真央くんには沼りたくない
「どしたん話聞こか」
夕暮れ、駅前のドラッグストアに置かれた自販機の横でしゃがみ込んでいると低い男の声がした。
顔を上げると、見知らぬ背の高い男がビニール傘を差しながら私のことを見下ろしていた。真っ黒のマッシュヘア、髪と同じ色の漆黒のマスク、そして両耳にはたくさんのシルバーのピアス。
──かかわってはいけない人だ。
私は目を逸らし、スカートのシワを伸ばして立ち上がった。
「いえ、結構です」
「そうかー? お姉さん、ずいぶん顔色悪いで?」
男に言い当てられ、ドクンと心臓が跳ねた。
確かに、男の言う通りである。約束の時間になっても待ち合わせ場所に来ない彼氏に電話をしたら、「今起きたとこ」とかすれた声で言われた。
いつもこうだし、待つのは苦じゃないから大して気にしてなかったけれど、今日だけは間に合わせて欲しかった。
私は右手薬指のリングに触れた。
「……誕生日なの」
「へぇ? そうなん? おめでとー!」
「でももうすぐ終わっちゃうけどね。約束したのは午後一時なのにもう六時」
「あーそれは彼氏が悪いわ」
「もう、来るのか来ないのか分かんない」
私は深く息を吐いた。
ふざけんな! って怒って、家に帰ればいいと思う。私のことに興味がない彼氏のことなんか放っておけばいいと思うのに、どうしてかアパートに帰る気にはならない。
暇つぶしのカフェも出て、ファストフードも後にして、商店街の一画でぼんやりと遠くを眺めること五時間。彼が千葉から都心へ来るのを、今か今かと首を長くして待っていたのだった。
「さすがにバカよね。もう帰るわ」
口に出してみると気づく。
彼のだらしなさと、自分の異常さに。
執着する必要なんてないのに、捨てきれないでいる。
男はいつの間にか私の横に立ち並び、傘を私の方へ差し出した。
「可哀想になぁ。俺ならそんなことさせへんのにな」
「……」
なぜだろう。
このあとに続く言葉を知っている気がする。
「そうや、このあと飲みにでも行かへん?」
そうだ。
「なんか、お姉さん危なっかしくて守ってあげたくなるわぁ」
アレだ。
あの構文だ。
私は呆れた目で彼を見る。
「……ん? あ、もしかして変なことされそうとでも思ってはるの? 嫌やわ、会ったばかりの人に手出すわけないやん。疑わんといて」
そうは言っても、この状況に台詞は誰が見てもよくあるナンパ。少々口を滑らせてしまったが、深入りするのはやめたほうががいいだろう。
「話を聞いてくれてありがとう。本当にもう帰るから」
男の目を見ずに告げると、駅へ向かって歩き出した。激しさを増した雨が、私の顔や身体を伝う。
「あ、ちょっと!」
「……」
「おごるで! せっかくだから雨宿りしときや!」
「……」
なんてありがちなシチュエーション。そう、このあとは空いてるシングルが無いとかで、ダブルの部屋に泊まる定め。
普通に考えて嫌である。会ったばかりの異性と二人きりで過ごすなんて、例え身体の関係が無くてもお断りだ。
「なぁ、待って!」
男が足を速め、私は思わず駆け出した。
(待つわけないでしょ! )
ふと、よからぬことが頭の中によぎって血の気が引いた。男がただのナンパ師ではない可能性だ。捕まったら乱暴される、いや、それだけじゃすまないかも。
都会は昼も夜はキラキラに輝いていて、たくさんの夢が叶う場所。過去の私も、今までの自分を変えたくて田舎からこの街へ移り住んだのだ。一人じゃ何にも決められない、優柔不断な自分とはさようならしたかった。親元から離れた土地で一人で住めば自ずと、自立したかっこいい大人になれると思ったのだ。
(そう簡単にはいかなかったんだけど)
彼氏は頼りないし、仕事は忙しい。趣味に割く時間なんかほんのちょっとで、大好きなアイドルのコンサートにももうずいぶん行けてない。何のために行きてるのかと考え始めると止まらず、病んでしまいそうになる。
