冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
 食事会翌週の水曜日、日勤だった香苗は、軽い足取りで拓也と暮らすマンションへの家路を歩いていた。
 拓也の覚悟を聞いた哲司は、水守の件もあったためか、ストーカー対策で彼のマンションに身を寄せているのであれば、そのまま一緒に暮らし、ふたりのタイミングで婚姻届を出せばいいと言ってくれた。
 そのためこれまで香苗が住んでいたマンションは正式に解約することとなり、今日の休みを利用して、香苗に代わって拓也が退去に必要な諸々の手続きや立ち会いをしてくれている。
 それは拓也が水守を警戒しての判断だが、警察や拓也の働きかけが功を奏しているのか、その後彼は香苗の前に姿を見せていない。
 そうやってふたりでの生活を整えていき、近く婚姻届を出そうと拓也は言ってくれている。
 拓也の家族に関しては、彼が自分の母親にメールで、香苗と結婚することとそれにより苗字が代わることは伝えたが返事はなかったそうだ。
 拓也の話しによると、大学進学に伴い家を出て以降、母親とはそんな距離感が常態化しているのだという。幼い頃に離婚した父親の方に至っては、連絡先も知らないそうだ。
 拓也としては、それを気にしているふうもなく、報告も済ませたから速く婚姻届を出そうと言ってくれている。
 香苗だって本音では速く彼と夫婦になりたいのだ。
 彼の母親がそれでいいというのであれば、近く、婚姻届を出すつもりでいる。

(やっと拓也さんと夫婦になれる)

 その喜びを噛みしめながら歩いていた香苗は、マンションの前に人が立っていることに気付いた。
 腰まで伸びた長い髪は綺麗なウエーブを描き、タイトスカートにドレープをたっぷり取ったデザインのブラウスは華やかなで、スラリとした体によく似合っている。

(何処かのお宅のお客様かな?)

 セキュリティの関係で、住人に解錠してもらわないと、来訪者はエントランスに入ることもできない。
 営業屋商談といった雰囲気ではないので、友人宅を訊ねてきたのだろうか。
 なんにせよ自分には関係がない。軽く会釈をして女性の前を素通りしようとして香苗は、妙に引っかかるものがあって足を止めた。
 女性は、服装だけでなくメイクも完璧と言っていい華やかな雰囲気に満ちている。
 年齢は自分とたいして変わらないと思うが、香苗の友達ではない。
 それでいて、彼女の顔には見覚えがある。

(誰だっけ?)

 記憶を漁る香苗が、女性が気の強そうなりつり目をしていることに気付いたのと同じタイミングで相手が口を開く。

「あなた、九重香苗?」

 ひどく尖ったその声を聞いて、香苗は目の前の女性が誰であるかを理解した。

「石倉彩子さん?」

 前回彼女に会った時はお互い高校生だった。大人になり、かなり雰囲気が変わっていたのですぐには気付けなかったが、彼女は拓也の義理の妹である彩子だ。
 香苗に名前を呼ばれ、彩子は心底嫌そうな顔をする。

「おばさんに拓也が結婚するって聞いたけど、その相手って、まさかあなたなの?」

 どうやら彩子は、拓也の母から、拓也が結婚することだけを聞かされていて、その相手が香苗だとは知らなかったようだ。
 拓也は家族との交流が途絶えていると言っていたし、学生時代の一件があるので、彩子にあまりいい印象を抱いてはいない。
 それでも一応は彼の身内である彩子に挨拶をしておきたい。

「はい。拓也さんと結婚させていただきます」

 香苗が頭を下げると、彩子がヒステリックな声をあげる。

「彼の家族として、そんなの許さないから」
「そんな……」

 あまりに一方的な物言いにすぐには言葉が出てこない。
 彩子が香苗を睨む。

「あなた、一度は自分から拓也と別れたんでしょ。今更なんなのよっ!」

 感情を露わにする彩子の形相に、彼女に“疫病神”と罵られたことを思い出すが、それは遠い過去の話だ。
 高校生の香苗にとって、二歳年上の彩子は強大な存在に思え、彼女に言い返すこともできずに縮こまっていた。
 だけど看護師として懸命に働く中で、香苗は成長したのだ。理不尽な彼女の物言いに屈するつもりはない。

「彼が医師になったからよりを戻したの? 計算高い女っ!」
「違います。私も拓也さんも、お互いに相手を想いながら自分の信じる道を進んだ結果、再会を果たし、この先の人生を一緒に歩むことを決めただけです」

 彼の職業がなんであるかなんて関係ない。
 ただ一途に彼のことを愛し続けて、その結果、再会を果たした彼と永遠の愛を誓っただけなのだ。
 毅然とした香苗の態度に、彩子が目を剥く。

