野いちご源氏物語 〇八 花宴(はなのえん)
貴族たちは退出なさって、中宮と東宮はそれぞれ御殿へお戻りになった。静かになった庭に月明かりが明るく差しこんで美しい。
<中宮にお会いできないだろうか>
お酒に酔った源氏の君は、誰にも気づかれないように藤壺まで歩いていかれる。しかし戸締まりは厳重で、王の命婦をお呼びになることさえできない。
嘆きながら弘徽殿の方へ足を向けてごらんになる。こちらは一か所だけ戸が開いていた。弘徽殿の女御は帝のお部屋の方へ行っていらっしゃるらしい。ほとんどの女房たちはそのお供をしていて、御殿に残っている人は少なそうだった。
源氏の君は濡れ縁に上がると、開いている戸から縁側を覗きこまれる。誰も来ない。
<不用心だな。こういうところから男女の過ちは起きるものなのに>
そっと縁側にお入りになった。おそらく女房たちは寝てしまっている。
そこへ若い女性の声が聞こえてきた。ただの女房とは思われない美しい声だった。
「春の夜の朧月夜ほど美しいものはない」
有名な和歌を口ずさみながら、縁側をこちらの方へ歩いてくる。源氏の君はうれしくなって、思わず袖をお取りになった。
「まぁ、なんてこと。誰なの」
姫君は恐ろしそうにおっしゃる。
「怖がらないで。あなたと私の運命の糸は、朧月のようにぼんやりとはしていませんよ。私にははっきり見えるのです」
耳元で優しくささやいて、源氏の君は姫君を抱き上げてしまわれた。そのまま奥の部屋に入って戸をお閉めになる。
あまりのことに茫然となさっているのがかわいらしい。
「誰か。ここに怪しい人が」
姫君は震えながら女房をお呼びになる。
「私をとがめられる人はいませんから、女房をお呼びになっても無駄ですよ。お静かになさい」
余裕たっぷりにおっしゃるから、姫君は相手の正体にお気づきになった。そんな発言ができるのはひとりしかいない。
<源氏の君ならよいかしら>
少し安心してお迷いになる。
<駄目かもしれないけれど、源氏の君に頑なな女だと思われるのも嫌だわ>
まだお若い人だから、きっぱりとお拒みになれない。
源氏の君は悪い酔い方をなさっている。このなよやかな姫君を放しておやりになるのは惜しかった。
かわいらしい人だと思っていらっしゃるうちに、あっという間に夜が明けてしまった。早く御殿からお出にならないといけない。源氏の君は気が急く。姫君はそれ以上に混乱なさっていた。
「あなたのことを教えてください。弘徽殿の女御とはどういうご関係なのですか。このままでは手紙も届けられない。まさかこれで終わりにするつもりはないでしょう」
姫君は少しすねたようなお顔をなさった。
「探し出そうとまでは思ってくださらないのね」
優雅なご様子に源氏の君はたじろがれる。
「うっかりしたことを言ってしまったな。あなたを探しているうちに誰かがこの関係に気づいて騒ぎたてたら、うまくいくものもいかなくなるでしょう。関係を続けようとお思いになるなら、あなたが誰なのか教えてください。それとも私は一晩だけの遊び相手ですか」
女房たちが起きて働きはじめたらしい。部屋の外の気配があわただしくなってきた。源氏の君は人目を気になさる。
「ではせめて、これを手がかりに」
ご自分の扇と姫君の扇を交換して弘徽殿を出ていかれた。
源氏の君は桐壺にお帰りになった。
「昨夜はどこにお泊まりだったのかしら。あいかわらずお盛んだこと」
女房たちはひそひそと話して寝たふりをしている。源氏の君は横になっても寝られず、先ほどの姫君のことをお考えになる。
<かわいらしい人だったな。弘徽殿の女御にはたくさん妹君がおいでだから、そのうちのどなたかだろう。まだ男を知らなかった。右大臣の五の君、あるいは六の君か。
六の君はたしか東宮と結婚なさる予定のはず。もしその人だったら気の毒なことをしてしまった。いずれにせよ相手が右大臣家である以上、うまくやらなければ面倒なことになる。あちらも拒絶するふうではなかったのだから、手紙のやりとりの方法をきちんと決めるべきだった>
弘徽殿の女御は源氏の君を憎んでいらっしゃる。これは危うい秘密の恋になりそうだった。
<それにしても、戸締まりひとつをとっても、弘徽殿に比べて藤壺はしっかりしていた。そういうところにも主の人柄が出るのだろう>
