冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む

5・今日から俺が君の婚約者

「遠鐘病院で俺に会った時、香苗にからんでいた患者さんは、その後どうしている?」

 焼き肉店の個室で向き合って座る拓也は、注文を終えると香苗に訊く。

「え、水守さん?」

 思わず名前を口にした後で、不用意に患者の個人情報を口にしてしまったことに慌てたが、拓也なら大丈夫だろうと思い直してそのまま答える。

「もう退院しています。その後の通院は、自宅に近い病院への紹介状をドクターが書いていたから、そっちに通っていると思う」

 もともと水守は都内在住で、事故を起こした際に、近場に受け入れ可能な病院がなく、隣県の遠鐘病院で受け入れをし、そのまま入院となった。
 だが退院後の通院は、生活圏内の方が便利なのでそうしているはず。
 もし彼が遠鐘病院の外来に通院していたとしても、病棟勤務の香苗には、水守のその後の情報は入ってこないので知りようがない。
 香苗がそう話すと、拓也は拳を唇に押し当て難しい顔をする。

「水守さんがどうかしたましたか?」

 どうして彼がそこまで水守を気にするのかわからない。
 不思議そうな顔をする香苗に、拓也が「怖がらせるつもりはないのだけど」と前置きして話す。

「さっき店で、その水守さんが、俺たちのことを見ていたと思う」
「まさかっ!」

 そう驚いたものの、香苗にも思い出すものがある。
 さっき拓也との待ち合わせ場所に向かう途中、ショーウィンド越しに自分を見ている人がいるような気がしたのだ。
 あの時は気のせいと思って深く考えずにいたけど、思い返してみると、あれは水守ではないだろうかという気がしてくる。

「なにか思い当たることがあるの?」

 香苗の表情が陰ったのを見て拓也が訊く。
 ただの思い過ごしだろうけど、ここで黙り込んでも、拓也が気にすると思い、香苗はさっきの出来事を話した。

「……でも水守さんは都内在住だから、偶然私を見かけて、声をかけるか悩んでいただけなのかも」

 香苗がそう付け足しても、拓也は納得していない。
 難しい表情のまま首を横に振る。

「香苗は、あの男に強引に迫られていたのを忘れたのか?」

 さっきの会話をきっかけに、気が付けば拓也はまた香苗を名前で呼ぶようになっている。
 今のふたりの関係を考えると奇妙な気もするのだけど、香苗としても名前で呼ばれる方が慣れているので、なんとなくそのままになってしまっている。
 それは拓也も同じなようで、店に入ったタイミングで呼び方を“矢崎先生”に戻そうとしたら、『その呼び方は落ち着かない』『自分の病院の看護師じゃないんだから』と理由を付けて、名前で呼ぶよう主張された。

「あれは、一時の気の迷いみたいなものだったんだと思います。その後は、しつこく迫られるようなことはなかったし」

 入院中の患者やその家族が、親身になってくれた医療関係者に対して感謝の思いを恋愛感情と錯覚してしまうことは時々ある。
 でもそれは一時の錯覚で、退院して日常生活に戻れば、本人もそのことに気付く。
 途中、頼んだ肉が運ばれてきて、会話を中断させつつ香苗はそう説明したが、拓也が納得する気配はない。

「香苗、自分がすごく魅力的なこと、理解できてないだろ」

 トングで肉を並べながら拓也が言う。
 その口調は、心底呆れているといった感じだ。

「アイツがあれ以降、香苗に迫ってこなかったのは、そういったタイミングを与えないよう依田や看護師長が注意を払ってくれたおかげだ」

 言われてみれば確かにそうだったかもしれない。そう納得する反面、新たな疑問が湧く。

「どうして拓也さんがそのことを知っているんですか?」
「俺が頼んだから」
「え?」

 驚く香苗に、拓也はこともなげに返す。

「エレベーター前でのこと、俺が依田に話して、アイツが看護師長に配慮するよう頼んでくれた」

 思いがけない話しに香苗が目を丸くする隙に、拓也は焼けた肉を香苗の皿に置く。
 そして「食べて」と、声を掛ける。
 すごくどうでもいいことだけど、自分の方が美味しく肉を焼く自信があると話す拓也に任せたことで、初めてタン塩の正しい焼き方を理解した。
 今まで香苗が焼く時は、肉をひっくり返す際に、タンの上に載せられている刻みネギを網の上に全部落としてしまっていた。だけど拓也は、餃子の皮に具を包み込む要領でタンを二つに折って、ネギをその間に挟んで焼いていた。
 今までずっと、どうしてタン塩のネギを焼く前に載せてしまうのだと不満にかんじていたのだけど、どうやら香苗のやり方が間違っていたらしい。