「なんて生意気なのっ! そもそもあなたの影響がなければ、拓也は、医師なんてコスパが悪い仕事を選ばなかったのに」
「医師は尊い職業です」

 吐き捨てるような彩子の言葉に、香苗がすかさず反論する。
 医療に従事する者として、医師と言う職業を軽んじる発言を見すごすことはできない。

「拓也さんが、ひとりでも多くの命を救うためにどれだけ必死なのか、彼の家族を名乗のるのなら、それを考えてあげてください」
「私に意見しないで」

 歯軋りする彩子が、香苗に右手を振り上げた。だけどその手を振り下ろすより前に先に、大きな手が彼女の手首を掴んだ。
 ちょうど帰ってきた拓也が、彩子の手を掴み彼女を睨んでいる。

「どうして君がここにいる? ここの住所を教えないよう、母にも言ってあるはずだ」

 掴んでいた手を離す拓也が、彼女を睨む。
 その声も眼差しも冷ややかなもので、義理とはいえ家族に向けられる親しみはない。

「拓也さんっ!」

 香苗の声に、拓也は一気に表情を和ませ香苗の側へと回る。

「ただいま香苗」

 さっきまでの冷たい表情がなんだったのかと思う程の甘い笑みを浮かべて、香苗が手にしていた荷物を取り上げた。

「退去の手続きは済ませてきた。今日の夕飯はなに?」
 他の存在など目に入らないといった感じで、拓也が優しく香苗に話し掛ける。その姿に、彩子が金切り声を上げた。
「そんな女と結婚しても、家族は誰も祝福しないわよっ!」

 感情的な彩子の言葉が、背後で響く。
 あまりの言葉に香苗が振り向くと、彩子と目が合った。
 その瞳に拓也への恋慕と、香苗への激しい怒りの色が浮かんでいる。

「その女は、一度は拓也のことを捨てたんじゃないの? それなのに拓也に言い寄るなんてどうかしているわ。……どうせ病院の跡取り娘として結婚に焦って、医師になった拓也に言い寄ったのよ」

 地元が同じなので、彩子にも香苗の実家が九重総合医療センターであることはわかっている。
 それだけの情報から、勝手なことを想像して、早口にまくし立てていく。

「違っ」

 反論しかけた香苗の言葉に被せるように、拓也が「俺の人生に、君に口出しする権利はない」と、冷たく言い放つ。
 拓也の冷たい物言いに、彩子が怯むと、拓也はエントランスのロックを解除し、香苗の肩を抱いて中に入ろうとした。

「拓也」

 置き去りにされる彩子が、慌てて彼の名前を呼ぶ。
 拓也が渋々と言った様子で足を止めて振り返ると、彩子が憎々しげな口調で言う。

「あなたのお母さんは、拓也がこの人と結婚しても喜ばないわ。だって拓也、その人のせいでひどいケガをしたって恨んでいるもの」
「っ!」

 彩子のその言葉は、香苗の胸に突き刺さる。
 拓也と散々話し合い、頭ではあれはどうしようもない事故だったのだと理解している。だけど、それでもなにかの拍子に、拭いきれない罪悪感が胸の奥でジクジクと痛むことがある。
 彩子の言葉は、その完治しきらない心の傷を爪で掻きむしったような痛みを与える。
 もしかして、あの日、小百合が香苗にあんなことを言ったのは自分のことを恨んでいたからなのだろうか……。
 辛い表情を見せる香苗を庇うように、拓也は彼女の肩に回す手に力を込めた。

「母は、あれは学校側の管理体制に問題があった事故だと理解している」
「本音は違うのよ。それに今からでも拓也にパパの仕事を手伝ってほしいって言ってるわ。パパだって拓也のこと気に入っているし……」
「母の口を借りて、自分の都合を俺に押し付けられても迷惑だと、何度も伝えているはずだ」

 キッパリした口調でそれだけを言うと、拓也は香苗の肩を抱いてエントランスを潜った。

「ありがとう」

 エレベーターボタンを押す拓也が言う。

「え?」

 感情が沈み込んでいた香苗は、お礼の意味がわからず彼を見上げる。すると、拓也が優しく微笑む。

「医師は苦労も多いが、尊い職業。……俺の言いたいことを代弁してくれた」

 拓也がどのタイミングから香苗と彩子の話を聞いていたのかは不明だけど、そこの部分は聞こえていたようだ。

「俺はこの仕事を誇りに思っている」

 誇らしげに言い切る拓也に、香苗は「わかっています」と応える。

「私もそんな拓也さんを尊敬しているから、支えていきたいと思っています」

 だからこそ、彼のために自分になにが出来るのだろうかと考えながら、香苗は拓也と共にエレベーターに乗り込んだ。
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