冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
 五月の末、JPTECプロバイダーの受講を終えた香苗は、そのまま拓也と待ち合わせをしているブックカフェへと急いだ。
 拓也には本を読んで過ごしているので慌てなくていいと言われているけど、彼と待ち合わせをしていると思うとはやる気持ちを抑えられない。

(こういうの、昔を思い出すな)

 高校時代、拓也は香苗の授業が終わるのを、図書室で読書しながら待っていてくれた。
 その頃も、拓也は急いでくる必要はないと言ってくれていたけど、一秒でも早く彼に会いたくて、香苗は図書室に急いだのだった。
 昔を懐かしく思いつつ道を歩いていた香苗は、ショーウィンドの前で足を止めて自分の姿を確認する。
 講座では体を動かすことも多ので、それに適した服装で参加しなくてはいけな。
 待ち合わせの前に着替えてもよかったのだけど、そんなことをすれば拓也に、香苗が彼との食事を心待ちにしていたことがバレてしまう。
 それであれこれ悩んだ結果、ストレッチ素材の黒のパンツに、長袖のサマーニットを合わせてみた。
 それだけでは寂しいので、アクセントに華美にならない程度のアクセサリーを合わせてある。
 普段はヘアクリップで適当に纏めているだけの髪も、ウエーブをつけて、片方の肩からまとめて流し、メイクもナチュラルを意識しつつ頑張ったつもりだ。
 香苗としては、カジュアルを意識しながら最大限可愛くできたと思う。
 数日間悩み抜いて選んだコーディネートだし、出掛けるまえにも何度も確認したから大丈夫。
 そう思っていても、いざ待ち合わせ場所が近づくと落ち着かない。
 ショーウィンドに映る自分の姿を確認していた香苗は、「あれ?」と、声を漏らして振り向いた。
 視線を向けると、途切れることなく歩行者が行き交っている。
 ショーウィンドウ越しに背後を確認した時には、自分と同じように足を止め、こちらを見ている男性がいるように見えたのだけど気のせいだったようだ。

「まあいいや」

 気持ちを切り替え、香苗は拓也と待ち合わせをしている店へと急いだ。
 そして待ち合わせの店を訪れてみると、店に入る前から窓辺の席で本を読む拓也の姿を見付けることができた。
 グーの形にした指の関節で“コンコン”とガラスをノックすると、拓也が顔を上げた。
 先日見かけた時はシックなデザインのスーツを着ていたけど、今日の彼はTシャツに着心地の良さそうな麻のシャツを羽織っている。
 前のボタンを留めず袖を軽く折っている姿は、かなりカジュアルだ。
 髪も自然な流れに任せていて、スーツ姿の時よりずっと若々しく見える。
 それでいて離れていた月日が、彼を、とびっきり魅力的な大人の男性に成長させたのだと実感させる。
 一瞬音に驚いた表情を見せた彼だけど、窓の外にいる香苗と目が合うと、表情を綻ばせて蕩けるような微笑みを浮かべた。
 そんな拓也の姿に、香苗の心臓が大きく跳ねる。
 付き合っていた頃とは違う大人の色気を感じさせる彼の表情に、気恥ずかしいものを感じながら店に入ると、拓也が読んでいた本を閉じた。
 どうやら海外物のミステリー小説を読んでいたらしい。

「どうかした?」

 香苗が飲み物を注文するのを待って、拓也が言う。
 テーブルの傍らに置かれた本を見て、香苗が微笑んだことに気付いていたようだ。

「相変わらずミステリー小説が好きなんだなって思って」

 学生時代も、拓也はミステリー小説をよく読んでいた。

「俺は一途だから、好きなものは簡単に変わったりしないよ」

 どこか意味深なものを感じさせる声に視線を向けると、自分をまっすぐに見つめる拓也と目が合った。
 その姿に、彼は今でも自分のことを好きでいてくれるのではないかと錯覚しそうになるけど、そんなことありえないのだ。

(だって拓也君には、大学時代に彼女がいたんだよね)

 依田の話によれば、その女性は、拓也の服を着て彼の部屋に泊まっていたのだという。
 高校時代の自分たちの交際はいたって健全なものだったし、拓也以外の男性と付き合ったことのない香苗にはそういった経験はない。
 それでも大人の女性として、依田の話を聞けばその女性と拓也がどんな関係だったのかはわかる。
 彼の性格をよく知る香苗としては、拓也が軽い気持ちで女性とそういった関係にならないとわかるのでせつない。
 注文したアイスティーを運ばれてきたのを合図に、香苗は話題を変える。

「そういえば、た……矢崎先生が医師になっていたことに驚きました」
「俺の進路、知らなかったんだ」
「ごめんなさい」

 拓也がなんともいえない顔をするが、別れた後の香苗は、彼への未練を断ち切るために必死で、あえて拓也に関する情報を遮断していたのだ。
 結果、同じ学校に通っていても学年の違う彼のその後は知ることはなかった。

「いや。謝ることじゃないだろう」

 こともなげに返して、拓也が言う。

「さっきも言ったけど、俺は一途な性格をしている。一度決めたことを、そう簡単に変えたりしない」
「そうだね」

 それは、なんとも拓也らしい意見だ。
 でもじゃああの日、拓也の母親から聞かされた話はなんだったのだろうかと疑問が湧くが、今更だ。
 今の拓也には、他に一途に想う人がいるのだ。今さら過去を振り返ったところで取り戻せるものはなにもない。

