傷痕は運命の赤い糸
見回りも兼ねて、紗世が住んでいる街を訪れた夜のことだった。焦った様子の女性が「誰か! 助けてください!」と、声を上げていたのは。
急いで彼女について行くと、そこで見たのは衝撃的な光景だった。
小柄な女性が、自分よりもずっと体格のいい男に対抗して、思い切り股間を蹴り上げていた。
その後ろ姿に、あの日の女の子が重なって見え、どくりと心臓が跳ねた。
もうひとり転がっている男も見つけた。見ず知らずの女性を助けるために、男ふたりに立ち向かったというのか。
男たちを警察車両に突っ込み、彼女の聴取は自分がやりますと申し出た。仕事に私情を挟んだのは初めてのことだった。
それとは別に、ひとつだけ、どうしても気になったことがあった。股間を蹴り上げられていた男が、愛憎を感じる陰湿な黒い目で、彼女をジッと見つめていたことだ。
あの目には見覚えがある。自分の欲望のままに執拗に獲物を狙うような、いやらしい目。
そして、早く帰りたそうにソワソワとしている彼女の名前を見た瞬間、雷が落ちたような衝撃を覚えた。
『笹原紗世』
なんとなく予感めいたものは感じていたけれど、それでも賢人は驚きを隠すことができなかった。
改めて紗世の姿を見て、ギュッと胸を絞られるような息苦しさが賢人を襲った。
『ささはらさよ』はこんなに小さかったのか。こんなにも華奢な女の子に守ってもらったのか。
——俺は怯えて泣いているだけだったのに。
大きな女の子が守ってくれたと思っていたが、冷静に考えると、『当時の賢人よりも大きかった』というだけのこと。
子供が、大人の男に立ち向かう怖さ、勇気が、どれだけのものなのか、計り知れない。
お礼を言うことはおろか、名乗ることもできなかった。
一目見るだけでいいだなんて思っていた自分は、跡形もなく吹き飛ばされた。
前よりももっとずっと、紗世のことが気になって仕方がない。
それに賢人の直感は、あの男たちが紗世を狙ってまたやってくるといっている。今度は自分が彼女を守りたい。
矢も盾もたまらず、紗世が勤める保育園に様子を見に行った。
こっそりと覗いていると、紗世が転んだ園児に歩み寄り、その子が自分の意思で立つのをじっと待っていた。男の子を見つめる眼差しは慈愛に満ちていて、そこにかつての自分が重なって見えた。
あれから二十年近く経過しようというのに、紗世は何も変わっていなかった。
幼いころの賢人を助け、励まし、未来まで守ってくれた彼女。紗世に出会っていなければ、今の自分はない。
自力で立ち上がった園児をすごいね、と褒めて「これからもっと強くなれるよ」と笑顔を向ける彼女を見て、胸の中でくすぶっていた行き場のない感情が、ジグソーパズルの最後のピースみたいに、ぴたりと埋められた気がした。まるで、二度目の初恋に落ちたみたいだ。
出会ったときからそうだった。彼女は自分の中に正義を持っている。
それをずっと持ち続けるというのはとても困難で、誰しも成長するにつれ、すり減り、削られていくものだ。けれど、紗世は変わっていない。
人を見る目は養ってきたつもりだ。だから分かる。紗世の内面は、今でもあの時のままだと。
「けっこんしてね」と園児から言われて、はにかみ笑う紗世を見て、胸が絞られるような感覚を覚えた。あんなに幼い子供に対して『お前には譲らない』と思ってしまった。
幼い時の感謝や憧れとは違う。大人になった今の紗世に、心が動いた。
あの笑顔を守るためなら、自分はなんだってする。これを恋と呼ばないのなら、自分は永遠に恋などできないだろう。
紗世は強い。守りたいだなんて、烏滸がましいと思う。だけど、弱い自分が「今度こそ彼女を守れ」と訴えてくる。紗世に何かが起こったら、後悔なんて二文字では足りないことになると、本能でわかる。
それからは、自分の時間の許す限りを、紗世の護衛に充てた。仕事上どうしても紗世のもとに行けない時は、信用できる知人に見守りをさせた。
