野いちご源氏物語 〇六 末摘花(すえつむはな)
源氏(げんじ)(きみ)はおっしゃったとおり、十六夜(いざよい)の月が美しいころにいらっしゃった。
命婦(みょうぶ)は驚いて、
「まぁ、本当にいらっしゃるとは恐れ多いことでございます。今夜は空気が湿っておりますから、楽器の音が美しく響きそうにもありませんが」
と申し上げるけれど、
姫君(ひめぎみ)のところへ上がって、少しだけでも(きん)をお弾きになるようにうまくお願いせよ。せっかくここまで来たのだ。少しでもお聞きしたい」
とおっしゃる。

命婦は源氏の君を自分の部屋にお通しして、自分は姫君のお部屋へ上がったわ。
まだ窓を閉めきっていないから、お部屋に梅の花の香りがただよっている。
姫君はお庭を眺めていらっしゃった。
命婦は<今なら>と思って、
「姫君のお(こと)がすばらしく響きそうな夜でございますね。こちらのお屋敷へ参るといつもあわただしくしておりまして、長らく姫君のお琴をお聞かせいただいておりません。ぜひ、ひさしぶりにお聞かせくださいませ」
と申し上げる。
姫君は、
「そうまで言ってくれるのなら弾きましょう。内裏(だいり)で働く人に聞かせるほどの腕前ではないけれど」
とおっしゃる。
命婦は、
<あぁ、なんて素直に弾いてしまわれるの。源氏の君はどうお思いになるかしら>
とはらはらしたわ。

ほのかにお弾きになる音が響いてきた。
特別にお上手というわけではないけれど、(きん)は音色が特殊なので、悪い感じはしない。
それに(きん)は、とても品格の高い楽器だもの。
源氏の君はあたりを見わたして、
<さすがは亡き常陸(ひたち)(みや)様のお屋敷だが、ずいぶん荒れてしまっている。宮様が古風に大切にお育てなさった姫君も、ご自分の今の境遇を(なげ)いていらっしゃるだろう。昔の物語ではこういうところで美しい恋愛が始まるものだ>
と、どきどきなさったわ。
<姫君にお声をおかけしたいが、あまりに突然だろうか>
とためらっていらっしゃる。

命婦はこのあたりが上手な女性で、(きん)()を長くはお聞かせしない方がよいだろうと判断した。
「あぁ、そういえば私の部屋にもうすぐ客が来ることを忘れておりました。また今度、ゆっくりお聞かせくださいませ。今日はこれで失礼させていただきます。空が曇ってまいりましたね。窓は閉めておきましょう」
と申し上げて、ほんの少しで終わりにしてしまったの。
命婦が自分の部屋に戻ると、源氏の君は、
「あれだけしか聞かせいただけなくては、お上手かどうかさえ分からないではないか」
と文句をおっしゃる。
ご興味をおもちになったのは確実ね。
「お部屋の近くでお聞きしたい」
とお願いなさるけれど、命婦はわざと()らして、
「それはご無理でございます。姫君はご自分の境遇を心細くお思いになって、毎日おつらそうにお暮らしなのですもの。こっそり男性を近づけるなんておかわいそうですわ」
と申し上げる。
<たしかにおつらいであろうな。誰かに気軽に悩みを相談するというわけにはいかないご身分なのだから>
とご同情なさって、
「では、私の好意をそれとなくお伝えせよ」
とだけ言うと立ち上がられた。

源氏の君はいつものご立派な格好ではなく、下流貴族のような粗末(そまつ)な格好をなさっているの。
このまま別の恋人の家へ行く予定がおありのようなので、命婦は、
(みかど)はあなた様のこういう面をまったくご存じないのですよ。真面目すぎるといつも悩んでいらっしゃいますから、私などは笑いをこらえるのに必死です。こんな格好をお目にかけたら、きっと腰を抜かしてしまわれますわ」
と申し上げる。
源氏の君は命婦の近くまで戻ってきて華やかにほほえまれた。
「そなたに言われるとはな。この程度を女好きなふるまいだと言ったら、そなたの方が困るのではないか」
自分の男好きを指摘された命婦は、顔を赤くして黙ってしまったわ。
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