野いちご源氏物語 〇四 夕顔(ゆうがお)
 誰の娘とも分からずに始まった関係だから、源氏(げんじ)(きみ)もご自分の素性(すじょう)を明かされない。庶民(しょみん)の家が多い土地(とち)(がら)にあわせて、ひどく粗末(そまつ)な格好で、牛車(ぎっしゃ)ではなく馬に乗ってお通いになる。
<源氏の君がここまでなさるとは、女君をよほどお気に召したのだろう>
 惟光(これみつ)は自分の馬を源氏の君にお(ゆず)りして、走ってお(とも)をする。
「あの家には私の恋人もおりますのに、馬にも乗れない身分の男だったのかと思われてはつろうございます」
 とこぼすけれど、素性を(かく)した(しの)び歩きである以上、源氏の君は信頼できる家来だけをお供になさる。気づかれるきっかけになることを恐れて、隣の乳母(めのと)の家にもお立ち寄りにならない。

 女君は恋人の素性を気にしていた。お手紙を届けにきた使者(ししゃ)が帰るときや、泊まった男君(おとこぎみ)がお帰りになるとき、誰かにあとをつけさせてみることもあった。でも、いつもうまくまかれてしまって分からない。
 源氏の君はどんどん夕顔の君に夢中になっていかれた。おっとりとかわいらしくて、どうしても会いたくなってしまう。身分に似合わない軽率(けいそつ)な振舞いだと思いながらも、頻繁(ひんぱん)にお通いになっていた。
 恋愛では真面目(まじめ)な人でもみっともない失敗をすることがある。これまでの源氏の君は、世間から非難(ひなん)されないようによくよく自重(じちょう)していらっしゃった。それなのに夕顔の君には不思議(ふしぎ)なほどのめりこんで、離れていると気が気でない。
<我ながら変だ。そこまでの相手だろうか>
 冷静になろうとすると、優しくおっとりとした女君の姿が浮かぶ。重々しさがない代わりにひたすら少女めいているのだけれど、男を知らないわけでもない。
<たいした身分の人ではないだろう。どうしてこんなに気になってしまうのだ>
 と混乱なさる。

 粗末な格好をしてお顔も隠し、そのうえ深夜にこっそりとお訪ねになるから、女君は(うす)気味(きみ)(わる)く思っている。ただ、なんとなく貴公子(きこうし)らしい気配がする。
<いったいどういう人なのだろう。近ごろ若い女房のところに男が出入りするようになったけれど、その男が主人か何かを手引きしたのかもしれない>
 疑われている惟光は、()()らぬ顔で恋人に夢中なふりをする。
<あの男は関係ないのかしら。ではこの人は、どこからどう現れたのだろう>
 ()に落ちなくて、こちらはこちらで奇妙(きみょう)な悩みを(かか)えていた。

 源氏の君は、女君が頭中将(とうのちゅうじょう)の元恋人だろうと確信しはじめていらっしゃった。
<こんなふうににこにこして何も考えていないようなのに、急に行方(ゆくえ)をくらまされたら私だって探しようがない。ここは(かく)()なのだから、もし都合が悪くなればすぐに別の場所へ移ってしまうだろう。ある程度探して(あきら)められるならよいけれど、とてもそれでおしまいにはできそうにない>
 あまり頻繁にお通いになるのも人目(ひとめ)が気になるので、しばらくお通いにならないでおく。すると我慢(がまん)できなくなってお苦しい。
<いっそ素性(すじょう)をはっきりさせないまま二条(にじょう)(いん)に迎えようか。それで何か悪いことが起きたとしても運命だ。我ながらこれほど女性に夢中になったことはないのに、いったいどういう運命で結ばれているのだろう>
 ひさしぶりに女君を訪ね、源氏の君は相談なさった。
「もっと気楽なところへ行って、ゆっくり過ごしてみませんか」
「そうおっしゃいましても、お名前も教えてくださらないのですもの。なんとなく恐ろしくて」
 少女のように素直に言うので、たしかにそれもそうだと源氏の君は苦笑なさる。
「私たちは(きつね)(たぬき)()かし()いをしているからね。しかしこれについては私に()かされておくれ」
 甘くささやかれて女君は(さか)らえない。うっとりとうなずいた。

<こんな(あや)しげな提案を受け入れてしまうのか。従順(じゅうじゅん)でかわいらしい人だ>
 頭中将の元恋人ではというお疑いはますます強まるけれど、女君が秘密にしようとしているので、お聞きになることもできない。
<自分から行方をくらませるような人には見えないが、長い間訪ねずに放っておけばそんなことも考えるのだろう。やむを()ず少し不安にさせてしまったとき、どんな反応をするか見てみたいものだ。すねたり、他の男に目移りしたりする様子がたまに混ざれば、さらに心が()かれるだろうな>
 従順なばかりでは物足りないとさえお思いになる。
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