傷痕は運命の赤い糸

再会

 小さなウサギさんたちがぴょんぴょんと跳ねながら歌い踊る姿を、保護者が満面の笑みで見守っている。中には我が子の成長に涙を浮かべている親もいる。
 紗世は黒衣になり、ステージの陰から身振り手振りで次の動きの指示を出したり誘導したりと大忙しだ。
 沢山の視線に緊張して固まってしまった子には、渾身の変顔をして見せ、笑顔を引き出してからステージに戻した。

 紗世が受け持つ五歳児クラスの発表は大成功だった。
 嬉しそうにしている親子を見ていると、費やした時間も労力も報われる気がする。大変な仕事だけれど、この仕事でしか得られないやりがいがあるからこそ頑張れている。たとえ片付け作業で今日もまた、残業になろうとも……。

 最後まで残った同僚三人と戸締りのチェックをして出入り口の鍵を閉めたのは、二十時半を過ぎたころだった。
「私たちこれから飲みに行くけど、紗世先生もどう? せっかく明日休みだし」
 折角のお誘いはありがたいが、昨日の今日で居酒屋に行く気持ちにはなれなかった。
「ありがとうございます。でも今日は見たいドラマがあるので帰ります」
「そっか。じゃ、おつかれさまでした~」
「おつかれさまでした」

 ずっと賑やかだったからか、ひとりになると途端にぽつんと取り残されたような気分になる。
 さっさと帰ろうと、バス停に向かいかけて足を止めた。
『お前の顔覚えたからな! 絶対に探し出してぶち犯してやる!』
 昨日の男の声が、頭の中で響いた。
 あの男たちはどうなったのだろうか。今は留置所に入れられているのだろうか。
 実際に暴力を振るわれたわけではないので、おそらく彼らが刑務所に入ることはないだろう。きっとすぐに釈放される。もしかしたら、バス停や駅周辺で紗世のことを探しているかもしれない。

 平気だと思っていた。実際についさっきまで忘れていた。けれど、一度思い出してしまうとダメだった。リトマス試験紙に色の変わる水溶液を染みこませたときのように、一瞬で感情の色が変わってしまった。
 ジワジワと恐怖心が迫り上がってくる。

——昔はもっと強かったはずなのに、いつのまにこんなに弱くなちゃったんだろう。

 思えば紗世は、小学生の頃は本物の無鉄砲少女だった。
 同級生の中でいちばん大きかったこと。運動神経がよく、年上の男子との勝負でも負け知らずで、自分が一番強いのだと調子に乗っていた時期もあった。
 紗世が調子に乗ると、対戦相手が祖父になった。
 当然、全く太刀打ちできない。
 完膚なきまでに打ち負かされて、そして説かれる。
『驕るな。自分の弱さを認めて相手と対峙しなさい』

 紗世はおじいちゃんっ子だった。三つ子の魂百まで、というが、祖父が口癖のように言っていたことが、細胞レベルで沁みているのかもしれない。

『弱い人を守ってあげなさい。情けは人の為ならずだよ。良い行いは必ず巡り巡って自分の為になる』

 祖父はよく、この言葉を繰り返していた。
 困っている人がいると後先を考えずに飛び込んでいってしまうのは、この言葉のせいだ。
 しかし、ある出来事をきっかけに『弱い人を守ってあげなさい』とは言われなくなった。

 ある出来事……。それを思い出していたら、夜道を歩く恐怖心が急に肥大してきた。
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