「どうして拓也さんがそんなことを……?」

 驚く香苗が訊く。

「香苗が、自分の口から報告しないと思ったから」

 そう答え、拓也は次の肉を網に置く。
 肉から落ちた油に火が引火して、一瞬大きく火の粉が舞う。

「だって、あまり大事にすると、水守さんが迷惑するかもしれないし」

 あの時の水守は、退院間近だった。
 だから香苗が隙を見せないよう気をつけて、彼のアプローチをやり過ごせば問題ないと考えていたのだ。

「どうして真面目に働いてる香苗が、そんなふうに相手に気を遣うんだ?」
「だって、水守さんは治療を必要としているから」

 それは、水守に対してだけの特別な感情というわけではない。
 患者は医療が必要だから、入院しているのだ。それなのに香苗が過剰反応することで、居心地が悪くなっては気の毒である。
 そう話す香苗の言葉に、拓也が「人がよすぎる」と。ため息をはく。

「とにかく、私がそうしたかったから、黙っていたの」

 香苗がそう抗議すると、拓也が言う。

「俺の一緒だよ。香苗のために俺がそうしたかったから依田に事情を話して後の判断を任せた」
「どうして拓也さんがそんなこと……」

 あの状況に場所に出くわして、心配してくれたにしても、彼は遠鐘病院の職員ではないのに。

「もしかして香苗は、彼と付き合いたかった?」

 微妙に会話の矛先を変える拓也に、香苗はとんでもないと首を横に振る。

「まさか」

 もし水守を好きか嫌いかと聞かれても、香苗には『どちらでもない』としか答えられない。
 それは、彼を患者としてしか見ていなかったというのもあるけど、それ以上に、香苗にとって恋愛感情と呼べる者を抱く相手は拓也ひとりだけだからだ。

「じゃあ、俺のしたことは間違っていなかった」

 ひとり納得する拓也は、表情を引き締めて訊く。

「今日以外に、彼の姿を見かけることはなかった? もしくは、身の回りでなにか変わったことはない」

 その言葉に香苗が思わず口元を抑えると、拓也が「話して」と、先を促す。
 その口調は決して命令口調ではないのだけど、香苗のみを真剣に案じてくれていることが伝わってくる。
 だから香苗は、今思い出したことを正直に話した。

「最近、郵便受けのダイヤルが動いていることが何度かありました」

 香苗の住んでいるマンションの郵便受けは、ダイヤルロックを三回決められた順に動かすことで開く。
 香苗は必ずダイヤルを“0”のところにしておくのだけど、最近、度々そのダイヤルの位置が違う数字で止まっているのだ。
 郵便物が漁られた形跡もないので、子供のいたずら程度に考えて、気にもとめていなったのだけど。

「あと最近変わったことと言えば、管理会社から、ゴミ出しのルールが守れていない人がいるって注意活気のはり紙があったくらいかな」

 それはつい最近のことで、それ以前からきちんとルールを守っていた香苗は他人事として受け止めていた。
 香苗の話しに、拓也の手からトングが落ちた。

「拓也さんっ!」

 香苗は驚いて落ちたトングを拾う。

「なんでそういうこと俺に相談しないんだよ」
「俺に相談って……どうして私が、そんなこと拓也さんに相談するの?」

 そんなどうでもいいこと、今の彼に話すわけがない。
 香苗としては自分の意見は間違っていないと思うのだけど、何故だか拓也は、酷く不満げな顔うする。

「じゃあせめて、依田に相談しろよ」

 香苗の手からトングを取り上げる拓也が言う。

「なんでそうなるの」
「香苗の郵便物やゴミが漁られた可能性があるからだろ」

 真剣な顔で話す拓也の言葉に、香苗は「まさか」と目を丸くする。
 郵便受けは子供のイタズラだろうし、ゴミ出しに関しても、これまでも新しく越してきた住人が勘違いしていた際にそういった警告文の張り出しがあった。
 そう説明するのだけど、拓也は納得しない。

