傷痕は運命の赤い糸
 視線に気が付いた彼が、「すみません、自己紹介がまだでしたね」と、警察手帳を取り出して紗世に見せるように開いた。
 警察官というより俳優やモデルだとかいわれたほうがしっくりくるのに、などと失礼なことを考えていたとは言えない。
速水(はやみ)賢人(けんと)といいます。申し訳ないですが、念のために貴女の身分証を確認させていただいてもいいですか?」
 どうして被害者なのに身分証を? と訝しく思ったが、実際には手をあげてしまっているし、過剰防衛を疑われているのかもしれない。どちらにしても早く帰りたいので、紗世は渋々身分証を提示した。

 身分証に目を通した瞬間、賢人が小さく息を呑んだ。
「笹原、紗世……さん?」
 特段珍しくもない名前なのに、戸惑いを滲ませた声色で身分証に書いてある名前を呼ぶ。
 その様子を不思議に思いながらも、早く返してほしいという気持ちが上回ったので口を挟んだ。
「あはは、”さ”が三文字もあって早口言葉みたいな名前ですよね」
 自己紹介する時の、場を和ませるための鉄板ネタだったのに、賢人はくすりとも笑わなかった。 
「……どうして、先に助けを呼ばなかったんだ」
 それは、目の前の紗世への質問というより、ここにはいない誰かに問いかけているように聞こえた。
「怖いと思わなかったんですか? まずは警察に電話するなり、大通りから人を連れてくるなり、他の方法があったはずです」
 口調が変わり今度は、そうするべきだったのに、と咎めるような言い方だった。

「確かに、そのほうが安全だったとは思います」
 もちろん、その選択を考えなかったわけではない。けれど、体が先に動いてしまった。
 もしも、助けを呼びに行っている間に彼女が連れ去られていたら。もし、警察に電話している間に彼女が暴力を振るわれていたら……。
 あのときこうしていれば、という後悔はきっと消えない。
 それがいちばん痛い。
 目の前で人が傷つくくらいなら、自分が傷つけられたほうがまだいい。綺麗事かもしれないけれど、自己犠牲の精神で生きているわけではなく、単純に、紗世自身が後悔を持ち続けていたくないだけのことだ。

 そのようなことを説明していると、徐々に賢人の眉間の皺が深くなっていった。

——え、私怒られるの? 二十八歳にもなって、道端で警察官から?

 慌てた紗世は、言い訳のように生い立ちを語って聞かせた。
「私、空手の経験があるんです。だから、勝算はありました。無鉄砲に飛び込んでいったわけではないです」
 ぐっ、と拳を作ってみせると、目の前の整った顔がキョトンとした表情になった。

 紗世は幼少期、祖父の営む空手教室に通っていた。
 子どものころの紗世は成長が早く、小学生の高学年までは背の順の整列では最後尾だった。体格の理もあり、幼いころは試合でも強かった。小学生の頃はキッズ大会で、県内三位に入賞したこともある。
 けれど、中学に上がった途端、ピタッと成長が止まり、いつのまにか背の順の先頭に並ぶようになっていた。
 母親譲りの華奢な体型で、筋肉をつけようとがんばっても、すぐに限界を迎える。少しでも筋トレを怠ると、あっという間に細腕に戻ってしまう。
 紗世の努力不足も原因のひとつではあるが、武術向きの体ではないと自覚してしまったため、中学二年生の時に引退した。
 しかし、引退はしたが、完全に空手をやめたわけではない。
 その後は、運動不足解消と、祖父との交流も兼ねて相手をしてもらいながら、月に数回のペースで続けていた。
 だから、一応勝算はあったのだ。
 ただし、小柄で筋肉も足りないので、真っ向から男性に勝負を挑んでも勝てない。
 仕種や声のトーンでか弱い女に見せかけて、いきなり急所を狙うという必殺技を繰り出したのだ。
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