藤壺の中宮を崇拝するお気持ちは強まっていく。
<中宮にお会いできないだろうか>
お酒に酔った源氏の君は、誰にも気づかれないように藤壺まで歩いていかれる。しかし戸締まりは厳重で、王の命婦をお呼びになることさえできない。
嘆きながら弘徽殿の方へ足を向けてごらんになる。こちらは一か所だけ戸が開いていた。弘徽殿の女御は帝のお部屋の方へ行っていらっしゃるらしい。ほとんどの女房たちはそのお供をしていて、御殿に残っている人は少なそうだった。
源氏の君は濡れ縁に上がると、開いている戸から縁側を覗きこまれる。誰も来ない。
<不用心だな。こういうところから男女の過ちは起きるものなのに>
そっと縁側にお入りになった。おそらく女房たちは寝てしまっている。
そこへ若い女性の声が聞こえてきた。ただの女房とは思われない美しい声だった。
「春の夜の朧月夜ほど美しいものはない」
有名な和歌を口ずさみながら、縁側をこちらの方へ歩いてくる。源氏の君はうれしくなって、思わず袖をお取りになった。
「まぁ、なんてこと。誰なの」
姫君は恐ろしそうにおっしゃる。
「怖がらないで。あなたと私の運命の糸は、朧月のようにぼんやりとはしていませんよ。私にははっきり見えるのです」
耳元で優しくささやいて、源氏の君は姫君を抱き上げてしまわれた。そのまま奥の部屋に入って戸をお閉めになる。
あまりのことに茫然となさっているのがかわいらしい。
「誰か。ここに怪しい人が」
姫君は震えながら女房をお呼びになる。
「私をとがめられる人はいませんから、女房をお呼びになっても無駄ですよ。お静かになさい」
余裕たっぷりにおっしゃるから、姫君は相手の正体にお気づきになった。そんな発言ができるのはひとりしかいない。
<源氏の君ならよいかしら>
少し安心してお迷いになる。
<駄目かもしれないけれど、源氏の君に頑なな女だと思われるのも嫌だわ>
まだお若い人だから、きっぱりとお拒みになれない。
源氏の君は悪い酔い方をなさっている。このなよやかな姫君を放しておやりになるのは惜しかった。
かわいらしい人だと思っていらっしゃるうちに、あっという間に夜が明けてしまった。早く御殿からお出にならないといけない。源氏の君は気が急く。姫君はそれ以上に混乱なさっていた。
「あなたのことを教えてください。弘徽殿の女御とはどういうご関係なのですか。このままでは手紙も届けられない。まさかこれで終わりにするつもりはないでしょう」
姫君は少しすねたようなお顔をなさった。
「探し出そうとまでは思ってくださらないのね」
優雅なご様子に源氏の君はたじろがれる。
「うっかりしたことを言ってしまったな。あなたを探しているうちに誰かがこの関係に気づいて騒ぎたてたら、うまくいくものもいかなくなるでしょう。関係を続けようとお思いになるなら、あなたが誰なのか教えてください。それとも私は一晩だけの遊び相手ですか」
女房たちが起きて働きはじめたらしい。部屋の外の気配があわただしくなってきた。源氏の君は人目を気になさる。
「ではせめて、これを手がかりに」
ご自分の扇と姫君の扇を交換して弘徽殿を出ていかれた。
源氏の君は桐壺にお帰りになった。
「昨夜はどこにお泊まりだったのかしら。あいかわらずお盛んだこと」
女房たちはひそひそと話して寝たふりをしている。源氏の君は横になっても寝られず、先ほどの姫君のことをお考えになる。
<かわいらしい人だったな。弘徽殿の女御にはたくさん妹君がおいでだから、そのうちのどなたかだろう。まだ男を知らなかった。右大臣の五の君、あるいは六の君か。
六の君はたしか東宮と結婚なさる予定のはず。もしその人だったら気の毒なことをしてしまった。いずれにせよ相手が右大臣家である以上、うまくやらなければ面倒なことになる。あちらも拒絶するふうではなかったのだから、手紙のやりとりの方法をきちんと決めるべきだった>
弘徽殿の女御は源氏の君を憎んでいらっしゃる。これは危うい秘密の恋になりそうだった。
<それにしても、戸締まりひとつをとっても、弘徽殿に比べて藤壺はしっかりしていた。そういうところにも主の人柄が出るのだろう>
藤壺の中宮を崇拝するお気持ちは強まっていく。