「香苗だって、あの入院患者に、ただならぬ雰囲気を感じていたんじゃないのか?」

 その言葉に、あの日、自分の望んだ言葉以外聞く耳を持たないと言いたげな水守の態度に、本能的な危機感を覚えたのは事実だ。
 黙る香苗を見て、拓也はそういうことだと頷く。

「でも私の思い違いかもしれないし」
「そうだな。その可能性は大いにある」
「じゃあやっぱり、あまり気にしなくても……」

 拓也は手の動きで、香苗の発言を止めて言う。

「気のせいだとしても、警戒して、対策するにこしたことはない」
「でも証拠もないのに水守さんを疑うなんて」

 難しい顔をする香苗に、拓也が肩をすくめる。

「これが俺の思い過ごしなら、相手は自分が疑われていることさえ知らずに終わるから問題ない」
「確かにそうだけど」

 だからといって、そんな簡単に人を疑って良いのだろうか。
 悩む香苗に、拓也が言う。

「これは俺のワガママだ。だけどどうか頼むから、俺に君を守る権利を与えてくれないか?」

 その声の切実さに、香苗は反論の言葉を飲み込む。

「心配してくれてありがとう。でもそんなの、拓也さんの恋人にも悪いし……」
「そんなもの俺にはいない」
「え、だって……」

 依田から聞いた話が脳裏をよぎるが、拓也は薄く笑って言う。

「昔、心から愛した女性にフラれて以降、俺に恋人はいない」

 それはつまり、依田が話していた女性のことだろう。

(そうか。拓也さん、大学生時代の恋人とは別れちゃったんだ……)

 医学部生は実習なども多くあり、かなり忙しい。そのために、学生時代の恋人と上手くいかなくなったという話しはよく聞く。
 拓也もそういった理由で恋人にフラれてしまったのかもしれない。
 自分ならそんなことしないのに。香苗がそんなことを考えていると、再び肉を焼き始めた拓也が言う。

「警戒しなくても、今さら君を口説いたりしないよ」

 そんなふうに言われると、香苗が酷く自意識過剰な反応をしているように思えて恥ずかしくなる。

「そんなふうに思ってないから」

 気恥ずかしさをごまかすために、香苗は皿に放置されていた肉を食べようとした。でもそれより速く拓也が箸を伸ばしてそれを取り、自分の口の中に放り込む。
 代わりに、香苗の皿に焼いたばかりの肉を置く。

「じゃあ決まりだ。俺が君を守る」

 揺るぎない決意を感じさせる彼の言葉に、香苗は躊躇いつつも了承した。

「えっと……それで、どんな対策をするつもりですか?」

 香苗の質問に、彼は待っていましたと言いたげに口角を上げる。

「とりあえずは前回同様、彼には香苗に俺という婚約者がいて、他の男に割り込む隙などないということをアピールしようと思う。相手を騙すためには、香苗の協力が重要だ」
「わかった」

 もちろん、自分ができることはなんでもする。
 香苗が頷くと、拓也はどこか企みを感じさせる笑みを浮かべて言う。

「じゃあ香苗には、俺とうんと仲良くしてもらおう」
「え?」

 肉を取ろうと伸ばした箸を中途な高さにしたまま、瞬きをくり返す。
 そんな香苗の姿を見て、拓也が優しく目を細める。

「前回あの男は、俺が香苗の婚約者を名乗ったらひるんだ。それでもあの時の俺たちの態度がどこかぎこちなかったから、遠巻きに香苗の様子を窺っていたんじゃないかと思う」

 確かにあの時の水守の態度は、半信半疑といった感じだった。

「それでさっき、拓也さんは私の肩を抱いて歩いたのね」

 名前で呼ぶように指示したのも、そういう意味だったんだ。
 今ごろになって、彼の行動の意図を理解する。

「ああ。もし彼が香苗の後をつけていたのなら、待ち合わせしていた俺と仲良く歩く姿を見せておきたかった」

 なるほど。

「じゃあカフェでのお喋りも盛り上がっていたし、もう納得してくれたよね」

 香苗の意見に拓也は、どうだろうかと首をかしげる。

「もし本当に彼が香苗の周辺を調べていたなら、一度デートする姿を見せたくらいじゃ納得しないだろ。逆に、自分に見せつけるために、一日だけ俺に恋人役を頼んだと考えかねない」
「確かに……」

