野いちご源氏物語 〇六 末摘花(すえつむはな)
なかなか月が出てこなくて、頼りない星の光だけの夜。
松の枝を吹いていく風の音も物寂しいの。
姫君(ひめぎみ)父宮(ちちみや)がご存命(ぞんめい)だったころのことを思い出されて、泣きながら命婦(みょうぶ)と話し合っていらっしゃる。
命婦は、<今なら>と思って、急いで源氏(げんじ)(きみ)にお手紙を差し上げた。
<もう少し親しみやすさをお出しになってもよろしいのに。あまりに古風でいらっしゃる>
と、源氏の君が姫君をお気に召すか心配しながら、ご到着をお待ちしていた。
源氏の君はまもなくお着きになったわ。
人目(ひとめ)の少ないお屋敷だから気軽にお庭までお入りになって、命婦をお呼びになる。

命婦は何も知らなかったという顔をして、
「まぁ、どうしましょう。先日からお手紙をくださっている源氏の君が、今こちらにいらっしゃっているようでございます。姫君からなかなかお返事がいただけないことをいつも私に(なげ)いておいでで、今夜は姫君に直接お話をお聞きいただきたいと(おお)せでございます。どうお返事いたしましょう。ふつうのご身分の方ではいらっしゃいませんから、お断りするのも恐れ多うございます。物越(ものご)しにお話だけお聞きになっては」
と申し上げると、姫君はたいそう恥ずかしそうに、
「男性との話し方なんて知らないのよ」
とおっしゃる。
そのままお部屋の奥へ逃げようとなさるの。
本当に初々(ういうい)しい姫君。
命婦は姉のように優しくほほえんで、
「いつまでも少女のようでいらっしゃってはいけませんよ。宮家(みやけ)の姫君といえども、もうご両親はいらっしゃらないのですから、姫君が大人におなりにならないと。このように寂しいお暮らしですのに、せっかく訪ねてきてくれた人まで冷たくおあしらいになってはよろしくありません」
とお教えする。

姫君は素直なご性格なので、
「お返事をするのは無理よ。ただお話を聞くだけでよいというのなら、()(えん)までお上がりいただきなさい」
とおっしゃる。
「源氏の君ほどのご身分の方に、濡れ縁ではさすがに失礼でございます。もう少しお部屋に近い、縁側(えんがわ)までお上がりいただきましょう。軽率なことをなさるようなお方ではありませんよ。念のため、縁側と姫君のお部屋の間の戸には私がしっかりと()(がね)をかけておきますから、どうぞご安心なされませ」
と、命婦は敷物(しきもの)の準備を始めた。

姫君は内心おろおろなさりながら、手際よく働く命婦をご覧になっていた。
<命婦のようなことはとても私にはできないわ。あの人に任せておけば、きっとよいようにしてくれるでしょう>
と思っていらっしゃる。
もちろん姫君には乳母(めのと)もいるのよ。
本当ならこういうときは乳母の出番なのだけれど、年老いているから夕方には寝てしまうの。
若い女房たちは、突然現れた源氏の君のお姿に熱狂している。
命婦は姫君のお着替えに忙しい。
その姫君ご本人はというと、熱狂どころかぼんやりとして、されるがままになっていらっしゃるの。

源氏の君は人目(ひとめ)につかない格好をなさっているけれど、よく見れば何もかも一級品で、源氏の君のお美しさはますます際立っている。
<あぁ、こういうお姿は美しいものを理解できる人にこそお見せしたいわ。こんなところでご披露(ひろう)なさっても、理解できそうな人は見ていないというのに>
と命婦はため息をつく。
若い女房たちはもちろん、姫君もご理解できそうにないの。
<ただ、姫君はとにかくおっとりしていらっしゃる。しゃしゃり出て恥をおかきになる心配がないだけでも、私としては安心だわ。それでもどうかしら。源氏の君があまりにせっつかれるから、ついこんな手引(てび)きをしてしまったけれど、姫君のお悩みを増やすことになってしまわないかしら>
と心配していた。

