傷痕は運命の赤い糸
 いつもの帰り道。ぼんやりと光るスマートフォンの画面を見つめ立ち止まったまま、かれこれ十分ほどは経過している。
 画面には『速水賢人』という文字と、彼の電話番号が表示されている。
 何かあったらすぐに電話してくれ、と言われて登録したけれど、紗世から電話したことは一度もなかった。
 一方的に賢人との関係を断ち切ったのに、今更どうやって「会いたい」と言い出せばいいのだろう。
 震える指先を通話マークの上まで持ってきては押せずにポケットの中のホッカイロを握る。そんなことを繰り返していた。

 自分の気持ちがこんなに弱いなんて、知らなかった。どちらかというと根性がある方だとすら思っていたのに。

——せんせいはカッコいいよ!

 キラキラした瞳でそう言ってくれた教え子を思い浮かべる。
 近くで小型犬の鳴き声が聞こえる。
 今はチワワよりも、穏やかな大型犬が好みになった。真っ黒で艶やかな毛並みの、品のある大型犬がいい。
 紗世は大きく息を吐いて、勢いよく通話マークをタップした。

 同時に、少し先にある電柱の陰から、ピリリリとシンプルな着信音が聞こえてきた。
 そして通話に切り替わった途端、近くで鳴っていた電話の音も切れた。
 すっかり紗世の耳に馴染んだ、低く落ち着きのある声が、電話越しと、そして目の前から直接聞こえてくる。
『……ごめん、待ち伏せなんかして。どうしても、会って話しをしたかった。本当は、もっと早く会いに来るつもりだったんだけど……』

 罰が悪そうに眉尻を下げる賢人の顔を見た途端、虚勢を張ってぎゅっと固めていた心が、バスタブに落とした固形入浴剤みたいに、シュワシュワと溶け始めた。ほろほろと崩れていく心に反して、苛立ちに似た恋情が、素直な言葉を阻害する。
「……遅い!遅すぎる!今更何の用よ! やっぱり私のことなんか好きじゃなかったって気づいたん——」
 吐いていた言葉を出し切る前に、強く抱きしめられた。息をするのも苦しいくらいに。
「離して……」
 心臓が痛くて、苦しいから……。
「嫌だ」
 見た目に反して筋肉質な腕の力は強くて、厚い胸は押しても叩いてもびくともしない。
 耳もとで賢人の呼吸音が聞こえる。耳に血液が集まっているみたいに、バクバクと耳の中で脈の音がする。
「俺と結婚してほしい」
 脳に直接囁かれたようなその言葉で、紗世の思考が数秒間停止した。驚きすぎて心臓も止まったかと思った。
「紗世の傷痕に責任を全く感じてないとは言わない。だけど、それだけじゃない」
 責任という単語が、紗世の心の弱い部分をチクリと刺す。
「助けてもらった瞬間から、俺の人生の中心にはいつも紗世がいた」
 まただ。子供の頃の自分が、今の紗世の邪魔をする。
『この人が好きになったのは私だよ』
 と言ってくる。
 だけど、紗世は、そんな幼い自分を抱きしめた。

——あなたも、私でしょ?

 息を吸う。素直になると約束したから、喉につかえていた言葉をゆっくり吐き出す。
「……同情だったら、受け入れられないって思ったの」
「同情じゃな——」
「だって私は本気で好きになってたから」
 今度は紗世が賢人の言葉を遮った。
 素直な気持ちを吐き出すと、余計な水分まで溢れ出そうになって、慌てて喉奥に力を込めた。
「今、なんて……?」
 ふっと腕の力が緩んで、体が離される。そして、顔を覗きこまれる。
 飲み込みきれなかった水分が薄らと瞳に膜を張り、鼻の頭が赤くなってくる。
「好きな人には、本当の意味で幸せになってほしかった。罪悪感とか同情心じゃなくて、心の底から想う人と一緒になってほしいって……だから」
 顔を上げた拍子に、左の目尻から一粒だけ雫が滑り落ちた。
「なのに賢人と会えない間、すごく寂しかった。同情でもなんでもいいから、私のそばにいてほしいって思った」
 ここ最近、どうしたって賢人のことが頭から離れなかった。それは、自分自身の弱い部分と向き合うということだった。そして炙り出されるのは、決して『カッコいい』と褒めてもらえるような自分ではなかった。
「こんな私でも……いいの?」
 子どもの頃よりも自信を失くしてしまった今の自分なんかでいいのだろうか。

「再会して確信した。俺は、紗世しか好きになれない」
 賢人の大きな手のひらが、紗世の頬を包む。親指が目尻を撫で、涙の跡を消していく。
「信じてくれなくてもいい。一生をかけて証明してみせるから、ずっとそばで見張っていてくれないか」
 紗世が頷くと、不安げに潤んでいた賢人の目が優しく弧を描いて、くしゃりと笑った。
 それは、あの日助けたチワワみたいに可愛らしい男の子の笑顔そのものだった。
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