野いちご源氏物語 〇四 夕顔(ゆうがお)
十五夜の明るい夜だった。隙間の多い屋根から月の光が差しこんで、貧相な家の中を照らし出す。源氏の君はもちろんこんな家に暮らされたことはない。
もうすぐ明け方らしい。近所の住人が起きはじめた。いかにも貧しそうな男の声が聞こえた。
「ああ、寒い。懐も寒い。今年は商売上がったりだ。このままでは年が越せるかどうか。おおい、北隣のお前さんはどうだ」
呼びかけられた男も同じように不景気を嘆いた。細々とした商売のために、それぞれ朝早くから働いている。
女君は恥ずかしい。恋人に貧しい家を見られたばかりか、近所のむさくるしい会話まで聞かれてしまった。気取り屋の女性ならもう消えてしまいたくなるところだけれど、この女君は違う。つらさも気まずさも顔に出さず、いつもどおりのんびりと振舞う。
周りがどうであっても自分自身は上品であどけなく、近所の下世話な会話にもよく分からないという顔をしている。恥ずかしがって顔を赤くするより、かえってよい態度だと源氏の君はお思いになった。
隣の家から雷よりも恐ろしい音が響きはじめた。
枕元で鳴っているのかと思うほど大きな音で、さすがに源氏の君はお起きになる。何の音だかさっぱり分からないけれどやかましい。他にもいろいろな音がする。
そこに空を飛んでいく雁の鳴き声が合わさる。物寂しい秋の朝だった。
源氏の君と女君は、戸を開けてささやかな庭をご覧になる。植込みの葉に降りた露は、こんな粗末な家の庭であっても美しくきらめいている。
何種類もの虫の音がごちゃまぜに聞こえる。源氏の君にとって虫の音は、広い庭のどこかからかすかに聞こえるもの。これはこれでおもしろいとお聞きになる。恋の力は偉大だった。どんな欠点も気にならなくなってしまう。
夕顔の君は、白い着物に薄紫色の着物を重ねている。派手でないのがかわいらしくて可憐だった。どこがどう優れているということはないけれど、繊細で儚げな魅力があった。小さなあどけない声で話すのも守ってやりたい感じで、源氏の君はお胸が苦しくなる。
<澄ましたところも見てみたいけれど、もうしばらくこのままかわいがろう>
それにはやはり、思う存分くつろげそうなところにお移りになりたい。できれば二条の院より人目が気にならないところ。源氏の君は格好の隠れ家を思いつかれた。
「この近くに知り合いの屋敷があります。今は誰も住んでいないから、そちらへ行って明日の朝までゆっくり過ごしませんか。ここよりも静かで落ち着きますよ」
「そんな急に」
女君は子どものように困っている。
「私は来世でもあなたと一緒にいたいと思っているのですよ。今夜のことなどで迷わないで」
これであっさりとうなずいてしまうところが初々しい。世間の男慣れした女性にはないかわいらしさだった。女房たちが何と思うかなど、もうどうでもよくなる。
源氏の君は右近という女房に、家来を呼んでくるようお命じになった。すぐに乗り物の準備が始まる。女房たちは心配しながらも、男君の並々でない愛情を見てきたから、女主人の幸せを期待している。
いよいよ明け方が近くなった。
夜明けの鶏の声ではなく、近所の老人たちが仏様にお祈りする声が聞こえる。懸命に立ったり座ったりして祈っているらしいけれど、物音からよぼよぼとした年寄りくささが伝わってくる。
<人生など儚いものなのに、ああまでして何を欲しがっているのだろうか>
老人たちは来世のことも祈りはじめた。
「聞きましたか。あの人たちも来世を信じているのですね。彼らにあやかって私たちも来世を約束しましょう。ずっと一緒ですよ」
女君はためらう。
「私がこのような落ちぶれた境遇におりますのは、前世の行いが悪かったせいでございましょう。来世も期待はできません」
心細そうで頼りない返事だった。源氏の君があれこれ励ましていらっしゃると、月は雲に隠れて朝日が差しはじめた。