おまけに世間は物騒だ。
ちょうど今みたいに。
駅の中の人混みに紛れ込んでも、男の足音が付いてくる。
「お姉さん! お姉さんてば!」
「……」
「お話しよ! な!」
「しません。帰ります」
「お姉さん!」
「しつこい!」
たまらず男の方を振り返ると、黒髪でマッシュの男はビクッと肩を震わせて姿勢を正した。
「や……やっと、こっちを向いてくれた……」
男は顔を赤らめ、はにかんだ笑顔を見せた。
「な、何……?」
私が足を止めたのをいいことに、男は人混みの合間を縫ってゆっくりと近づいて来る。
「吉原沙耶ちゃん」
ドクンと胸が鳴る。
「なんで、名前……」
背の高い黒髪マッシュの男に知り合いはいない。チャラ男ならなおさらだ。
「先輩の好きなタイプの男になりました。付き合ってくれますよね」
男はジリジリと距離を詰めて来る。
必死に記憶を巻き戻す。
大学時代、私は量産系女子だった。髪を染めて流行りの服を着て、そこそこ楽しかった。
高校時生のとき、私は部活に精を出した。吹部は強くはなかったけど、緩くて和気あいあいで男子も女子も仲が良かった。
中学は学校が荒れていた。関わりたくなくて美術部で息を潜めていた。もくろみは功を奏し、平穏な毎日を過ごした。
「……あなたは誰?」
私の人生は地味だ。
だが、その反面平和である。彼氏も仕事も、可はないけど不可もない。ハラスメントとは無縁だと思う。だから耐えていられるのだ。
目の前の彼のように浮ついた見た目の友人などいない。
「さあて。誰でしょう」
「そんなこと言われても」
帰宅の途につくたくさんの人々が、私と男の間を次々と通り去っていく。思い出せないのがモヤモヤして、私は暫し考え込んだ。
「……これを返しにきたのです。長い間預かっていて、申し訳ございません」
「……?」
男はコートの内ポケットに手を突っ込むと、青のメガネケースを取り出した。中には薄い桃色の淵の可愛らしい眼鏡が入っている。
「え……っ?」
桃色の眼鏡を見た瞬間、じわじわと記憶が広がっていく感覚がした。
思い出せないじゃなくて思い出さないようにしていた、とでも言うべきか。脳内が次第に鮮明に色を取り戻していく。
「私の……ですね」
「ええ。でも、もう必要無いですよね」
男は微笑んだ。少し照れながら目を細める男の顔は、記憶の中の誰かに似ている気がして、頬に伸ばされた手を拒めなかった。
「あれ? 今、コンタクトつけて無いんですか?」
「今日は……そうね。もしも色々あったときに手入れが面倒だから」
男は私の頬に触れると、わずかに口を尖らせた。
「色々無くて良かったです。嫉妬するところでした」
男の手が、私の前髪へ伸び、まぶたへと触れた。
「……あ……」
男は黒いマスクをそっと耳から外し、顔をグッと近づけた。大きい切れ長の瞳と目が合う。右側に、大きめの泣きぼくろがある。
「真央くん……?」
男──杉本真央はクスッと笑みをこぼし、返事をした。中学時代の部活の唯一の仲間であり、後輩だった人間だ。
「ようやく見えましたか」
胸がざわついた。
鼓動が、意志とは正反対に脈を打つ。
「いえ、まだ視力が足りませんよね。世界はもっと美しいんですよ。先輩も知りたいでしょう?」
なぜだか高鳴る私の胸は、逃げようとする理性を拒む。
真央くんは右手で薄いコンタクトレンズをつまんで、息を荒げている。
「……じゃ、入れますね」
0.08ミリの澄んだレンズが、そっと私の内側に入ってくる。胸が、好き勝手に疼いて止まない。
真央くんは私の耳元に口を近づけた。
「責任取ってください」
私は唾を飲み込んだ。
「先輩のことが頭から離れなくて、こんなところまで来ちゃったのですから」
真央くんは私のことをじっと見つめた。
