傷痕は運命の赤い糸
いつかの帰宅途中、賢人と並んでいたら、距離感を間違えて、うっかり手と手がふれあってしまったことがある。
それまで手がどこにあるかなんて気にもしていなかったのに、急激に賢人のそれに意識が向いていまい、どうしたらいいのかわからなくなった。
あれ、さっきまで歩きながらどんなふうに手を動かしていたっけ? うっかりぶつかったこの手を引っ込めたら変に思われるかな。そもそも、手がぶつかったくらいでこんなに気にしてしまうなんて、どうかしている。
意識しないようにと思うほど意識してしまう。
グルグルと小学生のようなウブさで悩んでいると、右手の小指に無骨な指が絡んできた。
「えっ……?」
賢人の小指が、紗世の小指を絡め取っていた。
「嫌だったら言って」
頬を染めて動揺している紗世とは違い、賢人は涼しげな顔をしている。
「別に……嫌じゃない、けど……」
——けど、恋人でもないのに手をつなぐの?
浮かんだ言葉を口に出してしまうと、指が離れてしまう気がした。そのほうが嫌だと思った。
こっそりと隣を見上げると、賢人の耳たぶが赤く色づいていた。
まるで子ども同士の約束事のような、小指を絡めるだけの触れ合いなのに。
女性慣れしていそうな外見に反して、賢人の反応が可愛いと思ってしまった。
可愛い、と思った瞬間、心臓に直接レモン果汁を垂らされたみたいに、胸の中心がギュッと酸っぱくなった。
冷えていた指先が、賢人の体温を伝えてくる。少しずつ熱を移され、同じ温度になろうとする小指。
こんなにも小さな触れ合いなのに、まるで、あたたかい毛布で包まれたような多幸感を覚えた。
あのときは分かっていなかったけれど、今思い返せば、なんて特別な時間だったのだろう。
もう会わない、と宣言してからたったの二週間。
胸にぽっかりと空いた小さな穴は、時間と共に大きくなる一方で、冷たい風がひゅうひゅうと音を立てて吹き抜ける。まるで寂しさが、私はここにいますよ、と主張しているように。
この先どんな出会いがあっても、誰と手をつないでも、たぶん、二度とあんな気持ちにはなれないだろう。
途端に、どれほど尊いものを手放してしまったのだろう、という後悔が紗世を襲った。
けれど、自分の気持ちを伝えるという行為は、怖さを孕む。
うまく伝えられないかもしれない。受け止めてもらえないかもしれない。
逆に、相手の気持ちも受け止められないかもしれない。自分の器の小ささは、自分が一番よくわかっているから。
想う人と心を交えるというのは、奇跡みたいなものだ。
「莉々ちゃんのお姉ちゃんは、すごいね」
自分よりもずっと年下の女の子が、好きな人に対して真剣に向き合っていることを、純粋に尊敬する。
「うんっ! わたしのおねえちゃん、めっちゃカッコいいんだよ!」
莉々はまるで自分が褒められたように、嬉しそうに声を弾ませた。
「先生もかっこよくなれるかな……」
それは、うっかりとこぼしてしまった独り言のようなものだった。
あれ以来、賢人からの連絡はない。
賢人も冷静になって、紗世への気持ちは恋ではなく、罪悪感だったのだと気が付いたのかもしれない。
だとしたら、今更賢人に気持ちを伝えることに、何の意味があるのだろう。
