新城社長が愛妻に出会ったころ
4 水面に浮かぶ陽だまり
璃子と出海のふたり暮らしの日々は、おだやかに流れていた。
元々璃子は引っ込み思案で怒るのも苦手だし、何より出海は決して璃子に声を荒らげなかった。
出海が一回りほど年上で、大人だったのもあるのだろう。けれど璃子は年齢差を脇に置いても、出海が璃子を大切にしてくれているのは気づいていた。
璃子が暮らしやすいよう、折につけて贈られるプレゼント。璃子がふと顔を上げて目が合うと、優しいまなざしと出会う。
どうして私に? 問いかけてみたいような、でもまだ今のままでいたいような、そんな思いでいたとき、出海は言った。
「朝ごはんを食べたら、一緒に出かけてみる?」
土曜日の朝、あたたかい陽気の日だった。カーテンを開けて璃子がまぶしそうに目を細めていたのを、出海は見ていたらしかった。
出海の家は都心のちょっと奥まったところにある。駅まで歩けば三十分ほどでオフィス街に出ることはできるが、璃子は会社への定期報告でない限り駅の方には行かなかった。
「何か用事、ですか?」
「ううん。なんにも用事は持って行かないつもり。璃子はそれでいい?」
こくんと璃子がうなずくと、出海は笑って、駅とは反対の方に歩き出した。
駅の反対側へは、璃子も時々行く。
古い用水路が通っていて、いくつかの農家が小さいながらも畑を作っている。璃子はお休みの日に用水路を辿るようにして、左右の畑を見ながら散歩するのが好きだった。
「ここは暮らすには少し不便だから、最初、璃子が退屈なら引越ししようと思ってたんだ」
出海が何気なく告げた言葉に、璃子は首を横に振る。
「いいところです。水の音が聞こえて、土の匂いがして」
「よかった」
ほっとしたように笑う出海を見上げて、璃子はむずかゆいような気持ちになる。
どうして? また心によぎる想い。それを口に出したら、今までどおりではいられなくなると思う。
でも日に日につのっていた不思議な思いの束が、璃子の心を少しだけ押し出した。
「私と歩いていたら、社長さんは退屈になってしまいます」
ふいに璃子は立ち止まって、心の内をこぼしていた。
「社長さんなら、街に行けば楽しいことも……楽しい人も、たくさん、待ってます。私は……私じゃ、何も」
このあたたかな海のような人にとって特別な存在だと、うぬぼれるのはやめないと。
そうじゃないと、胸がつぶれるように痛くなる予感がしていたから。
「ここは僕もよく散歩するんだ」
出海は立ち止まって、眼下の街並みを見下ろす。
「意識はしてなかっただろうけど、僕はずっと璃子と同じ会社で働いていた。ネットワークのおかげで、璃子の仕事も、僕はずいぶん前から見てた」
「私の、仕事……?」
思わぬ言葉に璃子が問い返すと、出海はうなずいた。
「直接一緒になったことはないけど、時々すれ違うように璃子の仕事と会った。璃子が仕事に残す、ささやかな温度のようなものが好きで、つい目で追った」
出海は苦笑して言う。
「やっと本人に会えたときの気持ちは……夢が目の前に広がったみたいだったな」
ちょっと屈んで、出海はのぞきこむように璃子を見た。
「今の気持ちを伝えるよ。璃子に触れたい。いいかな?」
出海は手を差し伸べて、困ったように笑う。
「……サンタを待つ子どもみたいにどきどきして、今はそればかり考えてる」
璃子はひととき出海をみつめて、そうっと手を伸ばした。
用水路に浮かぶひだまりが、たゆたうように光を放っていた。
璃子がいつ新城社長と恋人同士になったかは、周りからはなかなかわからなかった。
でもこの頃から、璃子が柔らかく新城社長に笑いかけるところを、社員たちはたびたび見ることになったのだった。
元々璃子は引っ込み思案で怒るのも苦手だし、何より出海は決して璃子に声を荒らげなかった。
出海が一回りほど年上で、大人だったのもあるのだろう。けれど璃子は年齢差を脇に置いても、出海が璃子を大切にしてくれているのは気づいていた。
璃子が暮らしやすいよう、折につけて贈られるプレゼント。璃子がふと顔を上げて目が合うと、優しいまなざしと出会う。
どうして私に? 問いかけてみたいような、でもまだ今のままでいたいような、そんな思いでいたとき、出海は言った。
「朝ごはんを食べたら、一緒に出かけてみる?」
土曜日の朝、あたたかい陽気の日だった。カーテンを開けて璃子がまぶしそうに目を細めていたのを、出海は見ていたらしかった。
出海の家は都心のちょっと奥まったところにある。駅まで歩けば三十分ほどでオフィス街に出ることはできるが、璃子は会社への定期報告でない限り駅の方には行かなかった。
「何か用事、ですか?」
「ううん。なんにも用事は持って行かないつもり。璃子はそれでいい?」
こくんと璃子がうなずくと、出海は笑って、駅とは反対の方に歩き出した。
駅の反対側へは、璃子も時々行く。
古い用水路が通っていて、いくつかの農家が小さいながらも畑を作っている。璃子はお休みの日に用水路を辿るようにして、左右の畑を見ながら散歩するのが好きだった。
「ここは暮らすには少し不便だから、最初、璃子が退屈なら引越ししようと思ってたんだ」
出海が何気なく告げた言葉に、璃子は首を横に振る。
「いいところです。水の音が聞こえて、土の匂いがして」
「よかった」
ほっとしたように笑う出海を見上げて、璃子はむずかゆいような気持ちになる。
どうして? また心によぎる想い。それを口に出したら、今までどおりではいられなくなると思う。
でも日に日につのっていた不思議な思いの束が、璃子の心を少しだけ押し出した。
「私と歩いていたら、社長さんは退屈になってしまいます」
ふいに璃子は立ち止まって、心の内をこぼしていた。
「社長さんなら、街に行けば楽しいことも……楽しい人も、たくさん、待ってます。私は……私じゃ、何も」
このあたたかな海のような人にとって特別な存在だと、うぬぼれるのはやめないと。
そうじゃないと、胸がつぶれるように痛くなる予感がしていたから。
「ここは僕もよく散歩するんだ」
出海は立ち止まって、眼下の街並みを見下ろす。
「意識はしてなかっただろうけど、僕はずっと璃子と同じ会社で働いていた。ネットワークのおかげで、璃子の仕事も、僕はずいぶん前から見てた」
「私の、仕事……?」
思わぬ言葉に璃子が問い返すと、出海はうなずいた。
「直接一緒になったことはないけど、時々すれ違うように璃子の仕事と会った。璃子が仕事に残す、ささやかな温度のようなものが好きで、つい目で追った」
出海は苦笑して言う。
「やっと本人に会えたときの気持ちは……夢が目の前に広がったみたいだったな」
ちょっと屈んで、出海はのぞきこむように璃子を見た。
「今の気持ちを伝えるよ。璃子に触れたい。いいかな?」
出海は手を差し伸べて、困ったように笑う。
「……サンタを待つ子どもみたいにどきどきして、今はそればかり考えてる」
璃子はひととき出海をみつめて、そうっと手を伸ばした。
用水路に浮かぶひだまりが、たゆたうように光を放っていた。
璃子がいつ新城社長と恋人同士になったかは、周りからはなかなかわからなかった。
でもこの頃から、璃子が柔らかく新城社長に笑いかけるところを、社員たちはたびたび見ることになったのだった。