傷痕は運命の赤い糸
 このあたりはペットの散歩をしている人とたまにすれ違う程度で、外灯も少なく人通りがあまりない。
 だいぶ遠回りになってしまうが、まずは大通りまで行こう。早く人が多い場所に出たい。

 ショルダーバッグの肩紐を胸元でぎゅっと握って歩き出したときだった。
「笹原さん?」
 男の声で急に背後から呼び止められて、ビクッと肩が跳ねた。
 それはあまりにも突然だと感じるもので、恐怖心から、相手の確認もせず咄嗟に裏拳を繰り出した。
 バシッ、という音はしたが手ごたえはなかった。それもそのはず。相手は、見かけによらず屈強な腕で、完璧にガードをしていたのだから。
「ごめん、驚かせたかな」
 そこにいたのは、予想外の人物だった。
「昨日の……お巡りさん?」
 彼のバランスの取れた眉毛が困ったように八の字になる。
「お巡りさんと呼ぶのはやめてください。賢人でいい。大学まではアメリカにいたから、ファーストネームのほうが呼ばれ慣れてるんだ」
 今日の賢人はとても饒舌で、クールな第一印象とは少し違って見えた。

 一体なぜ自分の前に現れたのだろうと、多少訝しく思いつつ、声をかけてきたのが警察官だということでホッとしたのも事実だった。

「では私のことも名前で呼んでください。名字は呼ばれ慣れていないので」
 仕事柄、同僚からも園児からも保護者からも『紗世先生』と呼ばれることが多い。
「それで、賢人……さんは、どうしてここにいるんですか?」
 普段、男性を名前で呼ぶことがないので、変に緊張してしまい、少し言葉が詰まってしまった。
 男性を呼び慣れていない、というより、男性慣れしていない、という方が近いかもしれない。
 何年も前に恋人がいたこともあったが、名前で呼び合うような親密な関係になる前に別れることになった。
 破局の原因は紗世の黒歴史にもなっているので、思い出したくもないが。
「紗世さんの護衛に来ました。家まで送ります」
 賢人がにこりと微笑む。夜なのにキラキラと効果音が聞こえそうなほど眩しく見えるのは、イケメンオーラというものだろうか。
 しかし、何故自分のところにわざわざ来るのか、理解できない。
 守るべきはユリちゃんのような、男性に狙われやすそうな女の子だろうに。
「警察官って暇なんですか? 仕事で私ひとりなんかに時間を割くなんて、いつのまにそんなに治安がよくなったんです?」
 たまに特番でやっている警察官への密着取材を見ていると、事件や事故は山ほどあるようだし、昨日のような騒動なんてそこら中に溢れているはず。
「今日の勤務は終わった。今はプライベートな時間なのでご心配なく」
「えっ? 仕事じゃないのにどうしてわざわざ護衛なんて……。もしかして私、なにか罰せられるんですか?」
 やはり男たちに手をあげたのがいけなかったのだろうか。
 焦る紗世を見て、賢人がくすりと笑う。と思ったら、スッと真剣な表情に変わり、心配そうにのぞき込んできた。
「昨日、言われてましたよね。『顔を覚えた。絶対探し出してやる』って。不安を感じてるかと思って」
 図星だった。けれど、そんな不安を初対面の人から見抜かれたくなかった。
 悔しさや羞恥がないまぜになって、つい攻撃的な物言いになってしまう。
「そんなことでプライベートの時間にわざわざ一般市民の送迎に? 何時に私が仕事を上がるかもわからないのに?」
 怪しすぎる。いくら警察手帳を見せられたからといって、手放しに信用することはできない。
 ジロリと睨むと、賢人は目を丸くして、
「女性からこんなに邪険にされるなんて。なんだか新鮮だな」
 と言い放った。その発言は、自分はすごくモテます、と宣言しているようなものだ。
 彼のその確かな自信は本人の意図せぬところで小さな棘となり、紗世の劣等感をチクチクと刺してくる。
「イケメン警察官を邪険にする私なんかより、善良でか弱い女性を守りに行ったらどうですか?」
 ユリちゃんみたいな、とは付け足さなかった。
 嫌味を言っている自覚があるのに、そこに他人を混ぜたくはなかった。

 空手を経験していたことで鍛えられはしたけれど、紗世は強くない自覚を持っている。でも、人から『弱そう』と思われるのは胸が悪い。見た目で『か弱い女性』と決めつけられることに、反発心を覚えてしまう。
「酔っ払いのナンパ野郎から暴言を吐かれたくらいで震え上がったりしませんので、ご心配なく。ひとりで帰れます」
 紗世は賢人に構わず、さっさと歩きだした。早歩きで賢人と距離を取ろうとしたが、彼の長い足での一歩が大きくて、あっという間に横に並ばれてしまった。
「怒らせてしまったならごめん。でも……」
 そして簡単に追い抜かれ、進行方向を塞がれた。早歩きをしていたから、そのままの勢いで賢人の胸に顔を押し付けるようにボスっと突っ込んだ。
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