冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
「よっしゃ!」

 ふじき総合病院の救急外来で自分のスマホ片手に、拓也は小さくガッツポーズを決める。
 香苗と連絡先を交換してからこれまで、何度か彼女を食事に誘ってみたが断られ続けていた。
 だが拓也としては、何度断られたところで諦めるつもりはない。OKをもられるまで、あれこれ口実を見付けて香苗を誘うまでだ。
 そして今回、前に香苗が受講を逃したJPTECプロバイダー講座に空きを見付けて、声をかけてみた。
 そしてそれをとっかかりに食事に誘ってみたところ、やっと承諾してもらえた。

「矢崎先生がはしゃぐなんてめずらしいな」

 先輩医師の金沢芳輝(かなざわ よしき)がこちらを見ている。
 普段クールと言われることが多い拓也のガッツポーズが珍しかったのだろう。金沢の声に、それを面白がっている響きがある。

「地元の知り合いに頼まれごとをしただけです」

 自然とニヤける口元を拳で隠して、香苗からのメッセージに返信を送る。

「頼まれごとをされて喜ぶなら……」

 そう言いながら金沢が差し出してくるのは、研修医の佐々木智則(ささき とものり)がまとめたレポートだ。

「彼の研修担当は、金沢先生です。それにまだ俺は、指導医の講習を受けてません」

 研修医の指導は、医師なら誰でもできるというわけではない。
 医師とは時に人の命をあずかる職業だ。そのため新人医師の指導をする者には、それに値するだけの知識と経験が必要になる。
 そのため指導医になるには、臨床経験が七年以上であること共に、厚生労働省が定める指導医講習会を受講する必要がある。
 二十九歳の拓也は、医師としてはまだまだ学ぶ側の人間だ。
 拓也の返事に金沢は肩をすくめて、レポートを自分が座っているデスクに戻した。

「佐々木君は、矢崎先生に懐いてるから押し付けようと思ったのに」
「それは、俺の方が、年が近くて話しやすいっていうだけです」

 救命救急の場で妙な気遣いを生じさせないためにと、金沢は普段から、役割や年齢に関係なく医療スタッフと気さくな雰囲気で接してくれている。
 それでも研修医の佐々木からすれば、もう五十に手が届く金沢は遙か頭上の存在で、話していると緊張してしまうらしい。
 それに比べれば、年齢の近い拓也は肩に力を入れることなく話せる存在らしく、金沢野手を煩わせるほどではないが確認しておきたいことは、拓也に訊くことが多い。

「だとしてもだ」

 金沢が言う。

「同じ医療の道を志すものとして、担当でなくてもできるだけの手助けをするのは当然です」

 拓也は自分の素直な考えを口にする。
 世の中にはゴッドハンドと呼ばれる名医もいて、その天才とも言える優れた技術で多くの命を救っている。
 ありがたいことに拓也自身、若手のホープと評価されている。
 だけどどれだけ優れた人間でも、ひとりの医師が救える命には限りがある。より多くの人の命を救いたいと思うのであれば、医療従事者全体の潜在能力を向上させていきたい。
 そう思うからこそ、忙しい合間を縫って、JPTECプロバイダー講習の指導などにも参加させてもらっている。

「真面目だな」

 金沢が言う。

「でもそうやって真面目に頑張っていると、神様がご褒美をくれることもあるようです」

 手にしたままのスマホに視線を落として言う。
 拓也としては香苗との再会は、神様からご褒美をもらったような気持ちでいる。

「それで、好きな子になにを頼まれたんだ?」
「え?」

 金沢の不意の言葉に、拓也は目をしばたかせた。
 その反応を面白がりながら金沢が言う。

「日々激務に追われている身で、仕事が増えて喜ぶのは、頼みごとをしてきた相手に好意を持っているからだろ」

 確かにその通りだ。
 救命救急の現場は激務だし、その合間に論文の作成などもあるので、正直かなり忙しい。
 それでも香苗のためなら、どんなことでもしてあげたいと思う。
 見返りなんて求めないから、やっと再会できた彼女との繋がりを失いたくない。
 彼女になら、ただの便利な存在として利用してもらってかまわないのだ。どんな関係でもいいから、この縁を途絶えさせないでほしいと願う。

「その調子じゃ、見山(みやま)教授の娘さんとの縁談は断わったんだな」
「いつの話しをしているんですか」

 先日、医局長を介して、大学病院で教鞭をとる教授の娘との見合いを持ちかけられた。
 先方のお嬢さんが、なにかの拍子に見かけた拓也に一目惚れしたのが始まりで、教授自身、拓也の人柄を気に入り是非にとのことだ。だが拓也は、その場でその縁談を断った。
 理由として『自分は心に決めた人がいる』と伝えたところ、医局長にはかなり疑わしげな顔をされた。
 拓也にはこれまで浮いた噂一つないので信じられなかったようだが、見る角度を変えれば、それほど一途にひとりの人を思い続けてきたということではないか。
 自分は長年香苗だけを愛しているのだから、他の女性との結婚なんてありえない。

「でも教授は諦めてないそうじゃないか。結婚したら、救命救急から循環器外科に移動して出世コースまっしぐらだぞ。それに他の教授からも見合い話が来ているそうじゃないか」

 何処で話を仕入れてくるのだか、金沢は、これまで拓也が断ってきた見合い相手の名前を列挙していく。
 その仲に、普通に告白をしてきた病棟看護師の名前も含まれているので、もしかして彼は秘密裏にスパイでも雇っているのではないかと疑いたくなる。

