あやめお嬢様はガンコ者
「久瀬くん、今日は帰りに由香里ちゃんと食事に行くことになったんです。だから送っていただかなくて大丈夫です」

5月も下旬になったある日の朝。
いつものようにあやめさんのマンションまで迎えに行き、二人で駅へと向かっている途中にあやめさんがそう言った。

「東と食事ですか?」
「ええ。最近私が仕事のことで頭がいっぱいなんじゃないかって、由香里ちゃんが誘ってくれたの。気晴らしに美味しいレストランでおしゃべりしましょうって。すごく楽しみ!」
「へえ。いつも仲いいですね、あやめさんと東って」
「由香里ちゃんといると、気分が明るくなるし元気をもらえるの。だから私、由香里ちゃんのことが大好き」

無邪気な笑顔で俺を見上げるあやめさんに、思わずドキッとする。

(いやいや、大好きって笑いかけられたからってそんな……。大好きなのは俺じゃないぞ、東だぞ)

そう自分に言い聞かせるが、あやめさんの可憐な笑みは目に焼き付いて離れなかった。

「そういう訳で久瀬くん、帰りはどうぞお気になさらず。それに今日をきっかけに、もう送り迎えは固く辞退させていただきます」

え!と俺は我に返る。

「いえ、心配ですからこれからも続けさせてください」
「いいえ、これ以上久瀬くんにご迷惑をおかけする訳にはまいりません。久瀬くん、これまで私と一緒に通勤してくださって、何か心配な場面はありましたか?」
「それは、ありませんでしたが。でもこれから先もないとは言い切れませんし」
「だからと言ってずっと続けるのは現実的ではありません。それに正直に申しますと、少々困っています」

思わずハッとして息を呑んだ。

「それは、俺があやめさんに迷惑をかけているということでしょうか?」
「あの、迷惑というのではなく。プライベートの時間をもっと持ちたいと思いまして。その日の気分で寄り道して帰ったり、朝もたまにはカフェで朝食を食べたりとか……」
「でしたら、俺もそれにつき合います」
「それが少々困るのです。一人の時間も大切にしたくて」
「そう……ですよね。お気持ちは分かります」
「はい。ですからこれでおしまいにしましょう。今日まで本当にありがとうございました」

両手を揃えて丁寧にお辞儀をするあやめさんに、俺は何も言えなくなる。

「分かりました。けど、何かあったらいつでもご連絡ください」
「ありがとうございます。心強いです」

にこっと嬉しそうな笑顔を向けられて、俺も微笑み返す。
あやめさんに見とれて冷静な判断が出来なかったこの時の俺を、のちにあれ程後悔することになるとは知らずに……
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