乳母をしておりました。早くに亡くなりましたが、御方様の父君のご厚意で、私は乳母子としてお屋敷に残ることができたのです。そのご恩を思えば、どうして私ひとりがおめおめと生きつづけられましょう。あんなに儚げな方でしたのに、私は頼ってばかりでお守りできませんでした。悔しゅうございます」
「儚げなところがかわいらしい人だった。私は自分の気が弱いからか、賢そうにつんと澄ましている女性は扱いづらくていけない。ただただ優しく、ともすると悪い男にだまされそうだけれど、そう見えて夫に一途で従順な女性がよい。そんな人を自分好みに育てあげたら、手放せない妻になるだろう」
遠い目をしておっしゃる。右近は、
<御方様ならそのご希望に限りなく近かったのに>
と悔しくて泣いた。
空がくもり、冷たい風が吹きはじめた。
源氏の君はぼんやりと空をお眺めになる。
「あの雲はあの人を火葬した煙かもしれない。そう思うと寂しい夕方の空も愛しいのだよ」
独り言のようなお言葉に、右近は何も申し上げられない。
<こうしておそばにいるのが私ではなく御方様だったなら。ご夫婦として空を眺めていらっしゃるなら、どれほどすばらしかっただろう>
想像するだけで胸がいっぱいになる。
「秋の夜長は五条の家を思い出してしまうな。あの騒がしささえ懐かしくて恋しい」
そうつぶやいて、源氏の君は寝室にお入りになった。
「妖怪のしわざでは」
と女房の何人かはまだご心配している。
右近をお呼びになって、のどかな夕暮れ時にお話をなさった。
「今も腑に落ちないのだ。あの人はどうして素性を隠していたのだろう。私の愛情を信じてくれていないようでつらかった」
右近は遠慮がちに申し上げる。
「私が思いますに、わざとお隠しになっていたのではなく、お伝えする機会を見失ってしまわれたのです。あなた様のご正体には途中からお気づきでした。かの有名な源氏の君に、お名前もお顔も隠して通われて、本気で愛していただけると思う女がおりましょうか。御方様もつらく悩まれ、少し意地を張られたのでございましょう」
「つまらない意地の張り合いだったのか」
力なく苦笑いなさる。
「私も隠したかったわけではない。身分違いの恋に不慣れだったこともあるし、窮屈な身分だから、はっきりと名乗って女性を口説くことは難しい。曖昧にしたまま関係を始めて、すぐに夢中になってしまった。短い恋だったが私の心から消えることはないだろう。さぁ、もう詳しく話してくれ。今となっては隠すことなどないはずだ。このままでは誰のためとも知れない法要をすることになる」
「御方様が隠していらっしゃったことを、私などがお話しするのは気がとがめますが」
右近は重い口を開いた。
「ご両親は早くにお亡くなりになりました。父君は上級貴族でいらっしゃいましたが、ご出世が思うようにいかず、失望がお命を縮めたようです。御方様をとてもかわいがっておいでだったのですが。
そのうち頭中将が御方様を見初められて、三年ほどこっそりお通いになりました。ところが去年の秋、ご正妻から恐ろしいおどし文句が届きまして、御方様はすっかりおびえてしまわれたのです。
あわてて乳母の家に身を寄せられましたが、都の中でもさびれたところで何かと不便でした。そこで今度は乳母の娘の家に移られたのです。それがあの五条の家でした。もうしばらくしたら静かな山里に引きこもろうとお考えでしたのに、粗末な家にいるところをあなた様に見つかって、おつらそうでいらっしゃいました。あなた様へのご愛情はお持ちだったのですが、そういう感情は恥ずかしがって隠そうとなさる方でしたから、あまり深入りしないご態度でお会いになっていたのでしょう」
やはり頭中将の元恋人だったか、と源氏の君は納得なさる。
「幼い子を行方不明にしてしまったと頭中将は嘆いていたが」
「はい。一昨年の春お生まれになりました。女の子で、とてもかわいらしいお子でいらっしゃいます」
「その姫はどこにいるのだ。私の名前は出さずにここへ連れてきてほしい。あの人の形見として育てたい。まずは父親の頭中将に知らせるべきだが、そうなるとあの人が亡くなった経緯も話さなければならなくなる。頭中将の子なら私の姪だから、私が育てても問題ないだろう。知らせるのはもっと後でよい」
「ありがたい仰せでございます。五条の家にはお世話できる人がいないということで、乳母の家に預けたままになっているのです。あのようなさびれたところでお育ちになるのは心苦しく思っておりました」
夕暮れ時の静かなころだった。
秋の空が美しい。花壇の草花は寂しく枯れ、虫も声をからして鳴いている。庭の木々は紅葉しはじめていた。
二条の院は絵に描いたように美しい。
<こんなところでご奉公をすることになるとは>
あの貧しい夕顔の家を思い出して、右近は恥ずかしくなった。
「あの人はおいくつだったのだ。子どものようにおっとりして見えたのは、早死にする運命だったからかもしれない」
「十九でいらっしゃいました。私の母は御方様の乳母をしておりました。早くに亡くなりましたが、御方様の父君のご厚意で、私は乳母子としてお屋敷に残ることができたのです。そのご恩を思えば、どうして私ひとりがおめおめと生きつづけられましょう。あんなに儚げな方でしたのに、私は頼ってばかりでお守りできませんでした。悔しゅうございます」
「儚げなところがかわいらしい人だった。私は自分の気が弱いからか、賢そうにつんと澄ましている女性は扱いづらくていけない。ただただ優しく、ともすると悪い男にだまされそうだけれど、そう見えて夫に一途で従順な女性がよい。そんな人を自分好みに育てあげたら、手放せない妻になるだろう」
遠い目をしておっしゃる。右近は、
<御方様ならそのご希望に限りなく近かったのに>
と悔しくて泣いた。
空がくもり、冷たい風が吹きはじめた。
源氏の君はぼんやりと空をお眺めになる。
「あの雲はあの人を火葬した煙かもしれない。そう思うと寂しい夕方の空も愛しいのだよ」
独り言のようなお言葉に、右近は何も申し上げられない。
<こうしておそばにいるのが私ではなく御方様だったなら。ご夫婦として空を眺めていらっしゃるなら、どれほどすばらしかっただろう>
想像するだけで胸がいっぱいになる。
「秋の夜長は五条の家を思い出してしまうな。あの騒がしささえ懐かしくて恋しい」
そうつぶやいて、源氏の君は寝室にお入りになった。