あやめお嬢様はガンコ者
うららかな春の陽射しが暖かい日本庭園は、隅々まで丁寧に手入れて美しく、緑の木々や咲き始めた花々に私は思わずうっとりと見とれる。
すると少し先を歩いていた久瀬くんが振り返り、優しく左手を差し伸べてくれた。

「ありがとうございます」

揃えた右手の指先を久瀬くんの手に重ねると、久瀬くんはクスッと笑ってから私の手をキュッと握ってきた。
伝わってくる久瀬くんの手の温もりに、思わず顔が赤くなる。
意識が右手に集中してしまい、どうしたものかと戸惑っていると、ふと久瀬くんが立ち止まった。

「あやめさん、見て」
「え?」

顔を上げた私は、視線の先に捉えた大きな桜の木に目を見張る。

「なんて美しいの……」
「本当に。ちょうど満開ですね」
「ええ。とっても綺麗」

吸い寄せられるように桜の木に歩み寄ると、見事に咲き誇る淡いピンクの花を見上げた。
その時、サーッと吹き抜けた春風に花びらが一気に宙を舞い、桜吹雪に包まれた私は息を呑んで立ち尽くす。
儚げで優美な夢の世界にいるような感覚になり、花びらに触れたくてそっと手を伸ばした。
ひらひらと、サラサラと、花びらは私の手をかすめて舞い落ちる。

(掴もうとしても掴めない。だからこんなにも心惹かれるのかしら)

そう思いながら、じっと自分の指先を見つめた時だった。

「あやめさん」

呼ばれて振り返ると、久瀬くんがスマートフォンを構えていた。
カシャッとシャッター音がして、画面を確認した久瀬くんがにっこり笑う。

「すごくいい写真。見て」

近づいて来た久瀬くんが見せてくれた写真は、花びらが舞う中に佇む私と桜の木が、バランスの良い構図で捉えられていた。

「何枚か撮ったんです。ほら、あやめさんの自然な表情とか優しい横顔が桜の花と相まって、ものすごく綺麗です」
「えっ、いつの間に撮ってたの?」
「すみません。あまりに美しくて、つい」
「そんな。恥ずかしいので、消去してくださいね」

思わず頬を手で押さえると、久瀬くんは真顔で首を傾げた。

「こんなにいい写真なのに?じゃあ、あやめさんに送ります。メッセージアプリのアカウント、教えてください」
「いいえ、それはいたしかねます」
「なぜですか?」
「男性とメッセージのやり取りをするのは、私のポリシーに反するので」

は?と、久瀬くんはキョトンとする。

「どんなポリシーなんですか?」
「例えば『一瞬のスキが一生の不覚』『早まるな、その一通がトラブルのもと』あとは『全世界に知れ渡る、絶対消せないデジタルタトゥー』『気軽に覗くな、ネット社会は悪の温床』とか」

はあ……と気の抜けた返事をしてから、久瀬くんはまた真顔に戻った。

「あやめさん、男性とは一切メッセージやメールのやり取りとかしないんですか?」
「仕事ではします。だけどプライベートではしません」
「そうなんですか」

そう言って久瀬くんは、しばし何やら考え込んでから口を開く。

「でしたら、俺とも仕事上のやり取りをしていただけませんか?」
「え?どういう内容の?」
「今回のお見合いを穏便に済ませる相談です。今、この場で妙案が思い浮かべばいいですけど、そうはいかないですよね?」
「確かにそうね。分かりました。それではよろしくお願いします」
「こちらこそ」

スマートフォンを取り出してアカウントを教え合うと、早速久瀬くんから撮ったばかりの写真が数枚送られてきた。
ピコン!という通知音を聞いて、久瀬くんがふっと笑う。

「良かった。偽のアカウントじゃなくて」
「えっ!偽のアカウントなんて作れるの?」
「いやいや、食いつかないでくださいよ。それより、今日のところは解散にしましょうか。あまり帰りが遅いと、社長も心配されるでしょうし」
「それはないけれど。でも、そうね。意気投合して盛り上がっていると勘違いされても困るものね」
「じゃあ、タクシーでご自宅までお送りします」
「大丈夫よ。一人で帰れます」

久瀬くんはそれには答えず、黙って私の手を取って歩き出す。

(社長の手前もあるから、送ってくれるのかしら。それにしてもさりげなく手を貸してくれたり、久瀬くんは本当にスマートで女性に優しいわ。これはモテるはずよね)

そう思いながら、私はそっと久瀬くんの横顔を見上げた。

(なんて整ったお顔。足も長いし、何頭身なのかしら。え、腰ってどの位置?私の胸くらい?)

視線を動かして見比べていると、久瀬くんが怪訝そうに尋ねる。

「あやめさん?どうかしましたか?」
「いえ、あの。久瀬くんの腰ってどこなのかと思って」
「ここですけど」

グッと私の手を引いて自分の腰に当てる久瀬くんに、私はビクッと身をすくめて後ずさった。

「危ない!」

久瀬くんが大きな腕で私を抱き寄せる。

「あやめさん、着物なんだから気をつけて」
「あ、はい」

これくらいで転んだりはしないけれど、久瀬くんにとっては危なっかしく見えたのだろうかと、私はおとなしく頷いた。
料亭を出てタクシーに乗り込む時も、久瀬くんは私を優しく気遣って手を貸してくれる。
後部シートに並んで座り、私の自宅へ向かう間、もう一度二人で今後のことを相談した。

「では今日のところは、少し二人でお話をしただけと父に報告します。これからのことは、様子を見ながらゆっくり考えたいということで」
「分かりました。俺も部長に聞かれたらそう答えます。何かありましたら、いつでもメッセージください」
「ありがとう」

自宅に着くと、久瀬くんはすかさず反対のドアから先に降り、またしても手を差し伸べてくれる。
向かい合って改めてお礼を言うと、久瀬くんは「どういたしまして」と微笑んでから、ふと私の名を呼んだ。

「あやめさん」
「はい」
「今日、楽しかったです」
「え?」

不意を突かれて首を傾げる私にもう一度微笑むと、「それじゃあ、また会社で」と久瀬くんはタクシーに乗り込む。
遠ざかって行くタクシーを、私は見えなくなるまで見送った。
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