運命なんかじゃない
運命なんかじゃない
青い空に青い海。
広がる景色に、秋尾まどかははあっと息を吐いた。
定番が定番である理由がよくわかる。透き通る空はどこまでも広く、海の青と白い波の揺れるコントラストはどれだけ見ていても飽きず、心の澱みを洗い流してくれるかのようだ。
春の日差しがそそぐフェリーの甲板はコートを着ていると暑いくらいだが、冷たい風が肩までの髪を撫でて通り過ぎるのが心地いい。ゆったり流れる景色に、時間までゆるやかになったように錯覚する。
この解放感、ほかでは味わえないなあ。迷ったけど、来てよかった。
まどかはうーんと伸びをする。
日頃のデスクワークで凝った肩がごきごきと色気のない音を立てたが、筋が伸びて心地いい。
神奈川から千葉へ行くならアクアラインの方が早いが、船旅を味わいたくてあえてフェリーにしたのだ。
船首側の甲板のテーブル席でペットボトルのジュースを飲む。
こんなとき、お酒が好きな人ならビールかな。おいしさ倍増なんだろうなあ。
まどかはお酒に弱いから、羨ましくなってしまう。
お酒が飲めれば、失恋の痛みをアルコールでまぎらわすこともできるのだろうか。
おしゃれなバーで失恋にひたる、それはとても大人っぽい気がする。
二十九歳にもなって男にふられて旅に出るとか、大人のやることではないだろうか。
「そんなことない。大人の経済力だからこそできることだわ」
まどかは独り呟く。
つきあって二ヵ月、彼からの告白でつきあい始め、キスまでもいかずにふられた。自分が原因ではあるがそれを認めることができず、釈然としないまま気分転換に旅行を決めたのだ。初めての彼氏だったからそれなりに浮かれていたが、彼を好きだったかと問われると、正直なところ自信がない。
また海を眺めようと目を向けたとき、甲板の端に女性が立っているのが見えた。
レースとフリルがたっぷりついた若草色のかわいいワンピースを着ていて、大きなリボンの飾られた長い金色の髪はゆるやかに巻かれていた。衣装からして十代かと思ったが、顔付きをみるとどうやら二十代のようだ。
彼女は暗い顔をしていて、落ち着きなく周囲を見ている。
どうしたんだろう、と思うと同時に嫌な予感が胸に湧く。
まさか……ね。
そう思いながらも、目は女性から離せない。
ふたりの男性が船内から現れ、話し声が耳に届く。三十前後だろうか、たくましい体つきをしていて、だけどさわやかな雰囲気がした。
なんだかそれだけでほっとした。
人目があるところならなにかすることはないだろう。そう思ったのに。
あろうことか、女性は甲板の手摺を乗り越えた。
「嘘!」
まどかは慌てて席を立って彼女に駆け付けた。
「駄目です、落ちちゃいますよ!」
女性の腕を掴み、まどかは制止する。
「あんたじゃない」
ぼそっと呟く声に、まどかはきょとんとした。
女性は構わず叫び始める。
「離して、もうぜんぶ嫌なの! 私なんて誰からも必要とされてない、いないほうがいいのよ!」
叫んで、彼女は海へ飛び込もうとする。
「駄目です、誰か!」
叫んだときだった。
女性がぐいっとまどかをひっぱり、彼女は力負けして手すりを超えてしまう。
浮遊感は一瞬で、すぐさま重力がまどかを海へと導く。
「きゃあああ!」
水面に叩きつけられ、激しい水しぶきが上がる。痛みが走ったときにはもう海中にいた。
上下の感覚がなくなり、水面がわからない。パニックになってただもがくしかなかった。
かろうじて明るい方が水面だと察してそちらへ向かう。冷たい海水が全身を刺すが、生命の危機に四肢は必死に抵抗を見せた。
「ぶは!」
海面に顔を出して、咳き込みながら荒い呼吸をする。
水を吸ったコートが重くて、波もあってうまく動けない。
あの女性は、と見回すと、一メートルほど先でばしゃばしゃともがいていた。
「助け、て! 泳げ、ない、の!」
女性は波にもまれて海水を浴びながら切れ切れに叫ぶ。
「落ち着いて!」
まどかは声をかけ、船上を見た。
さきほど見かけた男性たちがこちらを見てなにか話している。
良かった、すぐに救助は来るだろう。
だが、フェリーは彼女が思うより早い。船の上にいるときはのんびり進んでいるように見えたというのに、あっというまに置いて行かれてしまいそうだ。
置き去りも恐怖だが、船尾のスクリューに巻き込まれたら命はないだろう。
どうしよう、どうしたらいいの。
そう思ったときだった。
女性が近付いて来て、まどかにしがみつく。
女性の重みでいったん沈みかけ、彼女は必死にまた顔を水面に出した。
「助けてったら!」
女性が叫ぶ。
「落ち着いて、しが、げほっ、しがみついたら、うぷっ、沈むから!」
なんども沈みかけ、海水を飲みながら彼女は言う。だが、女性は一向に離れない。さらに、服が肌にはりついて、水の冷たさもあって思うように動けない。
「嫌よ、自分だけ、た、助かる気!?」
波にもまれながら女性が言う。
このままじゃふたりとも死ぬ。
まどかが死を覚悟したときだった。
「掴まれ!」
叫び声とともに、なにかが投げ込まれた。ばしゃん、と音がして近くに浮き輪が浮かぶ。
まどかはすぐに浮き輪に掴まり、女性が掴まりやすいように差し出す。
女性は必死に浮き輪に掴まり、まどかをぐいっと押した。
「あんたがつかまると沈むじゃない!」
「え!?」
まどかは呆然とした。
一緒に掴まるものだと思っていたから。
「離しなさいってば!」
さらに押され、かじかんだ手が浮き輪から離れてしまった。
「きゃ!」
波がまどかを浮き上がらせ、さらに浮き輪から離れる。
体は冷たい水で凍え、うまく動かない。
とにかく浮かばないと。上向きに浮かぶのよね。
そう思って背浮きを試みるが、恐怖が先に立ってしまい、うまく浮かべない。
せめてと思い必死で水をかくが、やはり波にのまれて海水をしこまた飲むはめになった。
「た、助け……」
声が続かず、力が抜けていく。
そこへ大きな波がきて、まどかは沈んだ。
今度こそ、もう駄目かもしれない。
水面を見上げると、差し込む光できらきらと輝いて見えた。
きれいだ、と思ったのは一瞬のことだ。
息が続かず、ごほっと吐いた直後に海水が喉に入る。
苦しい! 痛い!
