冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む

プロローグ

 六月。
 都内にあるマンションのリビングで、九重香苗(ここのえ かなえ)は自分と向き合って座る男性の顔を見詰めた。
 その視線に気付いて、こちらに視線を返す彼は、十年前と変わることのない存在感のある端正な顔立ちをしている。
 正しくは、大人の男としての魅力が加味された分、その存在感は増している。
 学生時代から人目を引く存在で、彼に憧れている女子は多かったが、優秀な救命救急の外科医として働く今、一段と女性にモテていることだろう。
 香苗がそんな彼の恋人だったのは、遠い昔のことなのに……。

「これにサインをしてもらいたい」

 向かいに座る彼、矢崎拓也(やざき たくや)は、そう言ってテーブルに婚姻届を広げる。

「俺の名前を始め、必要な記入は澄んでいる」

 その言葉どおり、目の前の婚姻届には、拓也の名前の他、両者の保証人の欄も記入済みで、後は香苗が名前を記入すればいつでも出せる状態となっている。
 香苗が黙っていると、拓也は婚姻届の上に万年筆を置く。
 十代の香苗は、彼と共に婚姻届を書くことを夢見ていた。
 だけど二十七歳になった今、自分たちが置かれている状況は、あの頃夢に描いていた状況とは大きくかけ離れていて、このまま素直にサインすることが躊躇われる。

「拓也さんは、本当に私と結婚するつもりなの?」

 あなたには他に心から愛している女性がいるのに……、とういう言葉は、彼を今も愛している香苗には口にすることができない。
 香苗の気持ちに気付くことなく、拓也が言う。

「十年も前に別れた君と、再会したのもなにかの縁だ。お互いの面倒ごとから解放されるためにも、これが一番いんじゃないのか?」

 その口調は軽いもので、彼が自分との結婚を深刻なものとして受け止めていないのは明白だ。

「別にそれにサインしたからと言って、今さら俺を愛する必要はないし、君に妻としての役割を求めるつもりもない」
「わかりました」

 遠回しに香苗の愛情を拒絶する彼の言葉に胸を痛めながら、覚悟を決めて万年筆を手にする。

「どちらの苗字を名乗るかは、君が決めていい」

 そのまま自分の名前を書き込む香苗に、拓也が付け足す。
 そう声をかけられて、その項目に印がつけられていないことに気付いた。

「俺より君の方が背負うものが多いのはわかっている。だから、そうすることで君の迷惑にならないのなら、俺が香苗の苗字を名乗る形で構わない」

 一瞬手の動きを止めた香苗に、拓也が言う。
 その言葉に、香苗は首を横に振り、婚姻届の『夫の氏』の方にレ点を振る。
 それだけの作業を終えると、万年筆を置いて彼を見た。

「私があなたに嫁ぎます。ただ一つだけ条件があります」

「条件?」

 それはなんだと、拓也に視線で問い掛けられて、香苗は条件を口にする。
 香苗の言葉を聞いて、拓也は「なるほど。わかった」と、頷いた。
 そして不意に香苗の手を取る。

「拓也さんっ!」

 突然のことに驚き声を跳ねさせる香苗に構うことなく、拓也はその手の甲に口付けを落とし、そのまま上目遣いにこちらを見て言う。

「だけど必ず俺と結婚してもらう。そのことは忘れるな」

 自分に向けられる彼の眼差しに、強い執着が見えたような気がして香苗の鼓動が大きく跳ねた。
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