一方で様々な伝手を使い、元警察官で、腕の確かな探偵にあの男たちの動向を探らせた。
もちろん全額ポケットマネーでしたことだ。
少しでも紗世に近づくような不穏な動きがあれば、即連絡するように申し伝えていた。
心配だから、という域を超えている自覚はあった。彼女が本気で拒まないのをいいことに、まるでストーカーのように紗世に執着した。
守るために、などと言いつつ、紗世と過ごす時間は賢人にとって特別だった。
家路に着くまでの数十分でも楽しく、愛おしさは募るばかりだ。
背中で揺れる髪にふれてみたい。自分の手で髪ゴムを解いてみたい。子どもたちには絶対に見せないような表情で、こっちを見てほしい。
募る想いは膨れ上がり、やがて抱えきれないものになった。
抱えきれずに溢れた想いを、捨てたくない。落としたくない。
だったら、彼女に渡して、受け取ってもらうしかない。
告白しようと思った矢先の出来事だった。
いつも通り紗世を送る道中で、女性の叫び声が聞こえた。
反射的に走り出した紗世を引きとめた。一緒に向かうべきか、待っていてもらうべきか一瞬悩んで、待っていてもらうことにした。
けれど、どうにも嫌な予感が後ろ髪を引いた。
だから、紗世にばれないように、こっそりとポケットにGPSを忍ばせた。
外れてほしい予感ほど当たる。女性の叫び声はあの男の仕業だった。わざと声が届く範囲で女性を襲い、紗世と賢人が離れるように仕向けてきた。
奴らの作戦通り、まんまと紗世は攫われた。
なんとか救出することはできたけれど、彼女のヒーローになれたとは到底思えなかった。攫われてしまった時点で、賢人は間違えた。助けられたかったのと同意だ。
本物のヒーローは紗世だ。あの日、ただ偶然あの場所に居合わせただけなのに、颯爽と現れて賢人を救ったのだから。
一人前になったら告白しようと密かに思っていたけれど、自分を認められるようになってからでは、いつ想いを伝えられるかわからない。その前に誰かに攫われてしまうかもしれない。
未熟な自分のまま、想いを告げようと思った。
それすらもまともに伝えられないなんて。
急いで彼女について行くと、そこで見たのは衝撃的な光景だった。
小柄な女性が、自分よりもずっと体格のいい男に対抗して、思い切り股間を蹴り上げていた。
その後ろ姿に、あの日の女の子が重なって見え、どくりと心臓が跳ねた。
もうひとり転がっている男も見つけた。見ず知らずの女性を助けるために、男ふたりに立ち向かったというのか。
男たちを警察車両に突っ込み、彼女の聴取は自分がやりますと申し出た。仕事に私情を挟んだのは初めてのことだった。
それとは別に、ひとつだけ、どうしても気になったことがあった。股間を蹴り上げられていた男が、愛憎を感じる陰湿な黒い目で、彼女をジッと見つめていたことだ。
あの目には見覚えがある。自分の欲望のままに執拗に獲物を狙うような、いやらしい目。
そして、早く帰りたそうにソワソワとしている彼女の名前を見た瞬間、雷が落ちたような衝撃を覚えた。
『笹原紗世』
なんとなく予感めいたものは感じていたけれど、それでも賢人は驚きを隠すことができなかった。
改めて紗世の姿を見て、ギュッと胸を絞られるような息苦しさが賢人を襲った。
『ささはらさよ』はこんなに小さかったのか。こんなにも華奢な女の子に守ってもらったのか。
——俺は怯えて泣いているだけだったのに。
大きな女の子が守ってくれたと思っていたが、冷静に考えると、『当時の賢人よりも大きかった』というだけのこと。
子供が、大人の男に立ち向かう怖さ、勇気が、どれだけのものなのか、計り知れない。
お礼を言うことはおろか、名乗ることもできなかった。
一目見るだけでいいだなんて思っていた自分は、跡形もなく吹き飛ばされた。
前よりももっとずっと、紗世のことが気になって仕方がない。
それに賢人の直感は、あの男たちが紗世を狙ってまたやってくるといっている。今度は自分が彼女を守りたい。
矢も盾もたまらず、紗世が勤める保育園に様子を見に行った。