もがいたが、手足はうまく動かなくて沈む一方だ。
きらきら光る海面に、突然、無数の気泡が生まれた。
誰かが飛び込んだのだ、と気が付いたときにはその誰かはまどかの手をぐいっとひっぱり、海面へと泳ぎ始める。
海面へざばっと顔が出て、肺が空気を捉える。
げほげほと咳込むまどかを、後ろから羽交い絞めのように誰かが支えてくれていた。
「ひかる! 投げるぞ!」
声がかけられ、ばしゃ、と浮き輪が投げ込まれた。
彼は器用にまどかを支えたまま泳ぎ、浮き輪に彼女を掴まらせる。
「もう少しだけがんばれ。すぐに救助が来るから」
彼女はただうなずいた。声を出して返事をする余裕などなく、ただガチガチと震えながら浮き輪を掴んだ。
当然、助けてくれた彼を見る余裕などない。浮き輪につかまるまどかを後ろから抱きしめるようにして支え、彼女の手が浮き輪から離れないように重ねてくれている。その温かさに、自分はきっと助かるのだと希望のぬくもりのように思った。
数十分をかけ、まどかたちはフェリーの救助用リフターで船上へと引き上げられ、救助された。
救護室で毛布にくるまり、まどかはがたがたと震えていた。
旅行で着替えを持っていたから着替えることはできたが、髪は濡れたままだし、ひたすら寒い。
用意された電気ストーブの前には女性が陣取っていて、まどかはその恩恵にあずかれない。エアコンは最強に設定されていて、部屋全体が温かいのが救いだ。
船員がくれた温かなミルクが入ったカップを両手で持って口に含む。熱くて少ししか飲めなかったが、それでもぬくもりがありがたい。
「なんで着替えを持ってるのよ。ずるくない?」
彼女の恨み言に、まどかは顔をひきつらせた。ストーブを独占している彼女に言われたくない。
「旅行の予定だったから……」
「私にも貸してよ」
「余分なんて持ってないから、ごめん」
女性は舌打ちをして、ふん、と顔をそらした。
海にひきずりこまれたあげくにこの仕打ち、とまどかは呆然とした。
ドアがノックされ、船員の男性が入ってきた。
「フェリーは神奈川に戻る航路に着きました。港に着いたら病院に行きましょう。そのあとは海上保安庁の聴取もあります」
海上保安庁と聞いて驚いた。そんな存在、今までの人生で縁がない。だが、これも事故であり、船会社としては届けなどが必要なのだろう。
せっかくの旅行が、と彼女はため息をついた。宿にキャンセルの電話を入れなくては。当日キャンセルなら宿代は返ってこないだろう。病院代は自腹だろうか。保険は効くのだろうか。
「そんな必要ないです」
女性が震えながら言う。
「私のせいでみなさんの予定が狂うなんて申し訳ないです。予定通りに千葉に向かってください」
「そういうわけにはいかないんです」
困ったように船員が言う。
まどかは複雑な気持ちで聞いていた。
言葉だけなら殊勝に聞こえるが、内容はわがまま勝手にしか思えない。
迷惑をかけたくないなら、どうして飛び込んだのか。それとも飛び込んだことで冷静になったのか。
ドアがノックされ、ふたりの男性が入ってきた。ふたりともガタイが良く、服の上からでも鍛えられていてるのがわかる。髪は黒く短かった。
ふたりとも精悍な顔立ちをしていて筋肉がすごかったが、ひとりは切れ長の目が鋭くシャープな印象で、もうひとりはまさに『筋肉』という豪快な印象を受けた。ソフトモヒカンが彼の男らしさをひきたてているように見える。
シャープな人はツーブロックの髪が濡れていて、救助で飛び込んだ人なのだとわかった。彼も着替えを持っていたのか、服は着替えられていた。
「おふたりはご無事ですか?」
シャープな男性がたずねる。
「外傷はないようです」
「それはよかった」
船員の答えに彼はほっとしたようだった。
まどかは慌てて頭を下げた。
「さきほどは」
「ありがとうございますぅ!」
女性の声がかぶせるように大きく響いた。
「あなたは命の恩人です!」
女性は男性の手をとって胸のあたりでぎゅっと握りしめ、うるうると男性を見つめる。
彼女の勢いに、まどかはたじろいだ。
この女性が理解できない。自ら飛び込み、助けろと言い、今は男性に媚を売る。
「当たり前のことをしただけですから」
男性は顔をしかめて手をふりほどき、一歩をひく。
「お礼をしたいのでお名前と連絡先を教えてください! 私は宇江田風和璃です!」
「けっこうですから」
シャープな男性はきっぱりと断る。
まどかは筋肉質な男性に頭を下げた。
「浮き輪を投げてくださったんですよね。ありがとうございます。私、秋尾まどかと言います」
「あ、気付いてくれてたんだ。うれしいな」
男性はにこっと笑った。精悍な顔がそのときだけかわいくなった。
「俺、朝比奈諒。こいつは飛島光駆」
諒の言葉に、女性の耳がぴくっと反応した。
「ヒカルさんっておっしゃるんですか!」
「お前……!」
シャープな男性、光駆が恨みの眼差しを送り、諒はやべっというように目をそらす。
「私たち、運命の出会いですね!」
女性がきゃぴきゃぴと光駆にからみつく。
元気だな、とまどかはどん引きしながら見ていた。
翌週の土曜日、まどかは大学時代からの友達、八瀬結奈と一緒に街でお茶をしていた。オープンテラスで春の陽気に包まれて飲むカフェオレはおいしい。お店のひざ掛けを借りていたものの、使わずにすむほどの気温だったから背もたれにかけておいた。
「……というわけで、旅行が台無しだったの」
まどかは先週の旅の結果を結奈に話した。
「失恋旅行で巻き込まれて溺れるとか悲惨。ニュースにもなってたけど、ふたりの女性が転落して救助されたとしか言ってなかったなあ。ケガがないなんて、運がいいね」
フェリーの甲板からではそこそこの高さがあるから水面に落ちた衝撃も強くなる。多少の打撲ですんだのは不幸中の幸いと言えるのだが。
「運……いいのかなあ」
飛び込む女性に遭遇する時点で運が悪いように思える。さらには名前が出てないとはいえニュースになってしまい、しばらくは落ち着かない日々を過ごした。
「あんたって昔から急病人やけが人や迷子に遭遇するけど、今度は飛び降りかあ。正確には飛び込み?」
「自殺かと思ったけど、助けてっていうし、なんだろうね」
「死のうと思ったけど怖くて嫌になったとか、よくあるみたいよ」
「へえ……」
うんざりとまどかはため息をつく。
「ん? ちょっと待って、その女、殺人未遂じゃない? 浮き輪からあんたを引き剥がしたんでしょ? しかも助けられるのも自分が先だってごねたんでしょ?」
「うん」
まどかはそのときのことを思い出して憂鬱にカフェオレを飲んだ。
救助用のリフターで船上に吊り上げられるとき、男性はまどかを先に上げようとしてくれたのだが、女性——風和璃は自分のほうが重症だと元気に叫び、気力のなかったまどかは彼女を優先してもらった。そのほうが結果として早く救助してもらえそうだったから。
幸いにも低体温症になる前に救助してもらえて、ほっとした。あのまま漂えば低体温症で動けなくなった後に溺死もあり得た。
「ああいうときのって、罪にはならないらしいよ。緊急避難で」
「ひどすぎる! 民事で訴えたら!?」
「助かったんだから、もういい」
お金も手間暇もかけて訴える気になどなれないし、もうあの女性とは関わりたくない。
「あんたって優し過ぎる」
結奈はぷんぷんと怒りながらコーヒーを飲む。
