冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む

1・思い出の中の“彼”

 日没直後の空が、夕陽の名残で不思議な色に染まっている。
 濃紺からすみれ色へとグラデーションに染まる空は、海との境界線が赤く染まり、そこに浮かぶ雲の一部は黄金色に輝いている。
 その景色にどうしようもなく胸が疼くのは、同じような空を、大事な人と見たことがあるからだ。

「懐かしい」

 病室の窓から見える景色に、九重香苗が呟く。

「なにが?」

 ベッドの上で身を起こしている高齢の女性に声をかけられ、香苗は、自分が仕事中で合ったことを思い出す。
 慌てて差し出された体温計を受け取り、記録を取る。

「すみません。懐かしい景色に見とれていました」
「いつもと同じ景色じゃない?」

 続いて血圧の測定の準備を始める香苗のために右手をベッドテーブルの上に置く女性は、窓の外に視線を向けて言う。
 人工関節置換術のために二週間ほど前からこの部屋に入院している彼女は、不思議そうに首をかしげる。
 確かにここから見える景色は、昨日となにも変わらない。
 もっと言えば、香苗が神奈川県にあるこの遠鐘病院(えんしょうびょういん)で勤務するようになって五年になるが、入職当初と比べてもたいして変化はない。

「景色じゃなくて、夕日の色です」

 血圧ベルトを巻きながら香苗は言う。
 その説明で多少は納得してくれたのか、女性は柔らかな表情で夕焼けを眺める。

「マジックアワーね」

 女性がポツリと呟く。

「え?」
「学生時代に写真部だった夫が教えてくれたのよ。日没後のこういう空の色を、そう呼ぶらしいわ。世界が淡い光に照らされて、すごく綺麗な写真が撮れる特別な時間だからそう呼ぶらしいわよ」

 女性はそう説明して、窓の外を眺める。
 懐かしげなその表情を見るに、もしかしたら彼女にも、大事な人と一緒にこんな夕暮れを眺めた思い出があるのかもしれない。

「素敵な言葉ですね」
「マジックアワーは、一瞬だけの奇跡的な美しい時間だから、大事にしなきゃいけないって、夫がよく言っていたわ」
「一瞬だけの奇跡的な時間……」

 香苗は、女性のバイタルチェックを続けながら過去を振り返る。
 香苗にとって、高校一年生の春から冬にかけて大好きな“彼”と過ごした日々は、それこそ奇跡のように光り輝いた美しい時間だった。
 そしてその愛おしい時間を、香苗は自分の意思で手放したのだ。

「……はい。血圧も変わりないですね」

 つとめて明るい声で間者に話しかけることで、香苗はどうにか過去の思い出を振り切る。

「そうそう、九重さん」

 香苗が血圧計の腕帯を片付けていると、女性がこちらに少し身を捻って言う。

「先日見舞いにきていた私の孫のことは覚えているかしら?」

 その言葉に、香苗は記憶を巡らせて、先週末、彼女を見舞っていた背の高い男性の姿を思い出す。
 少しタレ目気味で、温和な印象を与える顔立ちをしていた。年齢は、二十七歳の香苗より少し年上だろうか。

「はい。背の高い優しそうな方ですよね」

 香苗の返事に、女性はうれしそうに頷く。

(きっと自慢のお孫さんなのね)

 そんなことを思っていると、女性が「九重さんにどうかしら?」と、言葉を続ける。

「はい?」

 どうかしらとは、なにをどうしろということなのだろう。
 言葉の意味がわからず香苗が目を丸くしていると、女性が言う。

「祖母の私が言うのも変だけど、優しくてすごく良い子なの。仕事もね……」

 そのまま女性が都銀の名前を口にするのを聞いて、香苗は『どうかしら?』の意味を理解した。

「すみません。患者様のご家族と個人的に親しくするのは禁じられていますので」

 手をバタバタさせて言葉を遮る香苗の姿に、女性は残念そうに肩を落とす。

「でも、本当に良い子なのよ、九重さんも美人で優しい女性だし、ウチの孫とお似合いだと思うのよ」
「すみません。それに私は、結婚はせずに、仕事に人生を捧げるつもりなんです」

 香苗のその言葉に、女性は「ウチの孫、女性が働くことに協力的だと思うわよ」と言うが、そういうことではないのだ。
 香苗は、もう一生分の恋をしたし、その相手以外の誰かと結婚したいとは思えないだけなのだ。
 香苗の実家は地域医療の要とも言える総合病院を営んでいるので、両親はひとり娘である香苗には、できれば優秀な医師を婿に迎えてほしいと考えているようなので申し訳ないのだけど、別れて十年以上の時間が過ぎた今も“彼”を想う気持ちが色褪せることはないのだから仕方ない。
 別れを告げたのは自分の方だというのに、今も、そしてこの先も“彼”を想う気持ちが消えることはないのだ。
 母子家庭で育った“彼”では娘の恋人には相応しくないと、香苗の父がふたりの交際に反対しても、“彼”は、自分は医大に進むつもりだから大丈夫だと言ってくれていた。
 それでも香苗が別れを告げたのは、彼を想ってのことだ。

(どうか拓也君が幸せでありますように)

 別れてから何度となく繰り返す祈りを胸に、香苗は仕事を続けた。
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