あれ以来ずっと、ネガティブな感情が心に居座っている。うじうじと悩む自分は好きになれない。でも、どうすれば元の自分に戻れるのかもわからない。
「せんせいはカッコいいよ!」
「……そうかな。そうだったらいいな。……莉々ちゃん、ありがとう。先生が落ち込んでることに気づいてくれて、相談にのってくれてありがとうね」
幼きカウンセラーにぺこりと頭を下げる。
「わたしね、せんせいたちの中でさよせんせいがいちばんすき。だって、わたしを子どもあつかいしないんだもん」
ドキリと心臓が跳ねた。
子どもたちに対して『子ども扱いしてると思われないようにする事』は心掛けているけれど、それを見抜かれている気がした。
そんな紗世の胸中なんて知るよしもなく、莉々が話に花を咲かせる。
「わたしがおねえちゃんやママとまざっておしゃべりするとね、ときどき笑われるんだ。『こどもなのに、おとなみたいなこと言ってる』って」
子どもらしからぬ、寂しさや諦めを交えたようなため息混じりのつぶやき。
「でもね、せんせいはいつもわたしを笑わないし、しんけんにお話ししてくれる。かんたんなことばでごまかしたりしない。だからカッコいいなぁって思うんだよ」
不純物が一切混じっていないキラキラ輝く瞳で、莉々が紗世を見る。
それは、紗世が大人になるにつれて失くしてしまった純粋さに思えて、少し寂しい気持ちになった。
見せられるまで、失くしたことにも気付かずにいたのに。
思えば、日頃から純粋なものに囲まれて過ごしているせいで、自分自身も純粋なのだと錯覚していたのかもしれない。
賢人に向ける恋心こそ、純粋とは言い切れない。過去の出来事なんて関係なかったことにして、今の紗世だけを愛してほしいと願う、邪な自分。
賢人から感謝されて、今尚想われ続けている子どもの頃の自分に、嫉妬心すら抱いてしまう。
なんて格好悪いんだろう。
子どもたちからカッコいいと言われる自分であり続けたい。
誤魔化さず、濁さず、真剣に人と向き合える、そんな自分で。
「莉々ちゃん、本当にありがとう。先生、ちゃんと話してみる。そして、元気な先生に戻るね」
そう告げると、莉々は心底嬉しそうに笑って頷いた。と同時に「せんせいみっけ! りりちゃんみっけ!」と探し役の子から見つかってしまった。
ふたりで目を合わせて微笑み合うと、保育士と園児ではなく、女の子同士で笑い合った感覚になった。
それまで手がどこにあるかなんて気にもしていなかったのに、急激に賢人のそれに意識が向いていまい、どうしたらいいのかわからなくなった。
あれ、さっきまで歩きながらどんなふうに手を動かしていたっけ? うっかりぶつかったこの手を引っ込めたら変に思われるかな。そもそも、手がぶつかったくらいでこんなに気にしてしまうなんて、どうかしている。
意識しないようにと思うほど意識してしまう。
グルグルと小学生のようなウブさで悩んでいると、右手の小指に無骨な指が絡んできた。
「えっ……?」
賢人の小指が、紗世の小指を絡め取っていた。
「嫌だったら言って」
頬を染めて動揺している紗世とは違い、賢人は涼しげな顔をしている。
「別に……嫌じゃない、けど……」
——けど、恋人でもないのに手をつなぐの?