「失恋のあれこれが吹き飛んだのはある意味でありがたいかも」
「何回も行き倒れに遭うなんてありえないってふられたんだっけ。デートが人助けで中断されるのが気に入らないって」
「うん……」
ご老人が目の前で倒れたり迷子が泣いていたり、なぜか高頻度でそういう人たちに遭遇する。好きでそうなっているわけでもないのに元カレには自分のせいにされて、今でも納得はいっていない。
「そんなちっさい男とは別れて正解だよ。助けてくれた人と恋に落ちたりってことはないの?」
「その場でさよならだよ。ドラマみたいにはいかないって」
「助けてばっかりのまどかが逆に助けてもらったって珍しいのに。ともあれ無事でよかった」
「それだけが救いだよ」
ため息をついてカフェオレを口に含んだときだった。
歩道を歩いていた女性がふらふらと街路樹によりかかり、ずるずると座り込むのが見えた。
「また!」
彼女はつぶやくと、背もたれにあったひざ掛けを持って女性に駆け寄り、結奈もそれを追った。
「大丈夫ですか?」
声をかけると女性はうなずく。
「めまいがして……」
「貧血かな。とりあえずそのままで」
まどかはひざかけを彼女にかける。ただの貧血ならいいが、体調が戻らなさそうなら救急車を呼ばなくてはならない。
「すみません」
女性は謝り、ほっとしたように木に寄り掛かる。
「お水もらってきましょうか?」
結奈が聞くと、女性は首を横に振った。
「どうされました、大丈夫ですか」
男性の声がかけられ、振り返る。
「あ!」
まどかは思わず声をあげた。
船で出くわした男性たちがいた。名前は確か、飛島光駆さんと朝比奈諒さん、と思い出す。
「あのときの」
光駆も驚いて声を上げる。
「どうされたんですか」
「お茶をしていたら女性が倒れて」
「そうですか、意識は」
「あります。貧血のようです」
「すみません、お手数を……もう治りましたので」
女性は立ち上がり、ひざ掛けを彼女に返す。
「ほんとに? 無理してませんか?」
「大丈夫ですから」
「まどか、あんまりひきとめても失礼だよ」
結奈に言われて、まどかは仕方なく引き下がる。
「お気をつけて。ご無理なさらずに」
声をかけ、まどかは結奈と一緒に女性を見送る。
「大丈夫そうですね。じゃ、俺たちはこれで」
光駆はあっさりその場を立ち去ろうとする。
「待ってください!」
まどかは思わず引き留めた。
「この前は本当にありがとうございました」
連絡先を聞いて手土産を持ってお礼に行くのが正しいのだろうが、もうひとりの女性から連絡先を聞かれて迷惑そうにしていたから、聞きづらい。下心があると思われるのも嫌だ。
「お時間ありますか? 良かったらお礼にコーヒーでも奢らせてください」
せめてそれくらいのお礼はさせてもらわないと申し訳ない。
とはいえ自分から男性にこんなふうに言うのは初めてで、胸がどきどきしていた。
「いえ、けっこうです」
断られて、まどかしょんぼりとうなだれた。恩人とはいえ知らない男性をお茶に誘うのはけっこうな勇気が必要だったのに。
「俺は喉かわいたなあ」
諒がそう言い、光駆は眉を寄せた。
「いいじゃねーか。おごってもらおうぜ。ちょうどカフェの真ん前だし。あ、ケーキもいい?」
「もちろん、どうぞ!」
まどかが答えると、光駆はふうっと息をついた。
「お茶だけごちそうになります」
彼はクールにそう答えた。
彼らと一緒にカフェに戻って店員を呼び、光駆はコーヒーを、諒はケーキセットを頼んだ。
「私、秋尾まどかです。本当に、先日はありがとうございます」
まどかは改めてお礼を言った。
「私は八瀬結奈です。私からもお礼を言わせてください。まどかは親友なんです。助けてくれてありがとうございます。飛び込んで助けるなんて、すごすぎます」
「俺は飛島光駆。こいつは朝比奈諒。通常はそんなことはしてはならないんですけどね。様子がおかしかったから」
答えて、光駆は届いたコーヒーをブラックで飲んだ。
普通は備え付けの浮き輪を投げ込み、係員に連絡して救助してもらうものだ。だがあのときは彼が飛び込んでくれたからこそ助かった。春の冷たい海に飛び込んで助けるなんて並の人間にはできないだろう。
目撃者がいなかったら、いや、目撃したのが彼らでなかったら自分は命がなかっただろう、とまどかは思う。
諒はケーキセットをスマホで撮影してSNSに上げていた。
「あの人さあ、俺たちが甲板に出たのを見計らって飛び込んでたよね」
諒はそう言ってケーキをフォークで切って口に入れた。
まどかは驚いた。
確かにタイミング的にはそうだろうが、そんなことをする人がいるものだろうか。
「たまにいるよね、そういうことして人の気を引こうとする人」
結奈は憤りを隠さず頷く。
同情されて気持ち良くなりたいのはわからないでもないが、死ぬかもしれないのに海にダイブして気を引こうとするなんて、その気持ちはまったくわからない。
「でも泳げないって言ってましたよ。本気だったのかも?」
「あの人は泳げるよ。実際、沈みもせずうまく浮いてましたから」
光駆の言葉にまどかは唖然とした。そんな人に巻き込まれて命を失いそうになったなんて、怖すぎる。
「運命の出会いとか言われちゃったよなあ?」
「お前が迂闊に名前を言うから、調べられて駐屯地まで来て大変だったぞ」
光駆は軽く諒を睨んだ。
「それは謝るけどさ、まさかそうなるとは思わないじゃん」
「ちゅうとんち?」
結奈が首をかしげると、ほがらかに諒が答えた。
「俺ら陸上自衛隊なんだよ」
だからこんなに筋肉ついてるのか、となんだか納得した。緊急時の的確な判断も訓練のたまものなのだろうか。
「陸上自衛隊でも泳ぎは得意なんですね」
「水泳の訓練もするからね」
光駆が微笑して答え、まどかはどきっとした。怖いくらいのシャープさがやわらいで、まるで今日の日差しのように温かだ。
「ところで、まどかさんは独身? 恋人いる?」
「え?」
諒の唐突な質問に、まどかは戸惑う。
「まどかさん、かわいいよねえ、自衛隊員の彼氏とかどう? 俺ら恋人募集中でさ」
まどかは戸惑う。こんなに急にぐいぐい来るなんて。
「やめろよ、困ってるだろ」
光駆が止めると、諒は眉を上げた。
「お前だって、彼女かわいいなって言ってたくせに」
「おま、やめろ!」
慌てて光駆が止めるが、諒はにやにやしている。
「ふーん、緊急時でも女性のチェックはちゃっかりするんだあ」
結奈が半目で彼らを見た。
「仕方ないよ、アラサーのお年頃なんだから」
諒がにやっと笑う。
「やめろって、失礼だろ。すまない、普段は男ばかりのところにいるからどうしても雑になってしまうようで」
光駆は頭を下げる。
「大丈夫です」
まどかはどきどきして答える。
諒は普段は接触したことのないタイプで少し怖い。男性が苦手でなるべく接触しないようにしてきたから余計にかもしれない。
一方の光駆は口数が少なくて、怖くない気がする。
いや、怖くないどころか……。
「こいつ、いつも冷静ぶってて、なにごとも興味ないってふりして結局はおいしいとこ持ってくんだぜ。嫌になる」
「そういう人いますよねえ」
結奈が頷く。
「気が合うなあ。実を言うと結奈ちゃん、タイプなんだよね。彼氏いる?」
「かっる! 羽毛より軽い!」
結奈はけらけらと笑って流した。
