傷痕は運命の赤い糸
「もう帰ってもいいですか? 保育園で発表会があるので、明日の朝は早いんです。今日も残業だったのに……」
 それに、一方的に自分の話をしているこの状況も疲れる。
「お子さんがいるんですか?」
 心底驚いた様子で、賢人が目を見開く。余程衝撃的なことだとでもいうように。
「仕事です! 私、保育士なんです。お若い警察官のお兄さんにはわからないかもしれませんが、保育士も大変なんです」
 早く解放してもらいたくてつい嫌な言い方をしてしまった。
 けれど、職務を全うしているだけの相手に八つ当たりだなんて、子どもの駄々と変わらない。
 まだまだ未熟な自分をすぐに反省した。
「……すみません。今の発言には偏見と悪気がありました」
 言ったそばから腰を折って謝罪するなんて情けない。疲労は大人を子供返りさせる。

——自分が悪いと思ったら、なるべく早く正直に謝罪しなさい。

 これも祖父の教えだ。
 その方が、後から悩まずに済むから結果的に心が楽になる。
 そもそも、口に出す前に一度考えてから話さないといけなかった。一度出した言葉は、なかったことにはできないのだから。

 しょんぼりと項垂れる紗世の上から、くすっと低い笑い声が洩れ聞こえた。
 思わず顔を上げると、うっかり笑ってしまったことを恥じらうように「失礼しました」と頭を下げられる。
「ちなみに、俺はあなたと同い年です」
「へ? あ、そう……ですか」
 急に砕けた口調に変わった賢人に戸惑いつつ、ふたりの間に流れていた空気の性質が(主に賢人から紗世に対する空気が)柔らかくなった気配を感じた。

 そんなことよりも、今いちばん優先すべきは帰宅と睡眠だ。
「お話が必要であれば、今度でもいいですか? 今日は見逃してください……」
 相手も仕事だとわかっているが、こちらも仕事に備えて帰りたいと思っている。
 産前休暇に入った同僚がいて、代わりの保育士が見つかっていない。
 今や人手不足は、どこも同じで、保育士も例外ではない。

 保育士は子どもと遊ぶことだけが仕事ではない。
 今日だって、最終確認中にお遊戯で使うウサギの被り物が破損していることに気が付いて、作り直していて遅くなってしまったのだった。
 不幸にも、それに気が付いたのは同僚が皆退勤した後だった。
 きっと壊してしまった子は怒られると思って、隠してしまったのだろう。
 そんなハプニングが頻繁に起こる仕事でもある。

「わかりました。長い時間引き留めてしまってすみませんでした。お詫びというわけではありませんが、家まで送らせてください」
 これ以上関わるのも面倒なので断ろうとしたところ「それでは行きましょうか」と、女性警察官がやってきた。隣には先に絡まれていた彼女もいて、紗世に向かって深々と頭を下げた。
 先導されるまま、近くに止めてあった車に案内される。
 パトカーに乗せられるのかと思いきや、ごく一般的な普通自動車で、これならまあいいかと彼女に続いて後部座席に乗り込んだ。
「あの、本当にありがとうございました」
 ほんのりと甘い香りのする、ボブヘアのとても可愛らしい子が、紗世にぺこりとお辞儀した。
「あの時、逃げることもできなくて怖くて……。助けてくれたこと、感謝してもしきれません」
 綺麗なメイク、おしゃれな服装。自分を飾ることからすっかり遠ざかっていた紗世は、少しだけ、羨ましいなと思った。
「私も、ありがとう」
「え?」
 逆にお礼を言われた彼女が、こてりと首をかしげる。
「あなたが無傷でいてくれてよかった」
 と、紗世は独り言のようにつぶやいた。その言葉の中に、子どもの頃の自分を見た。
 走馬灯のように一瞬だけ出てきた脳内映像を振り払い、
「お互い怪我しなくて、本当によかったね」
 と、ニカッっと彼女に笑いかけると、ほっとしたように微笑んでくれて、車内の緊張がほどけた。
「私の名前、友理奈(ゆりな)っていうんです。だから『ユリちゃん』って呼ばれたとき、あれ? 知り合いだったかなぁ、ってすごく焦りました」
「えっすごい! ユリちゃん呼び正解だったの? 私、今度から特技を聞かれたら『名前当て』って言おうかな」
「それ、どういう状況で使うんですか」
 ユリちゃんがクスクスと笑った。
 そんなふうに冗談を言っているうちに、あっという間に自宅アパートに到着した。
「送ってくださってありがとうございました」
 一緒に車を降りた賢人に頭を下げる。
「家に入ったらすぐに戸締りをしてくださいね」
 随分真剣に言ってくるところを見ると、とても真面目な警察官なのだろう。
 濁りのない彼の瞳の中に、懐かしさにも似た誠実さを感じる。
「わかりました」
 紗世はしっかりと頷き返した。

 すっかり夜中の時間帯になってしまったけれど、結果的にいい方向に転んでよかった。

 だけど、なにか大切なことを忘れているような気がする。せっかくスーパーに来たのに、買う予定の物を思い出せずにいるような、そんな違和感がほんのりと残る。
 多少の違和感を抱きながらも、考えても仕方がないことは忘れる主義の紗世は、やっと無事にその日を終えたのだった。
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