ないものねだり

Ⅰ.帰らない母



私は母に捨てられた。




何もない鍵の掛かったワンルームのアパート。

ミルクの出ない哺乳瓶を持ち、それでも”生きたい”と、

強く泣いていたらしい。



”小園 沙矢”(こぞの さや)
5月1日生 満6か月



置いてあった母子手帳を見て、泣き叫ぶ私を優しく抱き上げ、

大家さんと児童相談所の職員は部屋を後にした……。


幼少期の私は活発で、大自然の児童養護施設で育った。

私は常に誰かと行動を共にするいわゆる ”かまってちゃん” だった。


母がいない私はいつも誰かの母を見て、


「沙矢もママ帰ってくる?」


と、帰らない母を思って施設の先生何度も聞いていた。


理不尽な事も沢山あった。

施設の子だからと、遊んじゃだめだと他の同級生とも遊べなかった。

運動会も、参観日も、誕生日も、クリスマスも、全部、


母はこなかった…




中学にも上がると少し大人になった気がした。




「制服写真撮っとこうか。」


聞きなれない女性の声。

中学に上がり私の担当の先生が変わった。



私が育った施設は3つの寮に分かれている

1歳から小学6年生までの寮と、中高生の女子寮、

そして中高生の男子寮。

人数は満員60人の大規模児童養護施設。

施設のルールはとても厳しかった。

毎日中高生の女子は4時に起きて60人分の朝食作り。

土日は自給自足という名の強制労働。

スマホはもちろん持てなくて、下着の色まで決められていた。

そして、”恋愛の絶対禁止”

その他にも大量の決まりごとがある。

対外、守れなくて反省文と、

一か月の娯楽禁止におこずかい没収にみんな一度は体験していた。


まぁ、私が施設を卒業した時に書いた反省文の量は、

通常なら2~3回の反省文30枚程度だろうけど、

私はその4倍は書いていたと思う(笑)



そんなこんなで始まった中学生生活。



新しい黒のセーラー服に、新しい靴、新しい学生バック、

少し大人っぽくみられたくて伸ばした黒髪を

綺麗にポニーテールに結んだ、まだ幼い笑顔の雰囲気の残る少女は

これから身に起こる沢山の傷を知らないまま、はにかんで笑っていた……。






< 2 / 40 >

この作品をシェア

pagetop