人目につかないうちにとお急ぎになる。軽々と女君を抱き上げ、乗り物に乗せておやりになった。女房の右近が同乗して、乗り物は夕顔の家を出ていく。
もうすぐ明け方らしい。近所の住人が起きはじめた。いかにも貧しそうな男の声が聞こえた。
「ああ、寒い。懐も寒い。今年は商売上がったりだ。このままでは年が越せるかどうか。おおい、北隣のお前さんはどうだ」
呼びかけられた男も同じように不景気を嘆いた。細々とした商売のために、それぞれ朝早くから働いている。
女君は恥ずかしい。恋人に貧しい家を見られたばかりか、近所のむさくるしい会話まで聞かれてしまった。気取り屋の女性ならもう消えてしまいたくなるところだけれど、この女君は違う。つらさも気まずさも顔に出さず、いつもどおりのんびりと振舞う。
周りがどうであっても自分自身は上品であどけなく、近所の下世話な会話にもよく分からないという顔をしている。恥ずかしがって顔を赤くするより、かえってよい態度だと源氏の君はお思いになった。
隣の家から雷よりも恐ろしい音が響きはじめた。
枕元で鳴っているのかと思うほど大きな音で、さすがに源氏の君はお起きになる。何の音だかさっぱり分からないけれどやかましい。他にもいろいろな音がする。
そこに空を飛んでいく雁の鳴き声が合わさる。物寂しい秋の朝だった。
源氏の君と女君は、戸を開けてささやかな庭をご覧になる。植込みの葉に降りた露は、こんな粗末な家の庭であっても美しくきらめいている。
何種類もの虫の音がごちゃまぜに聞こえる。源氏の君にとって虫の音は、広い庭のどこかからかすかに聞こえるもの。これはこれでおもしろいとお聞きになる。恋の力は偉大だった。どんな欠点も気にならなくなってしまう。
夕顔の君は、白い着物に薄紫色の着物を重ねている。派手でないのがかわいらしくて可憐だった。どこがどう優れているということはないけれど、繊細で儚げな魅力があった。小さなあどけない声で話すのも守ってやりたい感じで、源氏の君はお胸が苦しくなる。
<澄ましたところも見てみたいけれど、もうしばらくこのままかわいがろう>
それにはやはり、思う存分くつろげそうなところにお移りになりたい。できれば二条の院より人目が気にならないところ。源氏の君は格好の隠れ家を思いつかれた。
「この近くに知り合いの屋敷があります。今は誰も住んでいないから、そちらへ行って明日の朝までゆっくり過ごしませんか。ここよりも静かで落ち着きますよ」
「そんな急に」
女君は子どものように困っている。
「私は来世でもあなたと一緒にいたいと思っているのですよ。今夜のことなどで迷わないで」
これであっさりとうなずいてしまうところが初々しい。世間の男慣れした女性にはないかわいらしさだった。女房たちが何と思うかなど、もうどうでもよくなる。
源氏の君は右近という女房に、家来を呼んでくるようお命じになった。すぐに乗り物の準備が始まる。女房たちは心配しながらも、男君の並々でない愛情を見てきたから、女主人の幸せを期待している。
いよいよ明け方が近くなった。
夜明けの鶏の声ではなく、近所の老人たちが仏様にお祈りする声が聞こえる。懸命に立ったり座ったりして祈っているらしいけれど、物音からよぼよぼとした年寄りくささが伝わってくる。
<人生など儚いものなのに、ああまでして何を欲しがっているのだろうか>
老人たちは来世のことも祈りはじめた。
「聞きましたか。あの人たちも来世を信じているのですね。彼らにあやかって私たちも来世を約束しましょう。ずっと一緒ですよ」
女君はためらう。
「私がこのような落ちぶれた境遇におりますのは、前世の行いが悪かったせいでございましょう。来世も期待はできません」
心細そうで頼りない返事だった。源氏の君があれこれ励ましていらっしゃると、月は雲に隠れて朝日が差しはじめた。
人目につかないうちにとお急ぎになる。軽々と女君を抱き上げ、乗り物に乗せておやりになった。女房の右近が同乗して、乗り物は夕顔の家を出ていく。