傷痕は運命の赤い糸
「やめなさいっ!」
 神様にしては随分と幼い、高くて可愛らしい声が響いた。
「なんだこのガキ———うぐっ……!」
 直後、変な呻き声が聞こえてきて思わず目を開けると、男が股間をおさえて地面にうずくまっていた。
「早く立って! 逃げるよ!」 
 そう言われて慌てて立とうとしたけれど、足に力が入らない。
 普段、なにも考えずに立てているのが嘘のように、あれ、どうやって立つんだっけ? とまぬけみたいに座り込んでいた。
 目の前の女の子が、じれったそうに賢人の手を握って引っ張り、立たせた。そのまますごい勢いで走り出す。
 女の子の足は、驚くほど速かった。
 目の前を走る女の子の後ろ頭を眺める。
 ひとつ結びしている髪の毛が左右に激しく揺れていた。
 賢人よりも頭ひとつ分くらい背が高いようだ。
 がむしゃらに走っていた賢人と違い、その子は「次は右に曲がるよ」などと指示を出してくれたので、引っ張られながらもなんとか転ばずについていけた。
 呼吸が苦しい。足が疲れた。
 喉が千切れるみたいに痛い。
 「あと少し、がんばって」と言われて顔を上げると、派出所が見えた。

——助かったんだ。

 ほっとしたのと同時に足から力が抜けてしまい、繋がれていた手もするりとほどけた。賢人はその場に座りこんだ。
「まだ休んじゃダメだよ!」
 さっきの男が追ってきている可能性はゼロではない。
 わかっているけど、今度こそ腰が抜けてしまったのだ。
 また手を引っ張って女の子が立たせてくれるだろう、という甘えもあった。
 けれど彼女は焦った様子で周囲を気にしながらも、手を差し伸べてくれる気配はない。
 すると、スッとしゃがんで賢人と視線を合わせながら「今度は自分で立って」と、力強く言い放った。
 その目は真っ直ぐに、賢人を射抜いた。表面上だけて視線が合う、というより、目の奥の奥、心を見透かされているような気分になった。彼女の瞳は、もっと先を——賢人の未来を見ているようにも感じた。

「あんな男に負けちゃダメ。ここで自分の力で立てたら、きっとこれからも自分で立ち上がれるから。この先、今日を思い出して怖くなる日がくると思う。トラウマになるかもしれない。だからこそがんばるの」
 トラウマ、という言葉を聞いて、急に手が震え出した。
 さっきまで味わっていた恐怖が、ぶわりと肥大して襲い掛かってくる。涙が勝手に次から次へと溢れてきて止められない。
 震えて泣くだけの賢人に、女の子がふわりと笑って、手のひらをさし出してきた。
「どうしても自分で立てないなら、つかまってもいいよ。大丈夫。私がここにいる」
 優しいその手に、すがりたい気持ちになった。
 だけど同じくらい、その手にすがってはいけないと思った。この人が、自分になにかを教えようとしてくれている気がして。
 賢人は、震える足を拳で叩いて、自分の足で派出所になだれ込んだ。

 彼女は本当にしっかりとしていて、驚いた顔をしているおまわりさんに「この男の子が変な人に襲われて——」と状況を説明してくれている。
 まだ混乱の中にいる自分と違い、はきはきと受け答えをするその子は、中学生くらいのお姉さんなのかな、と賢人は思った。
 だから「きみの学年と名前は?」とおまわりさんから聞かれた彼女が「ささはらさよ、小学校三年生です」と答えたときには心底驚いた。同い年とは思えなかったからだ。クラスメイトの誰よりも大人びている。
 ぽかんとして後頭部を眺めていると、紗世がくるりと振り返る。ばっちりと目が合って、にっこりと笑いかけられた。ズキンと一瞬、賢人の心臓に鈍痛が走った。
 紗世が、ぽんぽんと軽く賢人の頭を撫でながら「よくがんばったね」と、慈愛に満ちた声で慰めてくれた。
 
「じゃあ私、おじいちゃんとの約束があるので帰ります!」
 そして、おまわりさんが調書を書いている隙に、駆け出して行った。
「あっ! 待って! きみも怪我してるよね? 手当てしないと……」
 おまわりさんの静止も届かず、あっというまに紗世はいなくなってしまった。
「あの……ケガってなんですか? あの子、どこかケガしてたんですか?」
 困り顔のおまわりさんが「ボク、気付いてなかったの?」とますます困った顔をした。
「胸のあたりかな。刃物で切られたみたいに服が裂けてたんだよ。命にかかわる傷ではなさそうだけど……」
 痕が残らないといいけど、という呟きが、賢人の耳に張り付いた。ショックだった。
 襲われたことも、同い年の女の子に守られたことも、彼女が怪我をしたことも、自分のせいでそれが消えないかもしれないことも。そして、余韻のようにじくじくと痛む心臓。

——ささはら、さよ。ささはら、さよ、ささはら、さよ……

 彼女の名前を、心の中で馬鹿みたいに繰り返した。

 ◇
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