「でもまどかにはしっかりした人がいいなあって思ってたんですよ。自衛隊の人なら安心かも」
「俺らならばっちりだよ!」
「この子、大変な運命を抱えてるから軽い人はお呼びじゃないかな」
結奈にきっちり釘を刺され、そんなあ、と諒は肩を落とす。
「ちょっと、結奈」
まどかは止めるが、結奈は止まらない。
「昔っから通りすがりに困ってる人によく遭遇するの。元カレには不自然だって言われてふられて。助けを求めるふりして善意につけこむ男に遭遇して男性が苦手になっちゃって、いい人と幸せになってほしいなあって思ってて」
「だから、そういうこと言わないで!」
ちらりと見ると、光駆は目を丸くしてこちらを見ている。
「ほら、ドン引きされてるじゃないの。——すみません」
彼女は慌てて頭を下げる。
「そういう星の元に生まれたのかなあ、人助けをする運命、みたいな」
諒が言う。
「まだそんなふうに割り切れてないんですけどね」
まどかは苦笑した。運命なんて呪いみたいだし、あきらめるときに使う言葉のように思えてならない。
「迷子や病人を見つけるのはあなたが周囲をよく見ているからでしょう。観察力がある証拠です」
光駆が言い、まどかは驚いて彼を見た。
こんなことを言われたのは初めてだったし、考えたこともない観点だった。
「わかってくれる人がいてよかったねえ!」
結奈がここぞとばかりに乗っかる。
「この子、いかがですか? 優しいしおすすめ!」
「ちょっとやめてよ、すみません」
結奈を止めてから、まどかは謝る。
「あー! 見つけたあ!」
唐突な声に、まどかは驚く。
振り向くと海に飛び込んだ女性が立っていた。フリルたっぷりの水色に白い花の咲いた衣装を着て、ツインテールの髪は美しく巻かれている。メイクは目をぱっちりさせて垂れ目に見せ、幼げな雰囲気を醸し出していた。
「あのときの……」
まどかは顔をひきつらせた。どうしてここにいるのだろう。
「あなたの風和璃ですう! 会いたかったー!」
彼女は大きな声で言い、光駆に寄って来る。
「こんなところで再会するなんて、運命ですよねえ! 運命の再会!」
きゃぴきゃぴと彼女は言うが、光駆たちは完全に引いている。風和璃だけが気付いていない。
「お前がさっきSNSに上げたせいだな」
光駆がぼそっとつぶやき、諒が青ざめる。
「店名も地名も書いてないのに。ブロックもしたのに」
「ブロックは私を試したんですよね、これくらいの障害は乗り越えて見せろって。それで今日はヒントをくれたんですよねえ? 愛があるならわかるだろ、みたいな」
語尾にハートをつけながら風和璃は言い、じろりとまどかを見た。
「どいてくださいよ、私の席がないので」
まどかは思わず腰を浮かせたが、結奈に服をひっぱられて座り直した。
こんな図々しい人に遭遇したのは初めてで、対処がわからない。
風和璃はいらいらした様子でまどかを睨む。
「この男が狙いなら無駄だよ、彼女とつきあってるから」
諒がまどかを示して言い、まどかは驚いて彼を見る。
頼む、と目で合図されて、何も言えなくなった。
人助けする運命と言われたばかりだが、こういう形での人助けなど初めてで、どうしたらいいのかわからない。
「嘘よ、そんなの今まで一言も言わなかったじゃない」
「最近決まったの。だから今日、私とこの人にお披露目だったってわけ」
にやにやと結奈が便乗して言う。
「そ、そうなの、出会ってすぐに恋に落ちて」
恩人への恩返しだ、とまどかも便乗した。
「そういうわけだからあきらめてくれ」
とうとう光駆まで便乗した。
まどかは気まずく風和璃を見る。
ぎりぎりと睨みつけられ、慌てて目をそらした。
「帰ってくれ、迷惑だ」
「……そうは言っても、運命からは逃れられないんですからね」
風和璃は再度まどかを睨んでから去っていった。
はあ、とため息をついて、まどかはカフェオレを口に含む。冷めきったカフェオレは冷たく舌に苦みを残した。
「いやああ、ごめんねえ、俺のせいで! まどかさんのおかげで撃退できたから、今度は俺がお礼するよ! お前も恩人にお礼したいよな!」
諒は光駆の背を叩き、彼は苦虫をかみつぶしたような顔で諒を見る。
「けっこうです。大丈夫です」
「お礼してもらいなよー」
慌てて断ったまどかに結奈はにやにやと笑う。
「とりあえず俺らだけでも連絡先交換しよっか」
諒がスマホを出し、結奈もスマホを出して連絡先を交換し始める。
光駆ははペンを取り出すと、紙ナフキンを手にした。
ざらざらした表面にすらすらとスマホの番号を書いていく。
「こんな紙ですまない。なにかあったら連絡をください。こちらで対処します」
「え、あ、はい」
まどかは戸惑いながらも受け取る。
「アナログだな、お前」
諒がひやかすのを、光駆は黙って受け流す。
もしかして、とまどかは思う。自分が怖がるかもしれないと気遣って、だからこんな形で連絡先をくれたのではないだろうか。
彼の気遣いがうれしくて、連絡先が書かれた紙をそっと両手で包み込んだ。
ひとしきり会話を楽しんだまどかたちは、別れを惜しみながら席を立つ。
結局、会計は彼らが払ってくれてまどかは恐縮してしまった。
店を出てすぐ、まどかと結奈は頭を下げる。
「すみません、ごちそうになってしまって」
「ありがとうございます」
「いいって、男が払わないとかっこつかないし、俺らのせいで変な人が来ちゃったし」
諒がにこっと笑って言う。
「ますますお礼しないとねえ」
にやにやと結奈がまどかをけしかけてくる。
「気にしなくていいですから」
笑みを浮かべた光駆はいっそう素敵に見えた。
「ですけど」
そう言ったときだった。
「危ない」
光駆に抱き寄せられ、まどかはどきっとした。
背後からふたりの子どもが自転車で暴走してきて、わーっと楽しげな声をあげながら走り去っていった。
「危ないなあ、もう!」
結奈は怒りながら子供たちの後ろ姿を見送る。
「子どもって視野が狭いからなあ」
諒は結奈の隣で呟く。
「大丈夫?」
光駆の声が耳元でして、まどかは思わず背筋を伸ばした。
「だ、大丈夫です!」
抱き寄せられた彼の肩幅の広さ、彼の腕の力強さにまどかの胸はどきどきして止まらない。
ふいに思い出す。
海の上でも彼はこうして支えてくれていた。ずっと、抱きしめるように。
あのときは考える余裕がなかったが、見知らぬ男性にずっと後ろからハグされていたのだと思うと恥ずかしくて仕方がない。
「やっぱりさ……」
吐息のようにそっと彼はまどかに囁く。
「なにもなくても連絡がほしいな」
耳元に届く誘惑に、まどかはかーっと赤くなった。
「連絡……します」
「ありがとう」
温かな声に彼が微笑しているのを感じ、まどかはどぎまぎと胸を押さえた。
「で、いつまで抱き合ってるのかな?」
諒のからかう声に、ぱっと光駆が手を離し、まどかも慌てて体を離した。
「すまない」
「いえ、大丈夫です」
まどかは赤くなったまま、謝る彼を窺う。
彼の耳が赤くなっていて、なんだかかわいくなってしまった。
帰ったらすぐに彼に連絡を入れた。
『秋尾まどかです。この前も今日も、ありがとうございました』
考え過ぎて、それだけの文章しか打てなかった。
どきどきする胸は彼からの『連絡ありがとう』の返事でさらに高鳴る。
彼とは毎日のようにメッセージをやりとりした。