 かなり不快な想像だけど、もし水守が香苗のゴミや郵便物を調べていたのなら、ひとり暮らしの香苗に男性の影がないことは容易に察しがつく。
 そしてそこまでする人が、さっき拓也に肩を抱かれて歩く姿を見たくらいで納得してくれるとは思えない。

「さっきも言ったが、今さら本気で口説いたりしないから安心しろ」

 黙り込む香苗に拓也が言う。

「そんなこと……思うはずないわ」

 香苗が別れ話を切り出した時、あっさり別れを受け入れた拓也の姿に、彼にとって自分がどの程度の存在なのかは思い知らされれているのだ。
 香苗の言葉に拓也が頷く。

「ではよろしく。そうと決まれば、食事が終わったら香苗の部屋に行って引っ越しの準備をしよう」
「はい?」

 話が大きく飛んだ。
 どうして自分が引っ越ししなくちゃいけないのかがわからない。

「水守さんのことが心配でも、仕事もあるから、実家に帰ったりできないわよ」

 安全のためにはそうした方がいいのかもしれないけど、香苗の性格上、任されている仕事を投げ出すことなんてできない。
 香苗の言葉に、拓也はわかっていると言う。

「心配しなくても、引っ越し先は俺のマンションだ。場所は都内だが、遠鐘病院まで乗り換えなしで通える。日勤の時は電車を使って、夜勤の時は、俺が金を出すからタクシーを使ってくれ。時間の融通が利くときは、なるべく俺が送り迎えをする」
「はい?」

 目を丸くして素っ頓狂な声を出す香苗を無視して拓也は言う。

「今住んでいるマンションは通勤の利便性だけで選んだんだが、部屋数が多く使っていない部屋があるから、香苗はその部屋を使えばいい。俺は基本的に寝に帰るだけだし、他人の生活音で目を覚ますようなよことはないから、香苗は自分のペースで生活してもらってかまわない」
「それって、私が拓也さんのマンショで暮らすってこと?」

 香苗は、目を白黒させながら確認する。
 拓也は鷹揚に「そうだ」と返して続ける。

「俺と同棲を始めたと知れば、あの男も、俺たちの関係を信じるだろ。それに住んでいる場所がバレているなら、しばらく帰らない方がいいだろ」

 確かに、この状況で、今の場所で生活を続けることにはためらいを覚える。

「だからって、拓也さんのマンションで暮らすなんて……」

 悲鳴に近い声をあげるていると、拓也が真面目な顔で言う。

「逆恨みしたストーカーに危害を加えられる。そんな痛ましい事件が、毎年何件起きていると思っている?」

 眉間に刻まれる皺で、これまでに拓也はそういう場面に遭遇したことがあるのだとわかる。
 だからこそ拓也は、今は恋人でもない香苗のことを、ここまでに気に掛けてくれるのだ。
 とはいえ、自分はそこまで彼に甘えてしまってもいいのだろうか……。

「そこまでしてもらうお礼に、私が拓也さんにできることはなにかない?」

 拓也の思いを無下にすることは出来ないけど、自分ばかり迷惑をかけるわけにはいかない。
 お礼に、こちらからなにか返せるものはないかと訊ねる香苗に、拓也は涼しい顔でとんでもないことを言う。

「じゃあついでに、俺と結婚してくれ」
「はい⁉ ……冗談……ですよね?」

 素っ頓狂な声上げる香苗の顔を、拓也は無言で見つめた。
 強い覚悟を感じさせるその表情を見れば、彼が冗談を言っているわけじゃないことがわかる。

(拓也さん、本気なの? でもなんのために?)

