傷痕は運命の赤い糸

不穏な予感

 保育園の出入り口をほうきで掃きながら、園児たちのお出迎えをする爽やかな秋晴れの朝。
 笑顔いっぱいで登園する子。ママといっしょがいいと泣きながら抱えられて来る子。まだ半分寝ていて抱っこされている子。
 いろいろな子がいるけれど、どの子の親も仕事に遅れないようにと慌てていることは共通している。
「さよせんせー! おはようございまーす!」
「陸くん、おはよう!」
 紗世が受け持つ四歳児学級の男の子が、満面の笑みで駆け寄ってくる。スーツ姿のお父さんがペコペコと頭を下げて「陸をお願いします!」とひとり園内へ行き、バタバタと預け入れの準備を済ませて走り去って行った。
 あの様子だと寝坊でもしたのかもしれない。子どもがいる家庭の朝は戦場のようだと聞く。
「せんせーせんせーせんせー! おはよー!」
 陸が紗世の周りをぐるぐると走る。
「今日も元気いっぱいで素敵だけど、そんなに走ると転んじゃうよ」
 言ったそばから盛大に転んで、転んだことに自分でもビックリしたのかキョトンとし、徐々に声をあげて泣き出した。

 ほうきを置いて歩み寄り、うつ伏せのまま泣く陸の横に並んでしゃがんだ。
 転び方を見ていたけれど、無意識にもしっかりと受け身を取っていたようだった。大きな怪我はしていないだろう。声をかけず、泣き止むのを待つ。
 陸は「大丈夫?」と心配されて、抱き起こしてもらえると思っていたのだろう。いつまでも手を差し伸べられないことにしびれを切らし、泣き止んで顔を上げた。
 そこでやっと声をかける。
「自分で起きられそう?」
「…………できない。せんせい、おこして」
 涙はすっかり渇いていた。
「陸くんは、転んでも自分で起き上がれる強い子だって信じてたんだけどなぁ。でも、どうしてもつらかったら、先生につかまっていいよ」
 優しく諭すように、陸の前に手を差し出した。
 紗世の手のひらを見つめて少し考えたのち、のっそりと陸が起き上がった。
「すごい! やっぱり陸くんは、自分の足で立ち上がれる子だね」
「ぼく、つよい?」
「うん、強い。それにこれから、もっと強くなれるよ」
 陸の目の奥の光が、力強くきらきらと輝き始める。
 成長途中のひとりの人間が、自分の力で自信を手に入れた瞬間を見られる。それは、この仕事の特権のひとつだと思う。
「念のために手当てしてもらおうか。ほうきを片付けたら先生も行くから、陸くん先に中に行っててくれる?」
「うん、わかった! さよせんせい。ぼくがもっとつよくなったら、けっこんしてね!」
 紗世の返事も待たずに、ほっぺたを赤く染めた陸が園内に走っていった。

「紗世先生、モテますね」
「ともえ先生、からかわないで」
 近くで事の成り行きを見ていた三歳下の同僚が冷やかしてくる。そして、首を傾げて問いかけてきた。
「でも、なんですぐに抱き起こしてあげなかったんですか? 優しく慰めて泣き止ませたほうが、待つより楽じゃないですか?」
 保育士は、時間に追われることが多い。ひとりひとりとじっくり向き合うのが理想だけれど、それでは全員に手が回らないのも事実だ。
「確かに慰めた方が早いかもしれないけど、それは——」
 話している途中で、保育園の門の外から「すみません」と呼びかけられた。
 それは、聞き覚えのある声だった。
「園長先生に話しがあるのですが、少しだけお時間いただけませんか?」
 ともえが「私が応対します」と張り切って手を挙げた。普段よりワントーン高い声色で彼に話しかける。
「園長と約束されていましたか? どういったご用事でしょうか」
 相手の確認もせずに園内に招き入れるわけにはいかない。
 彼、——賢人はにこりともせず、紗世のほうを見ることもなく、スッと警察手帳を取り出した。
「三分程度で終わるので少しお時間をください、とお伝え願います」
 淡々とした、事務的な口調だった。
 ここでともえがいなくなったら賢人とふたりになってしまう。それは、なんとなく気まずい。「私が呼んでくるね」と、ともえに声をかけると、賢人が紗世のほうを見た。
 目が合った。軽くお辞儀をされ、すぐに視線が外れた。まるで初対面のように。にこりともせず。

——え、今のはなに? この前の夜はまぼろし? やっぱりからかわれただけ?

 まるで別人のように愛想がない賢人に、紗世は軽く混乱した。

 園長を連れて来ると、そのまま門扉のところで少し話をして、本当に三分もかからずに賢人は帰って行った。
「警察がなんの用事だったんですか?」
 ともえが興味津々といった様子で聞きたがる。
 いつもにこにこと穏やかな園長が、神妙な顔をしている。
「最近、ここの近所で不審者情報が多発しているんですって」
 幼い子どもや、若い女性への声掛け事案が急に増えたらしい。女子高生が車に乗せられそうになった誘拐未遂事件もあったそうだ。
 怪しい人物を見かけていないかなどの聞き込みを兼ねて、幼稚園や学校、近隣の施設などを訪ねて、注意喚起に回っているとのことだった。
「夜間だけじゃなくて、昼間からつきまとわれた子もいるんですって。うちもしばらく公園遊びは控えた方がいいわね」
「誘拐未遂まで起こっているのでは、仕方がないですね」
 万が一にも子どもたちに何かあってからでは遅い。その提案に紗世は頷いた。
「せっかく気持ちのいい天気なのに」
 ともえが心底残念そうに嘆く。
「園児の安全が最優先だもの。仕方がないわ」
 不審者。つきまとい。物騒な言葉に、昔の記憶が呼び起こされて、胸のあたりが引きつるように痛んだ。
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