おはよう、お疲れ様などのスタンプ。今日のごはんはなにか、仕事でなにがあったか。
たわいもなりやりとりなのに、どんどん胸が熱くなっていく。
そうして二週間後、彼とふたりで会う約束をした。
当日は朝から落ち着かなくて、起きてからそわそわと身支度を整えた。
奇跡的に髪がきれいに巻けたし、がんばって肌を整えたおかげか、メイクのノリもいい。
今日のために買った春服は明るくさわやかでかわいい。
まどかは緊張し、早めに家を出た。
日差しは温かく、まるで自分を応援してくれているかのようだった。春コートは冬のそれよりも軽くて、足取りもまた軽くなる。
待ち合わせの駅前につくと、彼はもう来ていて、まどかは小走りで彼に駆け寄った。
「お待たせしました」
「俺も今来たところだから」
彼はにっこりと微笑む。それだけで春の陽が数倍輝いた。
「光駆さーん!」
聞いたことのある女性の声が響き、まどかははっとしてそちらを見た。
風和璃がにこにこと走って来るのが見えた。
レースたっぷりのピンクと花柄で構成されたふわふわのワンピースに、コートもまたピンク色でレースたっぷりだった。長い髪はツインテールでメイクは濃い。
なんであの人が、とまどかは驚愕に動けない。
広がる景色に、秋尾まどかははあっと息を吐いた。
定番が定番である理由がよくわかる。透き通る空はどこまでも広く、海の青と白い波の揺れるコントラストはどれだけ見ていても飽きず、心の澱みを洗い流してくれるかのようだ。
春の日差しがそそぐフェリーの甲板はコートを着ていると暑いくらいだが、冷たい風が肩までの髪を撫でて通り過ぎるのが心地いい。ゆったり流れる景色に、時間までゆるやかになったように錯覚する。
この解放感、ほかでは味わえないなあ。迷ったけど、来てよかった。
まどかはうーんと伸びをする。
日頃のデスクワークで凝った肩がごきごきと色気のない音を立てたが、筋が伸びて心地いい。
神奈川から千葉へ行くならアクアラインの方が早いが、船旅を味わいたくてあえてフェリーにしたのだ。
船首側の甲板のテーブル席でペットボトルのジュースを飲む。
こんなとき、お酒が好きな人ならビールかな。おいしさ倍増なんだろうなあ。
まどかはお酒に弱いから、羨ましくなってしまう。
お酒が飲めれば、失恋の痛みをアルコールでまぎらわすこともできるのだろうか。
おしゃれなバーで失恋にひたる、それはとても大人っぽい気がする。
二十九歳にもなって男にふられて旅に出るとか、大人のやることではないだろうか。
「そんなことない。大人の経済力だからこそできることだわ」
まどかは独り呟く。
つきあって二ヵ月、彼からの告白でつきあい始め、キスまでもいかずにふられた。自分が原因ではあるがそれを認めることができず、釈然としないまま気分転換に旅行を決めたのだ。初めての彼氏だったからそれなりに浮かれていたが、彼を好きだったかと問われると、正直なところ自信がない。
また海を眺めようと目を向けたとき、甲板の端に女性が立っているのが見えた。
レースとフリルがたっぷりついた若草色のかわいいワンピースを着ていて、大きなリボンの飾られた長い金色の髪はゆるやかに巻かれていた。衣装からして十代かと思ったが、顔付きをみるとどうやら二十代のようだ。
彼女は暗い顔をしていて、落ち着きなく周囲を見ている。
どうしたんだろう、と思うと同時に嫌な予感が胸に湧く。
まさか……ね。
そう思いながらも、目は女性から離せない。
ふたりの男性が船内から現れ、話し声が耳に届く。三十前後だろうか、たくましい体つきをしていて、だけどさわやかな雰囲気がした。
なんだかそれだけでほっとした。
人目があるところならなにかすることはないだろう。そう思ったのに。
あろうことか、女性は甲板の手摺を乗り越えた。
「嘘!」
まどかは慌てて席を立って彼女に駆け付けた。
「駄目です、落ちちゃいますよ!」
女性の腕を掴み、まどかは制止する。
「あんたじゃない」
ぼそっと呟く声に、まどかはきょとんとした。
女性は構わず叫び始める。
「離して、もうぜんぶ嫌なの! 私なんて誰からも必要とされてない、いないほうがいいのよ!」
叫んで、彼女は海へ飛び込もうとする。
「駄目です、誰か!」
叫んだときだった。
女性がぐいっとまどかをひっぱり、彼女は力負けして手すりを超えてしまう。
浮遊感は一瞬で、すぐさま重力がまどかを海へと導く。
「きゃあああ!」
水面に叩きつけられ、激しい水しぶきが上がる。痛みが走ったときにはもう海中にいた。
上下の感覚がなくなり、水面がわからない。パニックになってただもがくしかなかった。
かろうじて明るい方が水面だと察してそちらへ向かう。冷たい海水が全身を刺すが、生命の危機に四肢は必死に抵抗を見せた。
「ぶは!」
海面に顔を出して、咳き込みながら荒い呼吸をする。
水を吸ったコートが重くて、波もあってうまく動けない。
あの女性は、と見回すと、一メートルほど先でばしゃばしゃともがいていた。
「助け、て! 泳げ、ない、の!」
女性は波にもまれて海水を浴びながら切れ切れに叫ぶ。
「落ち着いて!」
まどかは声をかけ、船上を見た。
さきほど見かけた男性たちがこちらを見てなにか話している。
良かった、すぐに救助は来るだろう。
だが、フェリーは彼女が思うより早い。船の上にいるときはのんびり進んでいるように見えたというのに、あっというまに置いて行かれてしまいそうだ。
置き去りも恐怖だが、船尾のスクリューに巻き込まれたら命はないだろう。
どうしよう、どうしたらいいの。
そう思ったときだった。
女性が近付いて来て、まどかにしがみつく。
女性の重みでいったん沈みかけ、彼女は必死にまた顔を水面に出した。
「助けてったら!」
女性が叫ぶ。
「落ち着いて、しが、げほっ、しがみついたら、うぷっ、沈むから!」
なんども沈みかけ、海水を飲みながら彼女は言う。だが、女性は一向に離れない。さらに、服が肌にはりついて、水の冷たさもあって思うように動けない。
「嫌よ、自分だけ、た、助かる気!?」
波にもまれながら女性が言う。
このままじゃふたりとも死ぬ。
まどかが死を覚悟したときだった。
「掴まれ!」
叫び声とともに、なにかが投げ込まれた。ばしゃん、と音がして近くに浮き輪が浮かぶ。
まどかはすぐに浮き輪に掴まり、女性が掴まりやすいように差し出す。
女性は必死に浮き輪に掴まり、まどかをぐいっと押した。
「あんたがつかまると沈むじゃない!」
「え!?」
まどかは呆然とした。
一緒に掴まるものだと思っていたから。
「離しなさいってば!」
さらに押され、かじかんだ手が浮き輪から離れてしまった。
「きゃ!」
波がまどかを浮き上がらせ、さらに浮き輪から離れる。
体は冷たい水で凍え、うまく動かない。
とにかく浮かばないと。上向きに浮かぶのよね。
そう思って背浮きを試みるが、恐怖が先に立ってしまい、うまく浮かべない。
せめてと思い必死で水をかくが、やはり波にのまれて海水をしこまた飲むはめになった。
「た、助け……」
声が続かず、力が抜けていく。
そこへ大きな波がきて、まどかは沈んだ。
今度こそ、もう駄目かもしれない。
水面を見上げると、差し込む光できらきらと輝いて見えた。
きれいだ、と思ったのは一瞬のことだ。
息が続かず、ごほっと吐いた直後に海水が喉に入る。
苦しい! 痛い!