こっそりと覗いていると、紗世が転んだ園児に歩み寄り、その子が自分の意思で立つのをじっと待っていた。男の子を見つめる眼差しは慈愛に満ちていて、そこにかつての自分が重なって見えた。
あれから二十年近く経過しようというのに、紗世は何も変わっていなかった。
幼いころの賢人を助け、励まし、未来まで守ってくれた彼女。紗世に出会っていなければ、今の自分はない。
自力で立ち上がった園児をすごいね、と褒めて「これからもっと強くなれるよ」と笑顔を向ける彼女を見て、胸の中でくすぶっていた行き場のない感情が、ジグソーパズルの最後のピースみたいに、ぴたりと埋められた気がした。まるで、二度目の初恋に落ちたみたいだ。
出会ったときからそうだった。彼女は自分の中に正義を持っている。
それをずっと持ち続けるというのはとても困難で、誰しも成長するにつれ、すり減り、削られていくものだ。けれど、紗世は変わっていない。
人を見る目は養ってきたつもりだ。だから分かる。紗世の内面は、今でもあの時のままだと。
「けっこんしてね」と園児から言われて、はにかみ笑う紗世を見て、胸が絞られるような感覚を覚えた。あんなに幼い子供に対して『お前には譲らない』と思ってしまった。
幼い時の感謝や憧れとは違う。大人になった今の紗世に、心が動いた。
あの笑顔を守るためなら、自分はなんだってする。これを恋と呼ばないのなら、自分は永遠に恋などできないだろう。
紗世は強い。守りたいだなんて、烏滸がましいと思う。だけど、弱い自分が「今度こそ彼女を守れ」と訴えてくる。紗世に何かが起こったら、後悔なんて二文字では足りないことになると、本能でわかる。
それからは、自分の時間の許す限りを、紗世の護衛に充てた。仕事上どうしても紗世のもとに行けない時は、信用できる知人に見守りをさせた。
一方で様々な伝手を使い、元警察官で、腕の確かな探偵にあの男たちの動向を探らせた。
もちろん全額ポケットマネーでしたことだ。
少しでも紗世に近づくような不穏な動きがあれば、即連絡するように申し伝えていた。
心配だから、という域を超えている自覚はあった。彼女が本気で拒まないのをいいことに、まるでストーカーのように紗世に執着した。
守るために、などと言いつつ、紗世と過ごす時間は賢人にとって特別だった。
家路に着くまでの数十分でも楽しく、愛おしさは募るばかりだ。
背中で揺れる髪にふれてみたい。自分の手で髪ゴムを解いてみたい。子どもたちには絶対に見せないような表情で、こっちを見てほしい。
募る想いは膨れ上がり、やがて抱えきれないものになった。
抱えきれずに溢れた想いを、捨てたくない。落としたくない。
だったら、彼女に渡して、受け取ってもらうしかない。
告白しようと思った矢先の出来事だった。
いつも通り紗世を送る道中で、女性の叫び声が聞こえた。
反射的に走り出した紗世を引きとめた。一緒に向かうべきか、待っていてもらうべきか一瞬悩んで、待っていてもらうことにした。
けれど、どうにも嫌な予感が後ろ髪を引いた。
だから、紗世にばれないように、こっそりとポケットにGPSを忍ばせた。
外れてほしい予感ほど当たる。女性の叫び声はあの男の仕業だった。わざと声が届く範囲で女性を襲い、紗世と賢人が離れるように仕向けてきた。
奴らの作戦通り、まんまと紗世は攫われた。
なんとか救出することはできたけれど、彼女のヒーローになれたとは到底思えなかった。攫われてしまった時点で、賢人は間違えた。助けられたかったのと同意だ。
本物のヒーローは紗世だ。あの日、ただ偶然あの場所に居合わせただけなのに、颯爽と現れて賢人を救ったのだから。
一人前になったら告白しようと密かに思っていたけれど、自分を認められるようになってからでは、いつ想いを伝えられるかわからない。その前に誰かに攫われてしまうかもしれない。
未熟な自分のまま、想いを告げようと思った。
それすらもまともに伝えられないなんて。