傷痕は運命の赤い糸
 それから賢人は週に二、三回、紗世の帰りがけに現れるようになった。
「紗世せんせ。今日は残業だったんだな」
「その呼び方やめて。賢人からそう呼ばれると馬鹿にされてるみたいでやだ」
「馬鹿になんかしてない。尊敬してるよ」
 片方だけ口角を上げて言うものだから、余計に真実味が薄れるということ、本人はわかっていないのだろうか。
「嘘ばっかり。本当、調子いいんだから」
 同じ年齢ということもあり、打ち解けるまでに時間はかからなかった。
 いろいろと話をしていく中で、実は幼いころ、同じ地域に住んでいた事があるということを聞いたのも、親近感を覚えるきっかけになった。

 帰宅の途中で賢人に呼び出しがあり、紗世だけタクシーに乗せられることもあるが、そうでなければ家の前まで送ってくれる。
 大して親しくもない人に家を知られるのはよくない、という危機意識は当然持っていた。けれど、賢人からは住所を知られているし、家まで送ってくれなくてもいい、護衛なんていらない、と何度伝えても聞き入れてもらえないので、諦めた。

 ただ話をしながら並んで歩くだけ。
 口説かれるわけでもない。あれ以来好きだと言われてもいない。
 自分から掘り返すのも恥ずかしいので、紗世からその話題にふれることもない。
 寒いね、とか、仕事大丈夫なの? など、他愛もない話がほとんどだ。
「そういえば例の不審者って捕まった? そろそろ子どもたちと思いっきり公園遊びをしたいんだけど……」
「それが、向こうも警戒してるのか、最近姿を見せなくなったんだ」
 賢人の声のトーンが落ちる。仕事モードの低い声。ただの声なのに、色気を纏っているように感じるのは、一体どういう現象なのだろう。
「狙われるのは、決まってひとりきりでいる子だから、公園で遊ぶ分には大丈夫だと思う。ただ、絶対にひとりだけはぐれたりしないように、いつも以上に目を光らせないといけない」
「うん。気をつける」
 紗世が力強く頷くと、賢人がくすりと笑った。
「なに?」
「いや、子どもたちのことになると素直だなと思って。俺が紗世に気をつけてって言っても、『大丈夫』しか返してこないのに」
 ふっ、と賢人の口角が上がり、柔らかく目尻が下がる。よく見ていないと気付けないけれど、ほんのりと頬に紅色が乗る。
 ……好きだと言われることはなくなった。でも、こうして並んでいると、何気ない会話のなかで、ふとした瞬間に向けられる視線に、くすぐったくなるような甘さを感じるときがある。
 その表情を見ると、これまで規則的に打っていた脈がリズムを乱し、自分ではどうすることもできない居心地の悪さを感じる。
 そして矛盾しているが、賢人の隣が落ち着くということも事実だ。
 落ち着かない、けど落ち着く。
 周りを警戒しながら歩いたりしなくてもいいので、気を張らずにいられる。
 それは賢人が警察官だから、というだけではない。信頼しているからだ。いつのまにか、自分でも気付かないうちに、こんなにも。

 日が暮れたあとの、秋の終わりを告げる肌寒さが、火照る心にちょうどいい。
 だけどやっぱり、この状況への違和感も拭いきることはできない。
「私、本当に大丈夫だよ」
「空手経験者だから?」
 そうじゃなくて、と呟いて賢人の前に回り込んで向かい合う。
「私のところに来るより、不審者を捕まえてほしい。変な人に絡まれてる人を助けてほしい」
 それは、誰にでもできることではないからこそ。
「許せないの……。私は、自分より弱い者を狙う最低な犯罪者が、なによりも大っ嫌いなの」
 本当は、賢人と歩くこの時間が、紗世のささやかな楽しみになっていた。
 賢人から女性として見られていることも、嬉しくないわけがない。自分だけ特別扱いをしてもらっているようで、紗世の中に隠れていた心の中の女の子が、こっそりとスキップしている。
 しかし、同じく紗世の中にある正義感は、その女の子を嗜める。
 なにも解決していないまま、自分だけ守られていて、本当にそれでいいの? と。

 どうして? と賢人が紗世の瞳を覗き込んできた。
「そこまで明確に嫌悪感を抱く理由は? 無茶をしてまで見ず知らずの女性を助けたことも。普通そこまでしないだろ?」
 色素の薄い、賢人の澄んだ琥珀色の瞳から射抜かれると、なぜか、なんとなく懐かしいような気持ちになる。そして、その懐かしい気持ちが、子どもの頃の記憶を連れてきて、あの体験が思い起こされる。
 紗世は、痛みをまぎらわせるように、両手を胸の上に添えた。
「私、小学生のとき、変質者に遭遇したことがあるの……」
 全てを克明に覚えているわけではない。現に、男の顔も思い出せない。記憶は確実に薄れている。
 けれど、胸に刻まれた痛みは新鮮なまま。当時と同じようにズキズキと痛む。
 賢人が、まるで同じ風景を追体験しているような苦々しい顔をしている。
「無事に逃げたけどね。私、逃げ足は速いから」
「本当に無事だった? つけられた傷は、跡になってないのか?」 
「……え?」
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