もがいたが、手足はうまく動かなくて沈む一方だ。
きらきら光る海面に、突然、無数の気泡が生まれた。
誰かが飛び込んだのだ、と気が付いたときにはその誰かはまどかの手をぐいっとひっぱり、海面へと泳ぎ始める。
海面へざばっと顔が出て、肺が空気を捉える。
げほげほと咳込むまどかを、後ろから羽交い絞めのように誰かが支えてくれていた。
「ひかる! 投げるぞ!」
声がかけられ、ばしゃ、と浮き輪が投げ込まれた。
彼は器用にまどかを支えたまま泳ぎ、浮き輪に彼女を掴まらせる。
「もう少しだけがんばれ。すぐに救助が来るから」
彼女はただうなずいた。声を出して返事をする余裕などなく、ただガチガチと震えながら浮き輪を掴んだ。
当然、助けてくれた彼を見る余裕などない。浮き輪につかまるまどかを後ろから抱きしめるようにして支え、彼女の手が浮き輪から離れないように重ねてくれている。その温かさに、自分はきっと助かるのだと希望のぬくもりのように思った。
数十分をかけ、まどかたちはフェリーの救助用リフターで船上へと引き上げられ、救助された。
救護室で毛布にくるまり、まどかはがたがたと震えていた。
旅行で着替えを持っていたから着替えることはできたが、髪は濡れたままだし、ひたすら寒い。
用意された電気ストーブの前には女性が陣取っていて、まどかはその恩恵にあずかれない。エアコンは最強に設定されていて、部屋全体が温かいのが救いだ。
船員がくれた温かなミルクが入ったカップを両手で持って口に含む。熱くて少ししか飲めなかったが、それでもぬくもりがありがたい。
「なんで着替えを持ってるのよ。ずるくない?」
彼女の恨み言に、まどかは顔をひきつらせた。ストーブを独占している彼女に言われたくない。
「旅行の予定だったから……」
「私にも貸してよ」
「余分なんて持ってないから、ごめん」
女性は舌打ちをして、ふん、と顔をそらした。
海にひきずりこまれたあげくにこの仕打ち、とまどかは呆然とした。
ドアがノックされ、船員の男性が入ってきた。
「フェリーは神奈川に戻る航路に着きました。港に着いたら病院に行きましょう。そのあとは海上保安庁の聴取もあります」
海上保安庁と聞いて驚いた。そんな存在、今までの人生で縁がない。だが、これも事故であり、船会社としては届けなどが必要なのだろう。
せっかくの旅行が、と彼女はため息をついた。宿にキャンセルの電話を入れなくては。当日キャンセルなら宿代は返ってこないだろう。病院代は自腹だろうか。保険は効くのだろうか。
「そんな必要ないです」
女性が震えながら言う。
「私のせいでみなさんの予定が狂うなんて申し訳ないです。予定通りに千葉に向かってください」
「そういうわけにはいかないんです」
困ったように船員が言う。
まどかは複雑な気持ちで聞いていた。
言葉だけなら殊勝に聞こえるが、内容はわがまま勝手にしか思えない。
迷惑をかけたくないなら、どうして飛び込んだのか。それとも飛び込んだことで冷静になったのか。
ドアがノックされ、ふたりの男性が入ってきた。ふたりともガタイが良く、服の上からでも鍛えられていてるのがわかる。髪は黒く短かった。
ふたりとも精悍な顔立ちをしていて筋肉がすごかったが、ひとりは切れ長の目が鋭くシャープな印象で、もうひとりはまさに『筋肉』という豪快な印象を受けた。ソフトモヒカンが彼の男らしさをひきたてているように見える。
シャープな人はツーブロックの髪が濡れていて、救助で飛び込んだ人なのだとわかった。彼も着替えを持っていたのか、服は着替えられていた。
「おふたりはご無事ですか?」
シャープな男性がたずねる。
「外傷はないようです」
「それはよかった」
船員の答えに彼はほっとしたようだった。
まどかは慌てて頭を下げた。
「さきほどは」
「ありがとうございますぅ!」
女性の声がかぶせるように大きく響いた。
「あなたは命の恩人です!」
女性は男性の手をとって胸のあたりでぎゅっと握りしめ、うるうると男性を見つめる。
彼女の勢いに、まどかはたじろいだ。
この女性が理解できない。自ら飛び込み、助けろと言い、今は男性に媚を売る。
「当たり前のことをしただけですから」
男性は顔をしかめて手をふりほどき、一歩をひく。
「お礼をしたいのでお名前と連絡先を教えてください! 私は宇江田風和璃です!」
「けっこうですから」
シャープな男性はきっぱりと断る。
まどかは筋肉質な男性に頭を下げた。
「浮き輪を投げてくださったんですよね。ありがとうございます。私、秋尾まどかと言います」
「あ、気付いてくれてたんだ。うれしいな」
男性はにこっと笑った。精悍な顔がそのときだけかわいくなった。
「俺、朝比奈諒。こいつは飛島光駆」
諒の言葉に、女性の耳がぴくっと反応した。
「ヒカルさんっておっしゃるんですか!」
「お前……!」
シャープな男性、光駆が恨みの眼差しを送り、諒はやべっというように目をそらす。
「私たち、運命の出会いですね!」
女性がきゃぴきゃぴと光駆にからみつく。
元気だな、とまどかはどん引きしながら見ていた。
翌週の土曜日、まどかは大学時代からの友達、八瀬結奈と一緒に街でお茶をしていた。オープンテラスで春の陽気に包まれて飲むカフェオレはおいしい。お店のひざ掛けを借りていたものの、使わずにすむほどの気温だったから背もたれにかけておいた。
「……というわけで、旅行が台無しだったの」
まどかは先週の旅の結果を結奈に話した。
「失恋旅行で巻き込まれて溺れるとか悲惨。ニュースにもなってたけど、ふたりの女性が転落して救助されたとしか言ってなかったなあ。ケガがないなんて、運がいいね」
フェリーの甲板からではそこそこの高さがあるから水面に落ちた衝撃も強くなる。多少の打撲ですんだのは不幸中の幸いと言えるのだが。
「運……いいのかなあ」
飛び込む女性に遭遇する時点で運が悪いように思える。さらには名前が出てないとはいえニュースになってしまい、しばらくは落ち着かない日々を過ごした。
「あんたって昔から急病人やけが人や迷子に遭遇するけど、今度は飛び降りかあ。正確には飛び込み?」
「自殺かと思ったけど、助けてっていうし、なんだろうね」
「死のうと思ったけど怖くて嫌になったとか、よくあるみたいよ」
「へえ……」
うんざりとまどかはため息をつく。
「ん? ちょっと待って、その女、殺人未遂じゃない? 浮き輪からあんたを引き剥がしたんでしょ? しかも助けられるのも自分が先だってごねたんでしょ?」
「うん」
まどかはそのときのことを思い出して憂鬱にカフェオレを飲んだ。
救助用のリフターで船上に吊り上げられるとき、男性はまどかを先に上げようとしてくれたのだが、女性——風和璃は自分のほうが重症だと元気に叫び、気力のなかったまどかは彼女を優先してもらった。そのほうが結果として早く救助してもらえそうだったから。
幸いにも低体温症になる前に救助してもらえて、ほっとした。あのまま漂えば低体温症で動けなくなった後に溺死もあり得た。
「ああいうときのって、罪にはならないらしいよ。緊急避難で」
「ひどすぎる! 民事で訴えたら!?」
「助かったんだから、もういい」
お金も手間暇もかけて訴える気になどなれないし、もうあの女性とは関わりたくない。
「あんたって優し過ぎる」
結奈はぷんぷんと怒りながらコーヒーを飲む。
「失恋のあれこれが吹き飛んだのはある意味でありがたいかも」
「何回も行き倒れに遭うなんてありえないってふられたんだっけ。デートが人助けで中断されるのが気に入らないって」
「うん……」
ご老人が目の前で倒れたり迷子が泣いていたり、なぜか高頻度でそういう人たちに遭遇する。好きでそうなっているわけでもないのに元カレには自分のせいにされて、今でも納得はいっていない。
