傷痕は運命の赤い糸
 日が暮れるのが早くなってきた。まだ十八時を過ぎたばかりなのに、辺りは真っ暗になっている。
 今日は急ぎの用事もトラブルもなかったので、遅番の保育士に任せて紗世は仕事を上がった。
 不審者情報は気になるけれど、この時間なら大丈夫だろう。細い路地や閑静な住宅街に入り込まなければ、人の気配はたくさんある。
 周囲を見回して怪しげな人がいないことを確認し、歩き出した。
 ひとつめの角を曲がったところで、
「ひとりでは危ないって注意したはずだけど?」
 左耳のすぐ近くから低くて柔らかな声が聞こえた。
「びっ——」
 反射で繰り出した拳を、大きな手のひらでパシッと受け止められた。
「——くりさせないでください!!!」
 これは決して紗世が喧嘩っ早いわけでも、暴力的なわけでもない。急に驚かされると防衛本能が働いてしまうだけで、できることなら不必要な争いは絶対にしたくないタイプなのに。
 どうも賢人が現れると、調子が狂うようだ。
「隙だらけだな。俺が不審人物だったら危なかったぞ」
 賢人の口もとが優しく弧を描いていて、今朝のそっけなさが嘘のようだ。
「賢人さんも十分不審です。それに、朝とキャラが違い過ぎて怖いです」
「俺は仕事とプライベートをきっちりと分けるタイプなんだ。あれは仕事モードの俺」
「だから、どうしてプライベートに私のところに来るんですか?」
 賢人が首をかしげた。
「好きな人に会いに来てるだけなんだけど?」
 恥ずかしげもなく恥ずかしいことを言ってくる賢人に、紗世のほうが赤面してしまう。
「い、意味がわかりません! 今日で私たちが顔を合わせたの三回目ですよ?」
 人を好きになるというのは、そんなに簡単なことではないはずだ。
 とはいえ、じゃあどうやって人が恋に落ちるのか説明しろ、と言われても難しいけれど。
 どちらにしても、賢人が本気だとは思えない。
 ましてや初対面があの騒動なのだ。第一印象が良かったわけでもない。それに、賢人ほど容姿端麗であれば、自分から探さなくても向こうから寄って来るだろう。よりどりみどり、選び放題なはずだ。
「簡単に好きとか言わないほうがいいですよ。賢人さんから言い寄られたら、その気になっちゃう子もいると思います。遊びたいなら遊び慣れしてる人を選んでください」

 イケメン=遊び人、と思ってしまうのは偏見だと分かっているが、少なくとも自分よりは恋愛方面に長けているはずだ。
 賢人を振り切るようにスタスタと歩く。
 ついて来ていた足音が、ピタリと止まった。
「紗世」
 ふいに名前を呼ばれて驚いた。それ以上に、呼び止める声がひどく真剣で、振り返らざるを得なかった。
「俺のこと、そんなに信用できない?」
 賢人の顔は、暗くてよく見えない。
 けれどなんとなく、うつむく彼のその表情を見たことがある気がした。眉尻を下げ、不安そうに揺れる瞳を。
「俺たちが会ったのは、本当に三回目だと思う?」
「え……? どういうこと——」
 言い終わらないうちに、賢人の携帯電話が鳴った。ピリリリ、というシンプルな着信音が響く。
 ワンコールも鳴り終わらないうちに、賢人が素早く電話に出た。
「こちら速水。要件は?」
 声色が変わった。別人のように目つきも鋭くなり、急に踏み込めない空気になった。
 相手側の声は聞こえないけれど、雰囲気で仕事関係の電話だとわかる。
「わかった。十五分……いや、十分で行く」
 電話を切るや否や「悪いけど、タクシーで帰ってくれ」と財布からお札を取り出そうとする。
「やめてください! 受け取れないです!」
 財布を手で押さえて必死で止めた。
 そうだ。この前の分も返さないといけない。
「自分で出しますから! 賢人さんが払おうとするなら、私は意地でも歩いて帰ります!」
 そう言って、この前の一万円を押し付けた。
「プライベートなら尚更、受け取る理由がありません」
 恋人でもなんでもない人からお金を受け取るほど、自分は線引きが曖昧な人間じゃない、という無言の訴え。
「……わかった」
 賢人が、渋々お金をしまう。
「送れなくてごめん。帰ったら戸締りして、寝る前にもしっかり確認するように」
 まるで親が子にかける心配事のような言葉を残して、風のように走って去っていった。
「一体なんなのよ」
 会うたびに違う顔を見せてくるものだから、どれが本当の彼なのか、わからなくなる。


 お風呂上がりに頭を乾かしながら、鏡を見た。
 童顔だから、実年齢より若く見えるかもしれないが、それだけでは魅力とはいえない。
 自己評価としては『平凡』という言葉しか浮かんでこない。
 なのに、どうして彼は自分の前に現れるのか。心配するべきはこっちじゃなくて、最初に絡まれていたあの子の方ではないのだろうか。
 嵐みたいな人だと思った。急に現れて唐突に去っていく。

 ドライヤーを片付けたところで、スマートフォンが鳴った。
 こんな時間にかけてくるのは母親くらいだが、表示されていたのは知らない番号だった。
 もう寝るところなのに、こんな時間に誰? と訝しく思いながらも、もしかして……という思いで通話ボタンに指を滑らせた。

 いつもなら「もしもし」とこちらから声をかけるが、変な相手だったら性別すら知られたくないので、あえて無言で電話に出た。
 待つまでもなく、向こうの声が響く。会って話すよりも低く聞こえるその声が、鼓膜を震わせる。
『ごめん、もう寝てた?』
 耳元に直接声が注がれるのでこそばゆい。
「まだ起きてた。っていうか、私の番号、なんで……あっ、」
 疑問をそのまま問いかけている途中で、自分で答えにたどり着いた。初対面のときに、連絡先を聴取されていた。
『うん。職権濫用の自覚はあるけど、通報しないでくれると助かる』
 わざとそうしているのだろうけれど、妙にしょんぼりとした声を出すので小さく笑ってしまった。あざとい、というのは男性が使っても通用するらしい。
「何か用事ですか?」
 こんな時間に、と付け足してしまうと迷惑に感じていると取られそうで、かといって完全に心を許しているとも思われたくなくて、中途半端な敬語で問いかけた。
『いや。無事に帰れたならよかった』
「それだけ?」
『それだけ。じゃ、おやすみ』
 思いのほかあっさりと切られてしまった通話に、寂しさを感じた。
 数秒後、短くスマートフォンが震えた。
 画面を開くと『もう一度戸締り確認するように』と、そっけないともあったかいとも取れるメッセージが送られてきていた。
 いわれた通り、玄関扉と窓の施錠確認して、ベッドに潜り込んだ。
「心配しすぎ」
 本人に届かない文句を呟きながら、名無しの番号に『速水賢人』と文字を打ちながら電話帳に登録した。
 ゴロンと寝返りを打ちながら、送られてきた文字を頭の中で反芻する。
 メッセージ画面の文字を見ながら頬を膨らませたり、ニヤッと笑ってしまったり、なんだか情緒がおかしい。
 ついこの前まで平穏な生活を送れていたのに、賢人が現れてからずっと心が騒いでいる。

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