浮かんだ言葉を口に出してしまうと、指が離れてしまう気がした。そのほうが嫌だと思った。
こっそりと隣を見上げると、賢人の耳たぶが赤く色づいていた。
まるで子ども同士の約束事のような、小指を絡めるだけの触れ合いなのに。
女性慣れしていそうな外見に反して、賢人の反応が可愛いと思ってしまった。
可愛い、と思った瞬間、心臓に直接レモン果汁を垂らされたみたいに、胸の中心がギュッと酸っぱくなった。
冷えていた指先が、賢人の体温を伝えてくる。少しずつ熱を移され、同じ温度になろうとする小指。
こんなにも小さな触れ合いなのに、まるで、あたたかい毛布で包まれたような多幸感を覚えた。
あのときは分かっていなかったけれど、今思い返せば、なんて特別な時間だったのだろう。
もう会わない、と宣言してからたったの二週間。
胸にぽっかりと空いた小さな穴は、時間と共に大きくなる一方で、冷たい風がひゅうひゅうと音を立てて吹き抜ける。まるで寂しさが、私はここにいますよ、と主張しているように。
この先どんな出会いがあっても、誰と手をつないでも、たぶん、二度とあんな気持ちにはなれないだろう。
途端に、どれほど尊いものを手放してしまったのだろう、という後悔が紗世を襲った。
けれど、自分の気持ちを伝えるという行為は、怖さを孕む。
うまく伝えられないかもしれない。受け止めてもらえないかもしれない。
逆に、相手の気持ちも受け止められないかもしれない。自分の器の小ささは、自分が一番よくわかっているから。
想う人と心を交えるというのは、奇跡みたいなものだ。
「莉々ちゃんのお姉ちゃんは、すごいね」
自分よりもずっと年下の女の子が、好きな人に対して真剣に向き合っていることを、純粋に尊敬する。
「うんっ! わたしのおねえちゃん、めっちゃカッコいいんだよ!」
莉々はまるで自分が褒められたように、嬉しそうに声を弾ませた。
「先生もかっこよくなれるかな……」
それは、うっかりとこぼしてしまった独り言のようなものだった。
あれ以来、賢人からの連絡はない。
賢人も冷静になって、紗世への気持ちは恋ではなく、罪悪感だったのだと気が付いたのかもしれない。
だとしたら、今更賢人に気持ちを伝えることに、何の意味があるのだろう。
あれ以来ずっと、ネガティブな感情が心に居座っている。うじうじと悩む自分は好きになれない。でも、どうすれば元の自分に戻れるのかもわからない。
「せんせいはカッコいいよ!」
「……そうかな。そうだったらいいな。……莉々ちゃん、ありがとう。先生が落ち込んでることに気づいてくれて、相談にのってくれてありがとうね」
幼きカウンセラーにぺこりと頭を下げる。
「わたしね、せんせいたちの中でさよせんせいがいちばんすき。だって、わたしを子どもあつかいしないんだもん」
ドキリと心臓が跳ねた。
子どもたちに対して『子ども扱いしてると思われないようにする事』は心掛けているけれど、それを見抜かれている気がした。
そんな紗世の胸中なんて知るよしもなく、莉々が話に花を咲かせる。
「わたしがおねえちゃんやママとまざっておしゃべりするとね、ときどき笑われるんだ。『こどもなのに、おとなみたいなこと言ってる』って」
子どもらしからぬ、寂しさや諦めを交えたようなため息混じりのつぶやき。
「でもね、せんせいはいつもわたしを笑わないし、しんけんにお話ししてくれる。かんたんなことばでごまかしたりしない。だからカッコいいなぁって思うんだよ」
不純物が一切混じっていないキラキラ輝く瞳で、莉々が紗世を見る。
それは、紗世が大人になるにつれて失くしてしまった純粋さに思えて、少し寂しい気持ちになった。
見せられるまで、失くしたことにも気付かずにいたのに。
思えば、日頃から純粋なものに囲まれて過ごしているせいで、自分自身も純粋なのだと錯覚していたのかもしれない。
賢人に向ける恋心こそ、純粋とは言い切れない。過去の出来事なんて関係なかったことにして、今の紗世だけを愛してほしいと願う、邪な自分。
賢人から感謝されて、今尚想われ続けている子どもの頃の自分に、嫉妬心すら抱いてしまう。
なんて格好悪いんだろう。
子どもたちからカッコいいと言われる自分であり続けたい。
誤魔化さず、濁さず、真剣に人と向き合える、そんな自分で。
「莉々ちゃん、本当にありがとう。先生、ちゃんと話してみる。そして、元気な先生に戻るね」
そう告げると、莉々は心底嬉しそうに笑って頷いた。と同時に「せんせいみっけ! りりちゃんみっけ!」と探し役の子から見つかってしまった。
ふたりで目を合わせて微笑み合うと、保育士と園児ではなく、女の子同士で笑い合った感覚になった。