「俺は、自分の出世には興味がありませんから」

 拓也は面倒くさいと肩を上下させる。

「現場主義に走って、後で勿体ないことをしたと思って後悔しても知らんぞ」

 そんな忠告をする金沢も現場主義で、プライベートな酒の席では『権力闘争に参加して神経すり減らすくらいなら、現場主義でいたい』と話している。

「後悔なんてしませんよ」

 なんにせよお喋りはこのくらいにして仕事をしよう。拓也がパソコンを操作していると、金沢が思い出したように言う。

「もしかしてお前の好きな人って、前に病院に来たことのあるあの美人か?」

 その言葉に、拓也は肺の奥から空気を絞り出すような深いため息を吐く。

「前にも言いましたけど、彼女は母の再婚相手の娘さんです」
「義理の妹ってやつか?」
「俺は母の再婚相手の人の籍には入っていないので、厳密に言えば戸籍上の義理の妹にもなりません」

 つい突き放すような物言いになるのは、母の再婚相手の連れ子である石倉彩子のことが人間として好きになれないからだ。
 その辺のことを前に話したことがあったのだが、忘れているようだ。

「母の再婚相手は、一代で財を成したやり手の経営者だからなのか、他人の意見に耳をかたむけない人でした。俺の進路も一方的に『学費は出してやるから経済学部で知識をつけて、卒業後は会社を手伝え』と言って譲らなかったのです」

 当時のことを思い出すと、今でも不快な感情がこみ上げてくる。
 両親の離婚以降、女手一つで自分を育ててくれた母が幸せになれるのなら、結婚を反対するつもりはないが、拓也の人生にまで口出しされたくない。
 それなのに拓也の進路に散々口だしし、拓也がそれに従わないことで、両者の不仲は関係は決定的なものとなった。
 せめて医学部進学の反対理由が、医大は他学部に比べて経済的負担が大きいというようなことなら理解できる。拓也は最初から経済支援をしてもらおうとは思っていなかったのだから。
 だけど母の再婚相手である石倉宏(いしくら ひろし)が拓也の医学部進学に反対する理由は、“医者は労力と対価のコスパが悪い”というものだったのだ。

 『多くの時間と金をかけて国家資格を取っても、手術でミスをすれば訴えられるリスクもある』『他人のためにそんなリスクを負って働くぐらいなら、その労力を俺の会社を発展させることに使え』

 訳知り顔でそう命令してくる母の再婚相手の支援を受けてまで大学に進みたいとは思わないし、ましてや家族になりたいとは思えない。
 それで高校卒業後は地元を離れ、奨学金制度を利用して医師への道を進み今に至る。
 そんな経緯があるので、拓也にとって宏もその娘である彩子も、自分の家族だという認識はないのだが、彩子の方は一方的に拓也の妹を名乗り病院まで押しかけてきたことがある。
 それにどれだけ迷惑したことか。
 学生時代など、母親に預けていたアパートの鍵を勝手に使って、家に上がり込まれたこともある。
 断りもなく部屋に上がり込まれただけでも不愉快なのに、勝手に拓也の服を着て我が物顔で振る舞う彩子には呆れるしかない。
 しかも彼女がどうしても泊まると言って部屋を出ていかなかったので、拓也はその日はネットカフェで一夜を明かすは目にあったのだ。

「向こうはお前に気があるんじゃないのか?」

 拓也もそうなのだろうとは感じている。だけど……。

「惚れてもいない女に愛されても迷惑なだけです」

 拓也の言葉に、金沢が「わ〜ムカつく」と笑った時、外線が鳴った。
 救急搬送受け入れ可能かを確認するための外線電話の音に、和やかだった部屋に一気に緊張が走る。

「はい。ふじき総合病院、金沢」

 電話機に近い席にいた金沢が受話器を取り、ホワイトボードに視線を走らせてから受け入れ可能なことを告げる。

「……四十代男性の駅員。駅の階段でケンカを始めた利用客の仲裁に入り、突き飛ばされたはずみで階段転落。他の駅員が駆けつけてすぐは会話ができ、胸部の強い痛を訴え、その後、意識不明に……左腕骨折、骨突出。バイタルは……」

 左手で受話器を持ち、右手でペンを持ってホワイトボードに情報を書き込んでいく。

「高エネルギー外傷による昏睡か、頭部外傷か……」

 拓也は、書き出さられていく文字を目で追い、その流れで時刻を確かめた。
 大きなケガを負った際、受傷から止血や手術といった決定的治療を開始するまでの時間が一時間を超えるか否かが一つの生死の分岐点、いわゆるゴールデンタイムと言われる時間だ。
 その中でも最初の十分はプラチナタイムと呼ばれていて、重症患者の救命率を左右すると言われている。
 事故発生後、通報を受けた救急隊員が駆けつけるまでに、既にプラチナタイムは過ぎている。

「石原さん、CT検査の空き状況確認しておいて」

 拓也は、金沢にアイコンタクトを送りながら看護師に指示をする。
 和やかに雑談を楽しむ時もあるが、救急搬送の連絡が入ると、空気が一変する。
 不慮の事故や体調変化は、いつ起きるかわからない。こういった不測の事態に備えて自分たちがいるのだ。

(助けたい)

 拓也は胸の中で呟いて気を引き締める。
 こういった事故の際、自分たちが接するのは患者ひとりだが、それによって救えるのは患者本人の命だけではない。
 被害者家族の暮らしや感情、加害者のその後の人生も救うことになる。

(香苗)

 一瞬、脳裏に事故の日の幼さが残る香苗の顔が過る。
 もしあの時拓也が命を失うようなことがあれば、彼女はどれほど苦しんだだろう。
 そう思う度、自分を救ってくれた医療に心から感謝する。
 その思いを胸に、拓也は気持ちが引き締まるのだった。
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