凍った花がとけるとき
1.壊れた均衡
取引先の専務を見送って執務室を覗くと、わたしの担当である真瀬副社長は、眉間に皺を寄せた険しい顔をして、デスク上のパソコンに向かっていた。明日の会議の資料を読んでいるのだろう。いつまで経っても進捗の思わしくない、郊外の開発事業に関する会議はいつも荒れる。
この真瀬不動産に転職して二年。前の職場を勢いで辞めたわたしが、大手デベロッパーの副社長秘書という狭き門に就職できたのは、幸運としか言いようがない。
おそらく、わたしの不幸を神様が憐れんでくれたのだろう。ちょうど海外に出向していた御曹司である真瀬海斗が、副社長として戻ってくるタイミングで、現社長は今まで手薄だった開発事業に力を入れることにしたという。その管理部門を任された御曹司は、直属となるスタッフを自ら指名していった。
その中で秘書だけが見当たらず、偶然そのタイミングで中途採用面接に現れたわたしに、白羽の矢が立ったというわけだ。前職はここまで大きな会社ではなかったけれど、その分何でも屋の営業アシスタントとして鍛えられたのが良かったらしい。
あれよあれよという間に就職が決まり、先輩たちの教えを仰ぎながらなんとか日々の業務をこなしていくうちに、ようやく副社長専属の秘書として、ある程度の自信を身につけたところだった。
もちろん、副社長秘書という仕事をこなすには、日々研鑽に励むよう求められる。
ただ、何事も即断即決、指示も明確な上司についての仕事は、やりがいもあるし何より楽しい。
しかし最初は、外国帰りで効率を重視する副社長の突飛な行動にいちいち驚いていたものだ。特に、執務室の中に秘書用の勤務スペースを作ってしまうなんて。
役職に就く社員には、専属の秘書が配されているが、みな秘書室にデスクを持っていて、普段はそこで業務をこなしている。お呼びがかかった場合のみ、それぞれの執務室に出向くのが通例だった。
しかし出社日、秘書室に顔を出すなり、「貴方はここ」と、副社長直々に執務室内の一角に案内された。デスクが置かれた四畳半ほどの空間は、簡易パーテーションで囲われて、鍵付きの扉までついていた。なんでも、いちいち秘書室まで呼びにいくのが面倒らしい。
いや、内線電話で呼び出していただければこちらから伺いますが……。
最初はなんてわがままな、と思ったけれど、一日様子を見ていて納得せざるを得なかった。
副社長は当時33歳になったばかり。すらりとした長身にまるで人気俳優を彷彿とさせるような整った顔立ちをしていた。理知的な印象を与える瞳に、すっと通った鼻、厚すぎず薄すぎない唇。美しいひとつひとつのパーツが、完璧な場所に配置されている。
よって副社長が秘書室に現れるたび、女性社員からの視線が集まり、ひどいときには次々と話しかけられてしまう。これだけ一流企業だったら秘書の品質に気をつけろと言いたいところだが、秘書室長によると、ふだんの彼女たちは真っ当に仕事をしているらしい。
その女性社員たちを狂わせる魅力が、副社長にはあるのだそうだ。
仕事がひと段落したところで、給湯室にコーヒーを淹れにいくことにした。給湯室のある廊下に出るためには、副社長の執務室を出て、いったん秘書室のなかを通らなければならない。副社長のデスク側には直接廊下に出られるメインの扉があるのだけれど、そちらを通るのはさすがに気が引ける。わたしはいつも執務室入ってすぐに設けられた、秘書室と執務室を繋ぐ小さな扉を使用していた。
いつでも副社長の様子が伺えるよう、簡易パーテーションの扉は開けっぱなしにしているのでそっと席を立ち、気配を消して小さな扉から出た。さすがにかすかな扉の開閉音が響いてしまうので、出て行ったことは気づかれたかもしれないが、長く席を外す場合以外は、断りは特に必要ないと言われていた。
わたしが執務室を出た瞬間、秘書室の視線が集まる。しかし副社長ではないことがわかると、一斉にそれらが霧散していった。
集中したいときはブラック、気分を落ち着かせたいときはミルクと砂糖。聞いたわけではないけれど、それが好み。副社長はコーヒーフレッシュがお好きではないから、牛乳を常備するようにしている。
決して褒められる理由で秘書を目指したわけではないけど、求められるものを先回りして準備する仕事はやりがいがあり、自分の性にも合っていると思えるようになってきた。