「先輩、ぼくにもっと初めてをください」
夕暮れ、駅前のドラッグストアに置かれた自販機の横でしゃがみ込んでいると低い男の声がした。
顔を上げると、見知らぬ背の高い男がビニール傘を差しながら私のことを見下ろしていた。真っ黒のマッシュヘア、髪と同じ色の漆黒のマスク、そして両耳にはたくさんのシルバーのピアス。
──かかわってはいけない人だ。
私は目を逸らし、スカートのシワを伸ばして立ち上がった。
「いえ、結構です」
「そうかー? お姉さん、ずいぶん顔色悪いで?」
男に言い当てられ、ドクンと心臓が跳ねた。
確かに、男の言う通りである。約束の時間になっても待ち合わせ場所に来ない彼氏に電話をしたら、「今起きたとこ」とかすれた声で言われた。
いつもこうだし、待つのは苦じゃないから大して気にしてなかったけれど、今日だけは間に合わせて欲しかった。
私は右手薬指のリングに触れた。
「……誕生日なの」
「へぇ? そうなん? おめでとー!」
「でももうすぐ終わっちゃうけどね。約束したのは午後一時なのにもう六時」
「あーそれは彼氏が悪いわ」
「もう、来るのか来ないのか分かんない」
私は深く息を吐いた。
ふざけんな! って怒って、家に帰ればいいと思う。私のことに興味がない彼氏のことなんか放っておけばいいと思うのに、どうしてかアパートに帰る気にはならない。
暇つぶしのカフェも出て、ファストフードも後にして、商店街の一画でぼんやりと遠くを眺めること五時間。彼が千葉から都心へ来るのを、今か今かと首を長くして待っていたのだった。
「さすがにバカよね。もう帰るわ」
口に出してみると気づく。
彼のだらしなさと、自分の異常さに。
執着する必要なんてないのに、捨てきれないでいる。
男はいつの間にか私の横に立ち並び、傘を私の方へ差し出した。
「可哀想になぁ。俺ならそんなことさせへんのにな」
「……」
なぜだろう。
このあとに続く言葉を知っている気がする。
「そうや、このあと飲みにでも行かへん?」
そうだ。
「なんか、お姉さん危なっかしくて守ってあげたくなるわぁ」
アレだ。
あの構文だ。
私は呆れた目で彼を見る。
「……ん? あ、もしかして変なことされそうとでも思ってはるの? 嫌やわ、会ったばかりの人に手出すわけないやん。疑わんといて」
そうは言っても、この状況に台詞は誰が見てもよくあるナンパ。少々口を滑らせてしまったが、深入りするのはやめたほうががいいだろう。
「話を聞いてくれてありがとう。本当にもう帰るから」
男の目を見ずに告げると、駅へ向かって歩き出した。激しさを増した雨が、私の顔や身体を伝う。
「あ、ちょっと!」
「……」
「おごるで! せっかくだから雨宿りしときや!」
「……」
なんてありがちなシチュエーション。そう、このあとは空いてるシングルが無いとかで、ダブルの部屋に泊まる定め。
普通に考えて嫌である。会ったばかりの異性と二人きりで過ごすなんて、例え身体の関係が無くてもお断りだ。
「なぁ、待って!」
男が足を速め、私は思わず駆け出した。
(待つわけないでしょ! )
ふと、よからぬことが頭の中によぎって血の気が引いた。男がただのナンパ師ではない可能性だ。捕まったら乱暴される、いや、それだけじゃすまないかも。
都会は昼も夜はキラキラに輝いていて、たくさんの夢が叶う場所。過去の私も、今までの自分を変えたくて田舎からこの街へ移り住んだのだ。一人じゃ何にも決められない、優柔不断な自分とはさようならしたかった。親元から離れた土地で一人で住めば自ずと、自立したかっこいい大人になれると思ったのだ。
(そう簡単にはいかなかったんだけど)
彼氏は頼りないし、仕事は忙しい。趣味に割く時間なんかほんのちょっとで、大好きなアイドルのコンサートにももうずいぶん行けてない。何のために行きてるのかと考え始めると止まらず、病んでしまいそうになる。
