新城社長が愛妻に出会ったころ
3 優しいその手に触れるまで
出海と璃子が一緒に夕食を取るようになって、一週間経った。
今までも同じ家に暮らしているのだから、出海が日中仕事に出て夜遅くに帰る日が多かったといっても、時々は家の中で顔を合わせていた。
けれど璃子は出海と会うと必ずあいさつはするものの、出海が顔をのぞきこもうとすると息をのんで、おずおずと離れて行ってしまう。
「璃子、無理をしていない?」
出海は璃子と夕食が取れるようになったのは、自然と夕方になると気持ちが浮き立つくらいにうれしかった。想う人と同じ時間を共有できるのだから、うれしくないはずがない。
「家の中では、僕が言うことは業務命令ではないんだよ。璃子が嫌なら、今までみたいに部屋で食事を取ってもいいんだ」
ただ璃子が出海と過ごすのが窮屈だったり、もしかして怖いようなら、まだ社長と社員の関係を壊すつもりはない。
出会ったその日に連れてきたのは、強引すぎた自覚がある。たぶん今、熱を入れて口説いたりなどしたら、璃子を怯えさせるだけだと確信がある。
「あ……う、緊張は、します。でも、無理はしてないです」
璃子のぎこちない一言にも心が弾む自分を、出海は仕方のない男だと苦笑した。
怖がられていると思う方が自然なのに、自分を異性として意識しているのではとうぬぼれてしまう。
「それならいいんだ。……ああ、これはすりごまが入ってるんだね。璃子の夜食はいつも何か工夫してあって、おいしいよ」
出海が笑うと、璃子はうつむいて、困ったように黙ってしまった。
そんな二人の暮らしを出海は外で話すことはなかったが、なんとなく彼のまとう空気で気づく人たちはいた。
「璃子さんを大切にしてるみたいだな。柔らかい空気になった」
出海の父で先代の社長の宏臣は、久しぶりに会った息子の表情に安堵した。
「まだまだ手探りの日々です」
「それでいいよ。あの子はとても繊細な子だから。でも優しい子だ」
「みな、そう言います。……かわいいですね」
出海がくすぐったそうに答えるのを、宏臣はじわりとした喜びをもって聞いていた。
出海は整いすぎた器のような子だった。自慢の息子ではあったが、その完璧さのせいで、必ず欠点を持つ他人を愛せるのか不安でもあった。
「焦ってはいけない。ゆっくり、信頼関係を築いていかなければ。そう思ってはいるんですが、早く打ち解けたい思いも日に日に大きくなっていくんです」
息子が言葉一つにもためらうような、そんな大切な相手ができたのは、父として何よりうれしかった。
宏臣は思案して、身を屈めてくすっと笑う。
「お前にはまだ話していなかったな。私が母さんと暮らし始めた頃、母さんにした悪戯」
それはねと宏臣が続けた言葉に、出海は興味深そうに目を輝かせた。
その日の夕方、出海は帰って来てリビングを通りかかった。
「あ……おかえりなさい、社長さん」
「うん。ごめん、今日は疲れてね……」
璃子はリビングにいたが、いつも柔らかく笑う出海が疲れた様子で通り過ぎるのを、不安そうに見上げた。
出海は璃子の方を振り向かないまま言う。
「ごめん、今日は部屋に夜食を運んでくれるかな」
「は、はい」
璃子は慌てて立ち上がると、お盆に夜食を乗せて出海の部屋に向かった。
「あの、具合はどうですか。入っても……?」
璃子が出海の部屋に立ち入るのは初めてのことだった。ノックをして立ちすくむ彼女の耳に、いいよ、とそっけない声がかかる。
明るいグレーの色彩に統一された広々とした部屋の中、出海はベッドに横になっていた。
「ここに置いておきます。食べられそう……ですか?」
璃子がベッドに近づいてサイドテーブルにお盆を置くと、出海はけだるげに振り向く。
「あんまり食欲ないんだ」
「で、でも。ちょっとでも召し上がった方が」
「熱でもあるのかな。ちょっと手を貸して」