 香苗がわけがわからず混乱していると、拓也が表情を和らげる。

「香苗とは理由が異なるが、俺もパートナーがいると助かる事情を抱えている」
「え? どんな理由ですか」

 キョトンとする香苗の皿に新たに焼けた肉を置き、「食べて」と、声を掛けてから拓也が言う。

「最近、縁談を持ちかけられることが増えて困っている。他人には良縁に見えるらしいが、結婚に興味がない俺としては迷惑なだけだ」
「縁談……」

 その言葉に、胃の底がジリジリと焦げるような感覚を覚えた。
 彼がモテないなんて思ってなかったけど、それでも改めてその言葉を本人の口から聞かされると胸が苦しくなる。

「お世話になった教授の紹介だと、断るのにも気を遣うし、断ったところで次の縁談がくるだけだ。だからいっそのこと、香苗と結婚するのも悪くないと思ってな。もちろん、無理して俺を愛する必要もない」

 なるほど。
 九重総合医療センターの一人娘である香苗のもとにも、縁談話がよく持ち込まれる。
 優秀な医師を香苗の婿に……と願う父の思いがわからないわけじゃないのだけど、誰かと結婚するつもりのない香苗は、その都度断っている。
 香苗の場合、縁談を持ってくるのが自分の父親なので断ることに遠慮はないが、拓也の立場ではそうもいかないのだろう。

「拓也さんは、そんな理由で私と結婚していいんですか?」

 香苗の言葉に、拓也は軽く肩を揺らす。

「構わない」

 拓也が力強く断言する。
 それはきっと、大学時代の彼女と結婚できないのであれば、他の誰と結婚しても同じと考えてのことなのだろう。
 昔彼をフッた香苗なら、今更好意を寄せられて面倒な思いをする心配もないと考えているのかもしれない。
 その証拠に彼は香苗に『本気で口説いたりしない』『俺を愛する必要もない』と言っている。
 彼が香苗に求めているのは、いわゆる契約結婚というヤツだ。

「私と結婚すると、それはそれで面倒なことになりますよ」

 なにせ香苗と結婚すると、もれなく九重総合医療センターの跡取り問題がついてくるのだ。
 ことさら明るい口調で話すことで、沈み込みそうになる感情をどうにか浮上させる。
 香苗としては、それでこの話を終わりにしたつもりだったのだけど、拓也は「問題ない」と、笑う。

「え?」
「俺が九重総合医療センターの娘さんとの縁談を受けたと言えば、断られた他の相手も納得してくれる」

 なるほど。そういう考えもあって、香苗に契約結婚を提案しているのだ。

「香苗の方こそ、他に結婚したい相手がいるのか?」

 その言葉に、「まさか」と大きく首を横に振る。
 私は、誰とも結婚する気なんてない――そう言いかけて、言葉を呑み込んだ。
 よく考えたら、香苗は結婚したくないわけじゃない。ただ拓也以外の誰かと一緒になりたいと思えなかったから、全ての縁談を断り続けていただけだ。
 その考えにたどり着くと、香苗の覚悟が決まる。

「わかりました。私を拓也さんの奥さんにしてください」

 九重総合医療センター院長の娘という肩書きが、彼の役に立つのならぜひとも利用してほしいくらいだ。
 香苗の言葉に、拓也が「え?」と、目を丸くする。
 もしかしたら彼としては、軽い冗談のつもりだったのだろうか……。

「私も、父が持ってくる縁談に困っていたんです。それだけじゃなくて、病院スタッフの中にも、父との繋がりがほしくて私に言い寄る人もいて。だからいっそのこと、医師である拓也さんと結婚するって言えば、周りも納得してくれるかなって」

 恥ずかしさをごまかすために、あたふたと付け足す。
 言い訳じみた香苗の言葉に、拓也が優しく笑う。

「なるほど。ストーカー対策のついでに、虫除けに俺を利用したいということか」
「そ、そういうわけじゃ……」

 慌てて否定しようとする香苗に、拓也が「それでいい」と頷く。

「お互いに利用価値がある方が、気を遣わなくて済む」

 そう話す拓也の瞳に、これまで見たことのない種類の熱を感じたように思えたのは気のせいなんだろうか。
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