おまけに世間は物騒だ。
ちょうど今みたいに。
駅の中の人混みに紛れ込んでも、男の足音が付いてくる。
「お姉さん! お姉さんてば!」
「……」
「お話しよ! な!」
「しません。帰ります」
「お姉さん!」
「しつこい!」
たまらず男の方を振り返ると、黒髪でマッシュの男はビクッと肩を震わせて姿勢を正した。
「や……やっと、こっちを向いてくれた……」
男は顔を赤らめ、はにかんだ笑顔を見せた。
「な、何……?」
私が足を止めたのをいいことに、男は人混みの合間を縫ってゆっくりと近づいて来る。
「吉原沙耶ちゃん」
ドクンと胸が鳴る。
「なんで、名前……」
背の高い黒髪マッシュの男に知り合いはいない。チャラ男ならなおさらだ。
「先輩の好きなタイプの男になりました。付き合ってくれますよね」
男はジリジリと距離を詰めて来る。
必死に記憶を巻き戻す。
大学時代、私は量産系女子だった。髪を染めて流行りの服を着て、そこそこ楽しかった。
高校時生のとき、私は部活に精を出した。吹部は強くはなかったけど、緩くて和気あいあいで男子も女子も仲が良かった。
中学は学校が荒れていた。関わりたくなくて美術部で息を潜めていた。もくろみは功を奏し、平穏な毎日を過ごした。
「……あなたは誰?」
私の人生は地味だ。
だが、その反面平和である。彼氏も仕事も、可はないけど不可もない。ハラスメントとは無縁だと思う。だから耐えていられるのだ。
目の前の彼のように浮ついた見た目の友人などいない。
「さあて。誰でしょう」
「そんなこと言われても」
帰宅の途につくたくさんの人々が、私と男の間を次々と通り去っていく。思い出せないのがモヤモヤして、私は暫し考え込んだ。
「……これを返しにきたのです。長い間預かっていて、申し訳ございません」
「……?」
男はコートの内ポケットに手を突っ込むと、青のメガネケースを取り出した。中には薄い桃色の淵の可愛らしい眼鏡が入っている。
「え……っ?」
桃色の眼鏡を見た瞬間、じわじわと記憶が広がっていく感覚がした。
思い出せないじゃなくて思い出さないようにしていた、とでも言うべきか。脳内が次第に鮮明に色を取り戻していく。
「私の……ですね」
「ええ。でも、もう必要無いですよね」
男は微笑んだ。少し照れながら目を細める男の顔は、記憶の中の誰かに似ている気がして、頬に伸ばされた手を拒めなかった。
「あれ? 今、コンタクトつけて無いんですか?」
「今日は……そうね。もしも色々あったときに手入れが面倒だから」
男は私の頬に触れると、わずかに口を尖らせた。
「色々無くて良かったです。嫉妬するところでした」
男の手が、私の前髪へ伸び、まぶたへと触れた。
「……あ……」
男は黒いマスクをそっと耳から外し、顔をグッと近づけた。大きい切れ長の瞳と目が合う。右側に、大きめの泣きぼくろがある。
「真央くん……?」
男──杉本真央はクスッと笑みをこぼし、返事をした。中学時代の部活の唯一の仲間であり、後輩だった人間だ。
「ようやく見えましたか」
胸がざわついた。
鼓動が、意志とは正反対に脈を打つ。
「いえ、まだ視力が足りませんよね。世界はもっと美しいんですよ。先輩も知りたいでしょう?」
なぜだか高鳴る私の胸は、逃げようとする理性を拒む。
真央くんは右手で薄いコンタクトレンズをつまんで、息を荒げている。
「……じゃ、入れますね」
0.08ミリの澄んだレンズが、そっと私の内側に入ってくる。胸が、好き勝手に疼いて止まない。
真央くんは私の耳元に口を近づけた。
「責任取ってください」
私は唾を飲み込んだ。
「先輩のことが頭から離れなくて、こんなところまで来ちゃったのですから」
真央くんは私のことをじっと見つめた。
「先輩、ぼくにもっと初めてをください」