璃子は言われるまま手を差し出して、そっと出海の額に触れる。
「あ、熱は……」
なさそうです、と言いかけた璃子の手を、出海はつかんだ。
璃子の手のひらに口づけて、出海がくすっと笑う。璃子はびっくりして、悲鳴のような声を飲み込む。
「えっ……し、社長さん、あの」
「ごめん。とっても元気だよ」
いつものような青ざめた顔ではなく、真っ赤になった璃子に、出海はくすくす笑いながら手を離す。
「怒った?」
璃子は慌てながら、えと、その、と言葉を探す。
「……お元気なら、それで」
「怒ってほしいな」
出海は優しく、わがままな調子で言う。
「明日指輪を買って来ること。たとえばそういう罰はどう?」
「そ、そんなの、とても」
「でも怒らないと、また駄々っ子になって君を困らせるよ」
ん?と首を傾げて下からみつめられて、璃子はごくんと息を飲む。
けれど璃子はいつものように離れていくでもなく、少し迷うそぶりがあった後、言った。
「手を握られて、びっくり……しました。いきなりで、怖くて……」
出海は思わず眉を寄せる。
おどかしてしまって、傷つけてしまったかもしれない。
出海が後悔に追い付かれて、謝罪の言葉を口にしようとしたとき、璃子は言う。
「でも今は離してしまったのが、なんだか寂しい……ような、不思議な感じで。だからもう一回」
……私から、触れていいですか。
真っ赤な顔のままたずねた璃子に、出海は胸が絞られるような愛おしさを感じた。
本当は今すぐ腕に閉じ込めて、想いのすべてを打ち明けたい。でも彼女は今、ささやかで確かな想いを出海にくれたから。
「うん。……触って、璃子」
璃子がおずおずと出海の手に触れたとき、出海は小さな奇跡が触れるのを感じていた。
新城社長は璃子さんを大切にしようとして、ずいぶんいろんなことを待つんだろうね。社員たちはよく噂していた。
実際、璃子が出海に打ち解けるのは時間がかかった。
でも二人がいつの間にか同じ部屋で休むようになったのは、実はそんなに遠くない未来なのだった。
今までも同じ家に暮らしているのだから、出海が日中仕事に出て夜遅くに帰る日が多かったといっても、時々は家の中で顔を合わせていた。
けれど璃子は出海と会うと必ずあいさつはするものの、出海が顔をのぞきこもうとすると息をのんで、おずおずと離れて行ってしまう。
「璃子、無理をしていない?」
出海は璃子と夕食が取れるようになったのは、自然と夕方になると気持ちが浮き立つくらいにうれしかった。想う人と同じ時間を共有できるのだから、うれしくないはずがない。
「家の中では、僕が言うことは業務命令ではないんだよ。璃子が嫌なら、今までみたいに部屋で食事を取ってもいいんだ」
ただ璃子が出海と過ごすのが窮屈だったり、もしかして怖いようなら、まだ社長と社員の関係を壊すつもりはない。
出会ったその日に連れてきたのは、強引すぎた自覚がある。たぶん今、熱を入れて口説いたりなどしたら、璃子を怯えさせるだけだと確信がある。
「あ……う、緊張は、します。でも、無理はしてないです」
璃子のぎこちない一言にも心が弾む自分を、出海は仕方のない男だと苦笑した。
怖がられていると思う方が自然なのに、自分を異性として意識しているのではとうぬぼれてしまう。
「それならいいんだ。……ああ、これはすりごまが入ってるんだね。璃子の夜食はいつも何か工夫してあって、おいしいよ」
出海が笑うと、璃子はうつむいて、困ったように黙ってしまった。
そんな二人の暮らしを出海は外で話すことはなかったが、なんとなく彼のまとう空気で気づく人たちはいた。
「璃子さんを大切にしてるみたいだな。柔らかい空気になった」
出海の父で先代の社長の宏臣は、久しぶりに会った息子の表情に安堵した。
「まだまだ手探りの日々です」
「それでいいよ。あの子はとても繊細な子だから。でも優しい子だ」
「みな、そう言います。……かわいいですね」
