傷痕は運命の赤い糸
傷痕は愛のかたち
◇
祖父が指導してくれた空手競技はあくまでスポーツであって護身術ではないし、ましてや急所への攻撃などしたことなどなかった。
小学三年生の秋のあの日のことは、眩しい夕日の朱色と共に鮮明に思い出せる。
紗世は平日のほとんどを、祖父の道場で過ごしていた。
学校が終わったら一度帰宅してランドセルを置き、学区外の祖父の家まで歩いて行っていた。
そして、仕事終わりの父が迎えに来たら、一緒に自宅に帰るというのが日課だった。
道着は祖父の家に置いていられたので、車通りのないところはランニングしつつ、その日の気分で道を選びながら向かうのが常だった。
普段は滅多に選ばない道を、どうしてあの日に限って「行ってみよう」と思ったのか、説明するとこが出来ない。
人通りも車通りもほとんどない、閑静な場所の、小道だった。
祖父の道場に行くために近道をしたら、怪しい男が綺麗な男の子に手を伸ばしていた。男の子は、どう見ても怯えていた。
——男の子が襲われている。助けなきゃ!
助けを呼びに行っていたら間に合わないかもしれない。
その一心で飛び込んでいったけれど、いざ怪しい男と対峙したとき、相手の大きさに一瞬躊躇してしまった。それが相手に攻撃の隙を与えてしまった。
刃物を振り上げられ身の危険を感じ、やっとの思いで全力で股間を蹴り上げた。
そして、腰を抜かしている男の子の手を取って、交番に向かった。
走っているうちに、胸元の一部分がやけに熱いと思った。ふと下を見たら、紺色のニットの一部が切られていて、もっとよく見たら血が出ていた。
怪我を自覚した途端にズキズキと胸元に痛みが走った。
けれど、この男の子に気付かれてはいけないと思った。
紗世が怪我をしたことをこの子が知ったら、絶対に傷つくだろう。勝手に助けに入ったのに、彼が感じた恐怖の上に更に罪悪感を被せるなんて、それだけは避けたかった。
だからバレないように巧妙に怪我を隠しながら、男の子をお巡りさんに託して別れた。つもりだった。
頑張って隠したはずだったのに。
あの男の子が、ずっと罪悪感を抱えながら生きていたなんて。
いまは、そのことが、ただただ悲しい。
◇
空気はすっかり冬の装いで、肌を撫でる風が頬の熱を奪っていく。けれど、夏の空気よりも澄んでいるそれを吸い込むと、体の中が洗浄されるような気がする。
この冷たさで一度肺を凍らせてほしい。そして自然解凍をしたら、余計なものも一緒に溶けて、綺麗になれそうな気がする。
園児も職員もしっかりと防寒着を身にまとい、久しぶりに公園で遊ぶ時間を設けた。
寒さなんてまるで感じていないように、子どもたちは一斉に駆け出した。すぐに小さなグループがいくつかできて、おいかけっこ、おままごと、だるまさんがころんだなど、それぞれの遊びが始まる。
紗世はかくれんぼのグループに混ざった。
散り散りになる中で、ひとりの女の子が後ろからついてきたので、大きめの生垣の陰にふたりで身を潜めた、
「さよせんせい、どこかいたいの?」
「え?」
年長クラスの莉々が、心配そうに覗きこんできた。
「せんせい、いつもとちがって、げんきがないみたい」
「そ、そんなことないよ」
慌てて否定しニコッと笑って見せたものの、ごまかすことができなかった。
大人が思っているよりもずっと、子ども達は大人のことをよく見ている。
「カレシとケンカでもしたの?」
年の離れた姉がいるという莉々は、言うことが大人びている。
「莉々ちゃん、もしかして、先生が心配でついてきてくれたの?」
意思の強そうな目で、こっくりと深く頷いた。
私情で園児に心配をかけてしまうなんて保育士失格かも、という恥ずかしさに、自分を見ててくれる子がいるんだな、という嬉しさが入り混じる。
同僚からは気付かれなかったのに、子どもの観察眼は侮れない。
「……彼氏、ではないんだけど……。好きな人の気持ちがわかならくなっちゃって、少し落ち込んでたかな」
大丈夫、いつも通り元気いっぱいだよ! と返すのが保育士としての正解なのかもしれない。けれど、そうやって線を引いてしまったら、この先、この子に何かあったときに「だいじょうぶ」としか返してくれなくなる気がする。
大人って大変なんだね、と莉々がつぶやく。
「わたしのおねえちゃんもね、カレシのこと、ときどきわからなくなるんだって」
莉々のお姉さんは、確か中学三年生だったはず。
それを考えると、おそらく紗世の恋愛偏差値は中学生以下なのかもしれない。
「でもね、自分のきもちだけはわかるから、そういうときは、自分の思ってることをしっかりつたえるようにしてるんだって」
小さな子ども拙い言葉。けれど、ハッとさせられた。
——私は、自分の気持ちを、伝えていない。
祖父が指導してくれた空手競技はあくまでスポーツであって護身術ではないし、ましてや急所への攻撃などしたことなどなかった。
小学三年生の秋のあの日のことは、眩しい夕日の朱色と共に鮮明に思い出せる。
紗世は平日のほとんどを、祖父の道場で過ごしていた。
学校が終わったら一度帰宅してランドセルを置き、学区外の祖父の家まで歩いて行っていた。
そして、仕事終わりの父が迎えに来たら、一緒に自宅に帰るというのが日課だった。
道着は祖父の家に置いていられたので、車通りのないところはランニングしつつ、その日の気分で道を選びながら向かうのが常だった。
普段は滅多に選ばない道を、どうしてあの日に限って「行ってみよう」と思ったのか、説明するとこが出来ない。
人通りも車通りもほとんどない、閑静な場所の、小道だった。
祖父の道場に行くために近道をしたら、怪しい男が綺麗な男の子に手を伸ばしていた。男の子は、どう見ても怯えていた。
——男の子が襲われている。助けなきゃ!