「そんなちっさい男とは別れて正解だよ。助けてくれた人と恋に落ちたりってことはないの?」
「その場でさよならだよ。ドラマみたいにはいかないって」
「助けてばっかりのまどかが逆に助けてもらったって珍しいのに。ともあれ無事でよかった」
「それだけが救いだよ」
ため息をついてカフェオレを口に含んだときだった。
歩道を歩いていた女性がふらふらと街路樹によりかかり、ずるずると座り込むのが見えた。
「また!」
彼女はつぶやくと、背もたれにあったひざ掛けを持って女性に駆け寄り、結奈もそれを追った。
「大丈夫ですか?」
声をかけると女性はうなずく。
「めまいがして……」
「貧血かな。とりあえずそのままで」
まどかはひざかけを彼女にかける。ただの貧血ならいいが、体調が戻らなさそうなら救急車を呼ばなくてはならない。
「すみません」
女性は謝り、ほっとしたように木に寄り掛かる。
「お水もらってきましょうか?」
結奈が聞くと、女性は首を横に振った。
「どうされました、大丈夫ですか」
男性の声がかけられ、振り返る。
「あ!」
まどかは思わず声をあげた。
船で出くわした男性たちがいた。名前は確か、飛島光駆さんと朝比奈諒さん、と思い出す。
「あのときの」
光駆も驚いて声を上げる。
「どうされたんですか」
「お茶をしていたら女性が倒れて」
「そうですか、意識は」
「あります。貧血のようです」
「すみません、お手数を……もう治りましたので」
女性は立ち上がり、ひざ掛けを彼女に返す。
「ほんとに? 無理してませんか?」
「大丈夫ですから」
「まどか、あんまりひきとめても失礼だよ」
結奈に言われて、まどかは仕方なく引き下がる。
「お気をつけて。ご無理なさらずに」
声をかけ、まどかは結奈と一緒に女性を見送る。
「大丈夫そうですね。じゃ、俺たちはこれで」
光駆はあっさりその場を立ち去ろうとする。
「待ってください!」
まどかは思わず引き留めた。
「この前は本当にありがとうございました」
連絡先を聞いて手土産を持ってお礼に行くのが正しいのだろうが、もうひとりの女性から連絡先を聞かれて迷惑そうにしていたから、聞きづらい。下心があると思われるのも嫌だ。
「お時間ありますか? 良かったらお礼にコーヒーでも奢らせてください」
せめてそれくらいのお礼はさせてもらわないと申し訳ない。
とはいえ自分から男性にこんなふうに言うのは初めてで、胸がどきどきしていた。
「いえ、けっこうです」
断られて、まどかしょんぼりとうなだれた。恩人とはいえ知らない男性をお茶に誘うのはけっこうな勇気が必要だったのに。
「俺は喉かわいたなあ」
諒がそう言い、光駆は眉を寄せた。
「いいじゃねーか。おごってもらおうぜ。ちょうどカフェの真ん前だし。あ、ケーキもいい?」
「もちろん、どうぞ!」
まどかが答えると、光駆はふうっと息をついた。
「お茶だけごちそうになります」
彼はクールにそう答えた。
彼らと一緒にカフェに戻って店員を呼び、光駆はコーヒーを、諒はケーキセットを頼んだ。
「私、秋尾まどかです。本当に、先日はありがとうございます」
まどかは改めてお礼を言った。
「私は八瀬結奈です。私からもお礼を言わせてください。まどかは親友なんです。助けてくれてありがとうございます。飛び込んで助けるなんて、すごすぎます」
「俺は飛島光駆。こいつは朝比奈諒。通常はそんなことはしてはならないんですけどね。様子がおかしかったから」
答えて、光駆は届いたコーヒーをブラックで飲んだ。
普通は備え付けの浮き輪を投げ込み、係員に連絡して救助してもらうものだ。だがあのときは彼が飛び込んでくれたからこそ助かった。春の冷たい海に飛び込んで助けるなんて並の人間にはできないだろう。
目撃者がいなかったら、いや、目撃したのが彼らでなかったら自分は命がなかっただろう、とまどかは思う。
諒はケーキセットをスマホで撮影してSNSに上げていた。
「あの人さあ、俺たちが甲板に出たのを見計らって飛び込んでたよね」
諒はそう言ってケーキをフォークで切って口に入れた。
まどかは驚いた。
確かにタイミング的にはそうだろうが、そんなことをする人がいるものだろうか。
「たまにいるよね、そういうことして人の気を引こうとする人」
結奈は憤りを隠さず頷く。
同情されて気持ち良くなりたいのはわからないでもないが、死ぬかもしれないのに海にダイブして気を引こうとするなんて、その気持ちはまったくわからない。
「でも泳げないって言ってましたよ。本気だったのかも?」
「あの人は泳げるよ。実際、沈みもせずうまく浮いてましたから」
光駆の言葉にまどかは唖然とした。そんな人に巻き込まれて命を失いそうになったなんて、怖すぎる。
「運命の出会いとか言われちゃったよなあ?」
「お前が迂闊に名前を言うから、調べられて駐屯地まで来て大変だったぞ」
光駆は軽く諒を睨んだ。
「それは謝るけどさ、まさかそうなるとは思わないじゃん」
「ちゅうとんち?」
結奈が首をかしげると、ほがらかに諒が答えた。
「俺ら陸上自衛隊なんだよ」
だからこんなに筋肉ついてるのか、となんだか納得した。緊急時の的確な判断も訓練のたまものなのだろうか。
「陸上自衛隊でも泳ぎは得意なんですね」
「水泳の訓練もするからね」
光駆が微笑して答え、まどかはどきっとした。怖いくらいのシャープさがやわらいで、まるで今日の日差しのように温かだ。
「ところで、まどかさんは独身? 恋人いる?」
「え?」
諒の唐突な質問に、まどかは戸惑う。
「まどかさん、かわいいよねえ、自衛隊員の彼氏とかどう? 俺ら恋人募集中でさ」
まどかは戸惑う。こんなに急にぐいぐい来るなんて。
「やめろよ、困ってるだろ」
光駆が止めると、諒は眉を上げた。
「お前だって、彼女かわいいなって言ってたくせに」
「おま、やめろ!」
慌てて光駆が止めるが、諒はにやにやしている。
「ふーん、緊急時でも女性のチェックはちゃっかりするんだあ」
結奈が半目で彼らを見た。
「仕方ないよ、アラサーのお年頃なんだから」
諒がにやっと笑う。
「やめろって、失礼だろ。すまない、普段は男ばかりのところにいるからどうしても雑になってしまうようで」
光駆は頭を下げる。
「大丈夫です」
まどかはどきどきして答える。
諒は普段は接触したことのないタイプで少し怖い。男性が苦手でなるべく接触しないようにしてきたから余計にかもしれない。
一方の光駆は口数が少なくて、怖くない気がする。
いや、怖くないどころか……。
「こいつ、いつも冷静ぶってて、なにごとも興味ないってふりして結局はおいしいとこ持ってくんだぜ。嫌になる」
「そういう人いますよねえ」
結奈が頷く。
「気が合うなあ。実を言うと結奈ちゃん、タイプなんだよね。彼氏いる?」
「かっる! 羽毛より軽い!」
結奈はけらけらと笑って流した。
「でもまどかにはしっかりした人がいいなあって思ってたんですよ。自衛隊の人なら安心かも」
「俺らならばっちりだよ!」
「この子、大変な運命を抱えてるから軽い人はお呼びじゃないかな」
結奈にきっちり釘を刺され、そんなあ、と諒は肩を落とす。
「ちょっと、結奈」
まどかは止めるが、結奈は止まらない。
「昔っから通りすがりに困ってる人によく遭遇するの。元カレには不自然だって言われてふられて。助けを求めるふりして善意につけこむ男に遭遇して男性が苦手になっちゃって、いい人と幸せになってほしいなあって思ってて」
「だから、そういうこと言わないで!」
ちらりと見ると、光駆は目を丸くしてこちらを見ている。
「ほら、ドン引きされてるじゃないの。——すみません」
彼女は慌てて頭を下げる。
「そういう星の元に生まれたのかなあ、人助けをする運命、みたいな」
諒が言う。