出海がくすぐったそうに答えるのを、宏臣はじわりとした喜びをもって聞いていた。
出海は整いすぎた器のような子だった。自慢の息子ではあったが、その完璧さのせいで、必ず欠点を持つ他人を愛せるのか不安でもあった。
「焦ってはいけない。ゆっくり、信頼関係を築いていかなければ。そう思ってはいるんですが、早く打ち解けたい思いも日に日に大きくなっていくんです」
息子が言葉一つにもためらうような、そんな大切な相手ができたのは、父として何よりうれしかった。
宏臣は思案して、身を屈めてくすっと笑う。
「お前にはまだ話していなかったな。私が母さんと暮らし始めた頃、母さんにした悪戯」
それはねと宏臣が続けた言葉に、出海は興味深そうに目を輝かせた。
その日の夕方、出海は帰って来てリビングを通りかかった。
「あ……おかえりなさい、社長さん」
「うん。ごめん、今日は疲れてね……」
璃子はリビングにいたが、いつも柔らかく笑う出海が疲れた様子で通り過ぎるのを、不安そうに見上げた。
出海は璃子の方を振り向かないまま言う。
「ごめん、今日は部屋に夜食を運んでくれるかな」
「は、はい」
璃子は慌てて立ち上がると、お盆に夜食を乗せて出海の部屋に向かった。
「あの、具合はどうですか。入っても……?」
璃子が出海の部屋に立ち入るのは初めてのことだった。ノックをして立ちすくむ彼女の耳に、いいよ、とそっけない声がかかる。
明るいグレーの色彩に統一された広々とした部屋の中、出海はベッドに横になっていた。
「ここに置いておきます。食べられそう……ですか?」
璃子がベッドに近づいてサイドテーブルにお盆を置くと、出海はけだるげに振り向く。
「あんまり食欲ないんだ」
「で、でも。ちょっとでも召し上がった方が」
「熱でもあるのかな。ちょっと手を貸して」
璃子は言われるまま手を差し出して、そっと出海の額に触れる。
「あ、熱は……」
なさそうです、と言いかけた璃子の手を、出海はつかんだ。
璃子の手のひらに口づけて、出海がくすっと笑う。璃子はびっくりして、悲鳴のような声を飲み込む。
「えっ……し、社長さん、あの」
「ごめん。とっても元気だよ」
いつものような青ざめた顔ではなく、真っ赤になった璃子に、出海はくすくす笑いながら手を離す。
「怒った?」
璃子は慌てながら、えと、その、と言葉を探す。
「……お元気なら、それで」
「怒ってほしいな」
出海は優しく、わがままな調子で言う。
「明日指輪を買って来ること。たとえばそういう罰はどう?」
「そ、そんなの、とても」
「でも怒らないと、また駄々っ子になって君を困らせるよ」
ん?と首を傾げて下からみつめられて、璃子はごくんと息を飲む。
けれど璃子はいつものように離れていくでもなく、少し迷うそぶりがあった後、言った。
「手を握られて、びっくり……しました。いきなりで、怖くて……」
出海は思わず眉を寄せる。
おどかしてしまって、傷つけてしまったかもしれない。
出海が後悔に追い付かれて、謝罪の言葉を口にしようとしたとき、璃子は言う。
「でも今は離してしまったのが、なんだか寂しい……ような、不思議な感じで。だからもう一回」
……私から、触れていいですか。
真っ赤な顔のままたずねた璃子に、出海は胸が絞られるような愛おしさを感じた。
本当は今すぐ腕に閉じ込めて、想いのすべてを打ち明けたい。でも彼女は今、ささやかで確かな想いを出海にくれたから。
「うん。……触って、璃子」
璃子がおずおずと出海の手に触れたとき、出海は小さな奇跡が触れるのを感じていた。
新城社長は璃子さんを大切にしようとして、ずいぶんいろんなことを待つんだろうね。社員たちはよく噂していた。
実際、璃子が出海に打ち解けるのは時間がかかった。
でも二人がいつの間にか同じ部屋で休むようになったのは、実はそんなに遠くない未来なのだった。