傷痕は運命の赤い糸
 事件の後、賢人は突然ニューヨークに引っ越すことになった。
 もともと、父親の単身赴任の話が浮上していたのだが「やっぱり家族で行こう」と母親が決めた。
 幾度となく繰り返した学校帰りの寄り道を、母親から叱られることはなかった。むしろ、怖いくらいに優しくされた。
 紗世のことを聞きたくて、一度事件について母に訊ねたことがあった。

——あの時のことは全部忘れなさい。

 すっと表情を失くした顔でそう言われてからは、聞けなくなった。
 引っ越したくない、なんて言えなかった。

 大人になってから知ったことだが、母親は少しでも早く、賢人の環境を変えることが大事だと思ったらしい。恐怖心を植え付けられた土地から離れて、事件を忘れさせることを優先したそうだ。

 この一件以来、賢人は変わった。
 とにかく強くなろうと考えた。もう自分のせいで誰かが傷つくことなど、決してないように。
 女の子から庇われて、その子が傷を負ってしまうことが、二度と起こらないように。
 怪我を負わされていたのに、どうしてあの子は賢人にあんなに綺麗に笑いかけてくれたのだろう。励ましてくれたのだろう。どうすれば、そんなに強くなれるのだろう。
 もう一度会いたい。

 アメリカにいるはずもないのに、ひとつ結びの黒髪の女の子を見かけると胸が騒いだ。
 同時に、チクリと胸が痛んだ。そして、にこりと笑いかけてくれた紗世を思い出した。これが初恋だと気付くのに時間はかからなかった。

 父親がこっそり教えてくれた情報によると、賢人を襲った犯人は、二十代前半の男だったそうだ。中年男性だと思っていたが、体力のある若い男だった。どおりで、あんなに走ったのに引き離せなかったわけだ。
 いたずら目的で、自分より小さくて弱い子供を探していたらしい。
 賢人は、自分の欲望を満たすために弱いものを狙う犯罪者を憎んだ。
 自分は紗世がいたから助かった。
 けれど、助けられなかった子は、この世界に一体どれほどいるだろう。
 少しでも、自分のような思いをする子を減らしたい。そして、今度は助けたい。自分が、そうしてもらったように。
 紗世に恥じない人間になりたい。
 彼女は初恋の相手であり、憧れであり、目標でもあった。

 たくさん勉強をして、スポーツをして、体を鍛えた。
 時々男に追いかけられる夢を見てうなされることがあったけれど、汗だくで目覚めたあとは、頭の中で男を蹴飛ばしてやった。自分の力で立ち上がれるんだと、紗世から教わったから。
 警察官になろうと思った。この職業ならば、人を救えるはずだ。できることなら、事件を未然に防げるよう、上に立つ人間になりたい。
 いつか紗世と再会した時に、誇れる自分でいたい。そして、きちんとお礼を言いたい。

 時々、あの時の恐怖がフラッシュバックして震えることもあった。挫けそうなときはいつも心で彼女の名前を唱えた。

 飛び級でアメリカの大学に進学し、帰国して警察官になった。そして警察庁の国際犯罪対策課に配属され、成果を上げた。
 賢人はいわゆるエリートコースといわれるような部署で、役職を与えられ、年上の警察官を動かすような立場の人間になった。
 より多くを救えるように、手っ取り早く上へ行ける道を選んだはずだった。けれど、誰かを救っている実感は得られなかった。
 そんなとき、昔住んでいたあの地区で、誘拐未遂事件が多発していると小耳に挟んだ。
 紗世はまだあの土地にいるのだろうか。
 一度気になってしまうと、抑えることができなくなった。
 名前と、年齢と、子どものころ住んでいた場所。それだけの情報だったが、培ってきた経験ですぐに探し出すことができた。
 居場所が分かったら、姿を確認したくなった。幸せに過ごしていてくれればそれでいい。
 あの出来事を忘れてしまっているなら、その方がいい。
 お礼は言いたいけれど、彼女の日常に割り込んでまで名乗る気はなかった。
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