「九重さんこそ、どうして神奈川に? 看護師になるとしても、九重総合医療センターで働くと思っていたよ」

 拓也が言う。

「最初の二年だけは、そうしていたんですけど、私がいると、どうしても周囲が気を遣っちゃうからよくないかなって……」

 香苗は軽く肩をすくめて、自身の父が院長を務める病院で働くことの煩わしさを話した。
 なるべく明るい口調で説明し、転職で一番大変だったのは、過保護な父の説得だったと話を締めくくった。

「九重さんのお父さんは、家族思いの人だから」

 少し懐かしそうに拓也が言う。
 九重総合医療センターの名前が重いとは思っているが、父親を嫌っているわけではない香苗としては、彼にそんなふうに言ってもらえるのはうれしい。
 そしてそのまま会話は、地元の思い出話へと流れていく。
 定期的に里帰りをしている香苗とは違い、拓也は、まったく地元にもどっていないらしく、学校近くにあった書店が閉店し、跡地になにが建ったとか、共通の知り合いが結婚したといった報告の一つ一つに心底驚いていた。
 拓也があまりに素直な反応を示してくれるものだから、自然と話が弾み、気が付けば香苗はかなりリラックスした気持ちで彼と話していた。

(なんだか、昔に戻ったみたいでうれしいな)

「そういえば、今日の講習はどうだった? 心配はしてないけど、試験は合格できた?」

 しばらく地元の話で盛り上がった後で、拓也はするりと話題を変える。
 JPTECプロバイダー講習は、救護が必要になる様々な場面を想定しながら、自身の身を守るために必要な知識に始まり、要救護者に対するアプローチ方法、緊急処置といった実技を学ぶ。
 そして実技で『可』以上の評価を受けた上で、筆記試験を受け、一定基準を満たしている者に資格を取ることができる。
 前回、拓也と再開した講座は二日に分けて行うタイプのものだったが、今回の講座は朝から夕方までかけて一日で終わるカリキュラムのものだった。

「はい。おかげさまで無事に合格しました」

 もともと香苗は、執行した資格を取り直しただけなので当然の合格と言えるのだけど、そこまで話す必要はないのでお礼だけを伝える。
 ペコリと頭を下げる香苗に、拓也が「じゃあ、お祝いをしないとな」と言う。

「そんな、大げさな」

 香苗は顔の前で手をヒラヒラさせた。
 でも拓也は、いたずらを楽しむ少年のような顔をして言う。

「もう店の予約をしてあるから、断られても困る」
「え?」

 いつの間に。と、目を丸くする香苗の心を読んだように拓也が言う。

「九重さんが落ちるとは思ってなかったから、会う約束をしてすぐに予約を入れておいた」

 拓也が予約したのは麻布にある高級焼き肉店で、個室を抑えてあるので服装も気にする必要はないとのことだ。

「でも……」
「正直に言うと、俺が肉を食いたいんだ。ひとりだとなかなか行く機会がないから、栄養補給に付き合ってくれると助かる」

 香苗は拓也を見た。軽く折り曲げたシャツの袖からは、男らしい筋肉で引き締まった腕がのぞいている。
 見せるためではなく、日々の暮らしの中で自然と備わった筋肉といった感じだ。
 医師は体力勝負の仕事なので、ぜひとも栄養をしっかり取って現状維持をしてもらいたい。

「わかりました」

 なんとなく彼のペースに載せられているような気がしなくもないけど、香苗にそれを断る理由はない。
 了承すると、拓也が表情をほころばせた。

「近くの駐車場に車を停めてあるから……」

 頃合い的にもちょうどいいと、腰を浮かせた拓也が不意に動きを止める。

「矢崎先生?」

 どうかしたのかと、香苗は拓也が見ている方へ視線を向けてみた。だけど街を往来する人並みが見えるだけで、それと言って目を引くようなものはない。

「なんでもない」

 拓也は軽く首を振り、席を離れた。
 そして店を出ると、拓也が当然のように、香苗の肩に腕をまわして歩き出す。

「え、あのっ」

 思いがけない彼の行動に驚いて、香苗は彼の腕の中でもがいた。

「いいから、このままでいて」

 拓也は香苗の肩にまわす腕に力を込めて言う。
 その声の響きにただならぬものを感じて香苗は抵抗をやめると、拓也が耳元に顔を寄せて「それと、今は俺のことを名前で呼んで」と、囁く。
 彼がなにを考えているのかはわからないけど、とりあえずは指示に従った方がよさそうだ。
 とはいえ、大人になった彼を“拓也君”と呼ぶのはなにか違う。

「じゃあ……拓也……さん」

 気恥ずかしさを感じつつそう呼ぶと、拓也はうれしそうに微笑む。

「香苗」

 湧き上がる愛情を溶かし込んだような甘い声で名前を呼ばれて、顔どころか耳まで熱くなるのを感じながら、香苗は彼に肩を抱かれて日が傾いていく街を歩いた。
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