源氏の君はずいぶんと姫君に期待なさっている。
<宮家の姫君というご身分からして、(おく)ゆかしい方だろう。今どきの派手で浮ついた女性ではないはずだ>
と思っていらっしゃると、姫君が戸のむこう側にお座りになった気配がする。
姫君のお着物の香りがわずかに漏れてきた。
古風なよい香りだったわ。
<おっとりした方のようだ。やはり私の期待どおりでいらっしゃる>
とおよろこびになって、姫君への長年の思いをお話しになる。
もちろん長年というのは(うそ)よ。
でも、女性を口説くときはそれが決まり文句だから。

姫君からはお返事がない。
<直接お話ししても駄目(だめ)なのか>
とお(なげ)きになって、
「あなた様がいらぬとはおっしゃいませんので、私はこれまで、お返事の期待できないお手紙を何通も差し上げてまいりました。私をお認めいただけないのでしたら、どうぞはっきりおっしゃってください。一方通行な片思いは悲しゅうございますので」
と泣き落としにかかられる。
姫君の乳母の子で、姫君に女房としてお仕えしている人が代わりにお返事をした。
「あなた様のお気持ちをお止めすることも、よいお返事をすることも、どちらもできなくて困っております」
何もおっしゃりそうにない姫君を見かねて、姫君になりすましてお返事したの。
<宮家の姫君には不似合いな華やかなお声だな。意外と男慣れした感じもする>
と、源氏の君はするどくお気づきになった。

それでもまさか女房が姫君になりすまして言ったとはお思いにならなくて、
「あぁ、うれしくて言葉がうまく出てまいりません。やっとお声をお聞かせくださいましたね。たしかに、気持ちは口にした途端(とたん)軽くなってしまうものです。あなた様がお気持ちをお心のうち(とど)めておかれたいのはごもっともですが、何もおっしゃっていただけないのも苦しいものなのですよ」
と、あれこれと優しくお口説きになる。
姫君はあれきりお返事をなさらない。

<私がここまで申し上げても態度をお変えにならないとは。いったいどんな女なのだ>
と、源氏の君は戸を開けて姫君のお部屋に入ってしまわれた。
戸には命婦が掛け金をかけておいたけれど、ああいう掛け金ってつくりが単純で、外し方を知っていればむこう側からでも外せてしまうのよね。

命婦は、
<やはり油断できないお方だったわ。でも、もうどうしようもない。姫君がお気の毒だけれど、自分はここにいない方が、おふたりどちらのためにもよいだろう>
と思って、自分の部屋に戻っていった。
女房たちは、
<ふつうの男性ならとんでもなく無礼(ぶれい)なふるまいだけれど、源氏の君ならお許しするしかないわ。ただ、姫君は何の知識もおありでないもの。それだけがお気の毒ね>
と、こちらもお部屋から下がっていったの。

女君(おんなぎみ)は恥ずかしくてたまらなくて、気が動転していらっしゃる。
源氏の君は、
<はじめはこのくらいがよいのだ。大切に育てられた世間知らずの姫君でいらっしゃるのだから>
とそれなりに満足なさるけれど、その一方で、なんともいえない違和感をお覚えになったの。
失礼を承知でしいて言うなら、変な生き物をお抱きになったような違和感。
これはもう駄目ね。
源氏の君はため息をおつきになって、まだ夜明けまで()があるのに帰ろうとなさる。
命婦はおふたりがどうなるかが気になって起きていたから、お帰りになる物音に気づいたけれど、
<やはりお気に召さなかったのね>
と寝たふりを決めこんでいた。
<姫君はお見送りなどしていらっしゃらないだろう>
と思ったけれど、姫君のお部屋まで行ってお教えする気にもなれない。
源氏の君も命婦のところへは寄らず、黙って出ていかれたわ。
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