「まだそんなふうに割り切れてないんですけどね」
まどかは苦笑した。運命なんて呪いみたいだし、あきらめるときに使う言葉のように思えてならない。
「迷子や病人を見つけるのはあなたが周囲をよく見ているからでしょう。観察力がある証拠です」
光駆が言い、まどかは驚いて彼を見た。
こんなことを言われたのは初めてだったし、考えたこともない観点だった。
「わかってくれる人がいてよかったねえ!」
結奈がここぞとばかりに乗っかる。
「この子、いかがですか? 優しいしおすすめ!」
「ちょっとやめてよ、すみません」
結奈を止めてから、まどかは謝る。
「あー! 見つけたあ!」
唐突な声に、まどかは驚く。
振り向くと海に飛び込んだ女性が立っていた。フリルたっぷりの水色に白い花の咲いた衣装を着て、ツインテールの髪は美しく巻かれている。メイクは目をぱっちりさせて垂れ目に見せ、幼げな雰囲気を醸し出していた。
「あのときの……」
まどかは顔をひきつらせた。どうしてここにいるのだろう。
「あなたの風和璃ですう! 会いたかったー!」
彼女は大きな声で言い、光駆に寄って来る。
「こんなところで再会するなんて、運命ですよねえ! 運命の再会!」
きゃぴきゃぴと彼女は言うが、光駆たちは完全に引いている。風和璃だけが気付いていない。
「お前がさっきSNSに上げたせいだな」
光駆がぼそっとつぶやき、諒が青ざめる。
「店名も地名も書いてないのに。ブロックもしたのに」
「ブロックは私を試したんですよね、これくらいの障害は乗り越えて見せろって。それで今日はヒントをくれたんですよねえ? 愛があるならわかるだろ、みたいな」
語尾にハートをつけながら風和璃は言い、じろりとまどかを見た。
「どいてくださいよ、私の席がないので」
まどかは思わず腰を浮かせたが、結奈に服をひっぱられて座り直した。
こんな図々しい人に遭遇したのは初めてで、対処がわからない。
風和璃はいらいらした様子でまどかを睨む。
「この男が狙いなら無駄だよ、彼女とつきあってるから」
諒がまどかを示して言い、まどかは驚いて彼を見る。
頼む、と目で合図されて、何も言えなくなった。
人助けする運命と言われたばかりだが、こういう形での人助けなど初めてで、どうしたらいいのかわからない。
「嘘よ、そんなの今まで一言も言わなかったじゃない」
「最近決まったの。だから今日、私とこの人にお披露目だったってわけ」
にやにやと結奈が便乗して言う。
「そ、そうなの、出会ってすぐに恋に落ちて」
恩人への恩返しだ、とまどかも便乗した。
「そういうわけだからあきらめてくれ」
とうとう光駆まで便乗した。
まどかは気まずく風和璃を見る。
ぎりぎりと睨みつけられ、慌てて目をそらした。
「帰ってくれ、迷惑だ」
「……そうは言っても、運命からは逃れられないんですからね」
風和璃は再度まどかを睨んでから去っていった。
はあ、とため息をついて、まどかはカフェオレを口に含む。冷めきったカフェオレは冷たく舌に苦みを残した。
「いやああ、ごめんねえ、俺のせいで! まどかさんのおかげで撃退できたから、今度は俺がお礼するよ! お前も恩人にお礼したいよな!」
諒は光駆の背を叩き、彼は苦虫をかみつぶしたような顔で諒を見る。
「けっこうです。大丈夫です」
「お礼してもらいなよー」
慌てて断ったまどかに結奈はにやにやと笑う。
「とりあえず俺らだけでも連絡先交換しよっか」
諒がスマホを出し、結奈もスマホを出して連絡先を交換し始める。
光駆ははペンを取り出すと、紙ナフキンを手にした。
ざらざらした表面にすらすらとスマホの番号を書いていく。
「こんな紙ですまない。なにかあったら連絡をください。こちらで対処します」
「え、あ、はい」
まどかは戸惑いながらも受け取る。
「アナログだな、お前」
諒がひやかすのを、光駆は黙って受け流す。
もしかして、とまどかは思う。自分が怖がるかもしれないと気遣って、だからこんな形で連絡先をくれたのではないだろうか。
彼の気遣いがうれしくて、連絡先が書かれた紙をそっと両手で包み込んだ。
ひとしきり会話を楽しんだまどかたちは、別れを惜しみながら席を立つ。
結局、会計は彼らが払ってくれてまどかは恐縮してしまった。
店を出てすぐ、まどかと結奈は頭を下げる。
「すみません、ごちそうになってしまって」
「ありがとうございます」
「いいって、男が払わないとかっこつかないし、俺らのせいで変な人が来ちゃったし」
諒がにこっと笑って言う。
「ますますお礼しないとねえ」
にやにやと結奈がまどかをけしかけてくる。
「気にしなくていいですから」
笑みを浮かべた光駆はいっそう素敵に見えた。
「ですけど」
そう言ったときだった。
「危ない」
光駆に抱き寄せられ、まどかはどきっとした。
背後からふたりの子どもが自転車で暴走してきて、わーっと楽しげな声をあげながら走り去っていった。
「危ないなあ、もう!」
結奈は怒りながら子供たちの後ろ姿を見送る。
「子どもって視野が狭いからなあ」
諒は結奈の隣で呟く。
「大丈夫?」
光駆の声が耳元でして、まどかは思わず背筋を伸ばした。
「だ、大丈夫です!」
抱き寄せられた彼の肩幅の広さ、彼の腕の力強さにまどかの胸はどきどきして止まらない。
ふいに思い出す。
海の上でも彼はこうして支えてくれていた。ずっと、抱きしめるように。
あのときは考える余裕がなかったが、見知らぬ男性にずっと後ろからハグされていたのだと思うと恥ずかしくて仕方がない。
「やっぱりさ……」
吐息のようにそっと彼はまどかに囁く。
「なにもなくても連絡がほしいな」
耳元に届く誘惑に、まどかはかーっと赤くなった。
「連絡……します」
「ありがとう」
温かな声に彼が微笑しているのを感じ、まどかはどぎまぎと胸を押さえた。
「で、いつまで抱き合ってるのかな?」
諒のからかう声に、ぱっと光駆が手を離し、まどかも慌てて体を離した。
「すまない」
「いえ、大丈夫です」
まどかは赤くなったまま、謝る彼を窺う。
彼の耳が赤くなっていて、なんだかかわいくなってしまった。
帰ったらすぐに彼に連絡を入れた。
『秋尾まどかです。この前も今日も、ありがとうございました』
考え過ぎて、それだけの文章しか打てなかった。
どきどきする胸は彼からの『連絡ありがとう』の返事でさらに高鳴る。
彼とは毎日のようにメッセージをやりとりした。
おはよう、お疲れ様などのスタンプ。今日のごはんはなにか、仕事でなにがあったか。
たわいもなりやりとりなのに、どんどん胸が熱くなっていく。
そうして二週間後、彼とふたりで会う約束をした。
当日は朝から落ち着かなくて、起きてからそわそわと身支度を整えた。
奇跡的に髪がきれいに巻けたし、がんばって肌を整えたおかげか、メイクのノリもいい。
今日のために買った春服は明るくさわやかでかわいい。
まどかは緊張し、早めに家を出た。
日差しは温かく、まるで自分を応援してくれているかのようだった。春コートは冬のそれよりも軽くて、足取りもまた軽くなる。
待ち合わせの駅前につくと、彼はもう来ていて、まどかは小走りで彼に駆け寄った。
「お待たせしました」
「俺も今来たところだから」
彼はにっこりと微笑む。それだけで春の陽が数倍輝いた。
「光駆さーん!」
聞いたことのある女性の声が響き、まどかははっとしてそちらを見た。
風和璃がにこにこと走って来るのが見えた。
レースたっぷりのピンクと花柄で構成されたふわふわのワンピースに、コートもまたピンク色でレースたっぷりだった。長い髪はツインテールでメイクは濃い。
なんであの人が、とまどかは驚愕に動けない。
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