助けを呼びに行っていたら間に合わないかもしれない。
その一心で飛び込んでいったけれど、いざ怪しい男と対峙したとき、相手の大きさに一瞬躊躇してしまった。それが相手に攻撃の隙を与えてしまった。
刃物を振り上げられ身の危険を感じ、やっとの思いで全力で股間を蹴り上げた。
そして、腰を抜かしている男の子の手を取って、交番に向かった。
走っているうちに、胸元の一部分がやけに熱いと思った。ふと下を見たら、紺色のニットの一部が切られていて、もっとよく見たら血が出ていた。
怪我を自覚した途端にズキズキと胸元に痛みが走った。
けれど、この男の子に気付かれてはいけないと思った。
紗世が怪我をしたことをこの子が知ったら、絶対に傷つくだろう。勝手に助けに入ったのに、彼が感じた恐怖の上に更に罪悪感を被せるなんて、それだけは避けたかった。
だからバレないように巧妙に怪我を隠しながら、男の子をお巡りさんに託して別れた。つもりだった。
頑張って隠したはずだったのに。
あの男の子が、ずっと罪悪感を抱えながら生きていたなんて。
いまは、そのことが、ただただ悲しい。
◇
空気はすっかり冬の装いで、肌を撫でる風が頬の熱を奪っていく。けれど、夏の空気よりも澄んでいるそれを吸い込むと、体の中が洗浄されるような気がする。
この冷たさで一度肺を凍らせてほしい。そして自然解凍をしたら、余計なものも一緒に溶けて、綺麗になれそうな気がする。
園児も職員もしっかりと防寒着を身にまとい、久しぶりに公園で遊ぶ時間を設けた。
寒さなんてまるで感じていないように、子どもたちは一斉に駆け出した。すぐに小さなグループがいくつかできて、おいかけっこ、おままごと、だるまさんがころんだなど、それぞれの遊びが始まる。
紗世はかくれんぼのグループに混ざった。
散り散りになる中で、ひとりの女の子が後ろからついてきたので、大きめの生垣の陰にふたりで身を潜めた、
「さよせんせい、どこかいたいの?」
「え?」
年長クラスの莉々が、心配そうに覗きこんできた。
「せんせい、いつもとちがって、げんきがないみたい」
「そ、そんなことないよ」
慌てて否定しニコッと笑って見せたものの、ごまかすことができなかった。
大人が思っているよりもずっと、子ども達は大人のことをよく見ている。
「カレシとケンカでもしたの?」
年の離れた姉がいるという莉々は、言うことが大人びている。
「莉々ちゃん、もしかして、先生が心配でついてきてくれたの?」
意思の強そうな目で、こっくりと深く頷いた。
私情で園児に心配をかけてしまうなんて保育士失格かも、という恥ずかしさに、自分を見ててくれる子がいるんだな、という嬉しさが入り混じる。
同僚からは気付かれなかったのに、子どもの観察眼は侮れない。
「……彼氏、ではないんだけど……。好きな人の気持ちがわかならくなっちゃって、少し落ち込んでたかな」
大丈夫、いつも通り元気いっぱいだよ! と返すのが保育士としての正解なのかもしれない。けれど、そうやって線を引いてしまったら、この先、この子に何かあったときに「だいじょうぶ」としか返してくれなくなる気がする。
大人って大変なんだね、と莉々がつぶやく。
「わたしのおねえちゃんもね、カレシのこと、ときどきわからなくなるんだって」
莉々のお姉さんは、確か中学三年生だったはず。
それを考えると、おそらく紗世の恋愛偏差値は中学生以下なのかもしれない。
「でもね、自分のきもちだけはわかるから、そういうときは、自分の思ってることをしっかりつたえるようにしてるんだって」
小さな子ども拙い言葉。けれど、ハッとさせられた。
——私は、自分の気持ちを、伝えていない。