嘘つきと疫病神
乱暴に振り上げられた包丁が江波方の頭上へと真っ直ぐに振り下ろされる。
声を上げる隙もない。目の前で繰り広げられる光景を蕗と仁武は何もできないまま傍観するしかなかった。
だが、洸希が振り上げた包丁はいとも簡単に薙ぎ払われる。
江波方が弾いた衝撃で包丁は宙を舞い、地面に鈍い音を立てながら落下した。その一連の流れを洸希は絶望が滲む顔で眺めるだけである。
「……戦争なんかして、殺し合いなんかして、何が得られるっていうんだ。もう分かってるだろ、日本は負ける。このままこの国は衰退していって、分かりきった勝負の中で無慈悲に痛め続けるんだ。生きたくても生きられねえ奴がいるのに、どうして未来ある人間が死にに征かなくちゃならねえ…………」
戦争に対する反感を抱いていたから、友里恵は理不尽な理想によって殺された。毒撒きの疫病神という噂を流したのは洸希自身であり、同じ反感の意を抱く仲間を集めるための小細工だったのだろう。
同じ思いを抱いている者同士ならば、恨み合う必要などないから。
「お前は勘違いをしている」
「は………?」
「俺達は死にに征くんじゃあない。生きたいと願った人々が生きられる世界を作るために、戦場に行くんだ」
死んだ魚の目をしていると、芝が彼に言っていることがあった。背丈や体つきは申し分なく頼りになりそうなものだが、どうしても彼の性格は根暗であり内気だった。常に猫背で低姿勢、時折何か言葉を発しているが聞き取れないことも少なくない。
そんな彼が、今では真っ直ぐと背筋を伸ばし、己の理念を迷いなく言葉にしている。
死んでいた目に光が宿っていた。
「俺だって、戦争なんてなくなればいいと思う。戦争さえなければ、もっと他の人生が歩めていたんじゃないかって考えもする。でも、一度始まったものを止めることはできないんだ。俺達には、いつか終わるその日まで待っていることしかできないんだよ」
「う、うう……あ………」
「俺達は覚悟を持ったうえでこの服を着ている。政府に洗脳されたわけでも騙されているわけでもない。本気でお国のためになるのなら戦場に行くと誓ったんだ。少しでも人々が生きやすい世の中になるように」
俯いた洸希は浅黒く汚れた手で顔を覆い、声にならない呻き声を上げ出した。
何度も頭を振って嗚咽を漏らすのは、自身の理念を否定され、その上で人の決意という光に照らされたからだ。
「今更、今更なんだよ。俺達を置いて行ったくせに……今更、兄貴面なんかしてんなよ………」
顔を覆う手によってその声は低く籠る。けれどはっきりと洸希は“兄貴面”と言った。
どういうことだ。話を聞いていると、洸希は何度も江波方を自身の兄のように呼んでいる。その呼び方を江波方も否定することなく受け入れているではないか。
洸希はずっと独り身だと言っていた。それは江波方も同じで、彼から家族に関する話など聞いたことがない。
けれど目の前で語られる二人の話では、まるで兄弟であることを見せつけているようにすら聞こえる。
「洸希、話を聞いてくれ。俺はお前を置いて行ってなんていない」
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! そんなこと言って、一度でも帰ってきたことがあったか!」
宵闇から霧が漂い始めた。洸希の身体を包み込むように纏わりつく霧が徐々に彼の身体を消していく。
「もう、何も信じない。何処にも行かない。俺は、あの木と共に死ぬ」
「待て! 洸希!」
霧が晴れた頃、そこにはもう洸希の姿はなかった。
残されたのは弟を失った哀れな兄と、無惨に殺された友里恵の遺体だけであった。
声を上げる隙もない。目の前で繰り広げられる光景を蕗と仁武は何もできないまま傍観するしかなかった。
だが、洸希が振り上げた包丁はいとも簡単に薙ぎ払われる。
江波方が弾いた衝撃で包丁は宙を舞い、地面に鈍い音を立てながら落下した。その一連の流れを洸希は絶望が滲む顔で眺めるだけである。
「……戦争なんかして、殺し合いなんかして、何が得られるっていうんだ。もう分かってるだろ、日本は負ける。このままこの国は衰退していって、分かりきった勝負の中で無慈悲に痛め続けるんだ。生きたくても生きられねえ奴がいるのに、どうして未来ある人間が死にに征かなくちゃならねえ…………」
戦争に対する反感を抱いていたから、友里恵は理不尽な理想によって殺された。毒撒きの疫病神という噂を流したのは洸希自身であり、同じ反感の意を抱く仲間を集めるための小細工だったのだろう。
同じ思いを抱いている者同士ならば、恨み合う必要などないから。
「お前は勘違いをしている」
「は………?」
「俺達は死にに征くんじゃあない。生きたいと願った人々が生きられる世界を作るために、戦場に行くんだ」
死んだ魚の目をしていると、芝が彼に言っていることがあった。背丈や体つきは申し分なく頼りになりそうなものだが、どうしても彼の性格は根暗であり内気だった。常に猫背で低姿勢、時折何か言葉を発しているが聞き取れないことも少なくない。
そんな彼が、今では真っ直ぐと背筋を伸ばし、己の理念を迷いなく言葉にしている。
死んでいた目に光が宿っていた。
「俺だって、戦争なんてなくなればいいと思う。戦争さえなければ、もっと他の人生が歩めていたんじゃないかって考えもする。でも、一度始まったものを止めることはできないんだ。俺達には、いつか終わるその日まで待っていることしかできないんだよ」
「う、うう……あ………」
「俺達は覚悟を持ったうえでこの服を着ている。政府に洗脳されたわけでも騙されているわけでもない。本気でお国のためになるのなら戦場に行くと誓ったんだ。少しでも人々が生きやすい世の中になるように」
俯いた洸希は浅黒く汚れた手で顔を覆い、声にならない呻き声を上げ出した。
何度も頭を振って嗚咽を漏らすのは、自身の理念を否定され、その上で人の決意という光に照らされたからだ。
「今更、今更なんだよ。俺達を置いて行ったくせに……今更、兄貴面なんかしてんなよ………」
顔を覆う手によってその声は低く籠る。けれどはっきりと洸希は“兄貴面”と言った。
どういうことだ。話を聞いていると、洸希は何度も江波方を自身の兄のように呼んでいる。その呼び方を江波方も否定することなく受け入れているではないか。
洸希はずっと独り身だと言っていた。それは江波方も同じで、彼から家族に関する話など聞いたことがない。
けれど目の前で語られる二人の話では、まるで兄弟であることを見せつけているようにすら聞こえる。
「洸希、話を聞いてくれ。俺はお前を置いて行ってなんていない」
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! そんなこと言って、一度でも帰ってきたことがあったか!」
宵闇から霧が漂い始めた。洸希の身体を包み込むように纏わりつく霧が徐々に彼の身体を消していく。
「もう、何も信じない。何処にも行かない。俺は、あの木と共に死ぬ」
「待て! 洸希!」
霧が晴れた頃、そこにはもう洸希の姿はなかった。
残されたのは弟を失った哀れな兄と、無惨に殺された友里恵の遺体だけであった。