そろそろ牛乳の賞味期限が迫ってきていたので、自分にはミルク多めのカフェオレを入れて、カップを二つ手に、執務室へ戻った。
この真瀬不動産に転職して二年。前の職場を勢いで辞めたわたしが、大手デベロッパーの副社長秘書という狭き門に就職できたのは、幸運としか言いようがない。
おそらく、わたしの不幸を神様が憐れんでくれたのだろう。ちょうど海外に出向していた御曹司である真瀬海斗が、副社長として戻ってくるタイミングで、現社長は今まで手薄だった開発事業に力を入れることにしたという。その管理部門を任された御曹司は、直属となるスタッフを自ら指名していった。
その中で秘書だけが見当たらず、偶然そのタイミングで中途採用面接に現れたわたしに、白羽の矢が立ったというわけだ。前職はここまで大きな会社ではなかったけれど、その分何でも屋の営業アシスタントとして鍛えられたのが良かったらしい。
あれよあれよという間に就職が決まり、先輩たちの教えを仰ぎながらなんとか日々の業務をこなしていくうちに、ようやく副社長専属の秘書として、ある程度の自信を身につけたところだった。
もちろん、副社長秘書という仕事をこなすには、日々研鑽に励むよう求められる。
ただ、何事も即断即決、指示も明確な上司についての仕事は、やりがいもあるし何より楽しい。
しかし最初は、外国帰りで効率を重視する副社長の突飛な行動にいちいち驚いていたものだ。特に、執務室の中に秘書用の勤務スペースを作ってしまうなんて。
役職に就く社員には、専属の秘書が配されているが、みな秘書室にデスクを持っていて、普段はそこで業務をこなしている。お呼びがかかった場合のみ、それぞれの執務室に出向くのが通例だった。
しかし出社日、秘書室に顔を出すなり、「貴方はここ」と、副社長直々に執務室内の一角に案内された。デスクが置かれた四畳半ほどの空間は、簡易パーテーションで囲われて、鍵付きの扉までついていた。なんでも、いちいち秘書室まで呼びにいくのが面倒らしい。
いや、内線電話で呼び出していただければこちらから伺いますが……。
最初はなんてわがままな、と思ったけれど、一日様子を見ていて納得せざるを得なかった。
副社長は当時33歳になったばかり。すらりとした長身にまるで人気俳優を彷彿とさせるような整った顔立ちをしていた。理知的な印象を与える瞳に、すっと通った鼻、厚すぎず薄すぎない唇。美しいひとつひとつのパーツが、完璧な場所に配置されている。
よって副社長が秘書室に現れるたび、女性社員からの視線が集まり、ひどいときには次々と話しかけられてしまう。これだけ一流企業だったら秘書の品質に気をつけろと言いたいところだが、秘書室長によると、ふだんの彼女たちは真っ当に仕事をしているらしい。
その女性社員たちを狂わせる魅力が、副社長にはあるのだそうだ。
仕事がひと段落したところで、給湯室にコーヒーを淹れにいくことにした。給湯室のある廊下に出るためには、副社長の執務室を出て、いったん秘書室のなかを通らなければならない。副社長のデスク側には直接廊下に出られるメインの扉があるのだけれど、そちらを通るのはさすがに気が引ける。わたしはいつも執務室入ってすぐに設けられた、秘書室と執務室を繋ぐ小さな扉を使用していた。
いつでも副社長の様子が伺えるよう、簡易パーテーションの扉は開けっぱなしにしているのでそっと席を立ち、気配を消して小さな扉から出た。さすがにかすかな扉の開閉音が響いてしまうので、出て行ったことは気づかれたかもしれないが、長く席を外す場合以外は、断りは特に必要ないと言われていた。
わたしが執務室を出た瞬間、秘書室の視線が集まる。しかし副社長ではないことがわかると、一斉にそれらが霧散していった。
集中したいときはブラック、気分を落ち着かせたいときはミルクと砂糖。聞いたわけではないけれど、それが好み。副社長はコーヒーフレッシュがお好きではないから、牛乳を常備するようにしている。
決して褒められる理由で秘書を目指したわけではないけど、求められるものを先回りして準備する仕事はやりがいがあり、自分の性にも合っていると思えるようになってきた。
そろそろ牛乳の賞味期限が迫ってきていたので、自分にはミルク多めのカフェオレを入れて、カップを二つ手に、執務室へ戻った。