君の心に触れる時
夜の病院は静まり返っていた。規則的に鳴る心電図の音が耳に響く中、春香はベッドの上で窓の外をじっと見つめていた。暗闇に浮かぶ街灯の光が、どこか遠く感じる。
「このまま死ぬつもりか?」
蓮の言葉が何度も頭の中で反響する。春香は思わず拳を握りしめた。
「勝手に決めつけないでほしい……私が何をどうしたいかなんて。」
彼の冷たい視線と淡々とした言葉を思い出すたび、胸の奥にじわりと反発心が芽生える。治療しろと言われるたびに、まるで自分が無力な存在だと言われている気がしてならない。
そんな中、病室のドアが静かに開いた。現れたのは、カルテを手にした蓮だった。
「まだ起きていたか。」
彼の声はいつも通り冷静で感情が読めない。その態度がさらに春香を苛立たせた。
「見回りですか?」
「患者の状態を確認するのが医者の仕事だ。」
蓮は淡々とした口調で答えながら心電図のデータを確認する。その動きには無駄がなく、彼のプロフェッショナルさを感じさせるが、春香にはその冷徹さがただ嫌味に思えた。
「治療なんてしなくても、私はちゃんとやっていけます。」
突然飛び出した春香の言葉に、蓮は手を止めて彼女を見た。
「君の病状を知っていながら、それを言えるのか?」
「……だから、それは私が決めることです。医者に何でもかんでも決められるのは嫌なんです。」
蓮は少しだけ眉をひそめたが、冷静な口調は崩さない。
「君の命が君のものである以上、選ぶ権利があるのは確かだ。ただし、選ぶには正しい情報が必要だ。それを提供するのが俺の役目だ。」
「正しい情報を聞いて、結局『治療しなさい』って押し付けるだけでしょう?」
春香は苛立ちを込めて言い返した。けれど蓮は動じず、冷静な声で言葉を続けた。
「治療を受けるか否かは最終的に君が決める。ただし、今のままでは君は選ぶことすらできない。身体が君を裏切るのは時間の問題だ。」
その言葉は冷たく聞こえるはずだったが、春香の胸の奥を深く刺した。
「でも……」
彼女は視線を逸らし、言葉を続ける。
「もし手術しても失敗したら?病気と闘っても、結局何も変わらなかったら?」
その弱々しい声に、蓮は初めて少しだけ表情を緩めたように見えた。そして、真剣な眼差しで彼女を見つめる。
「手術が失敗する可能性はゼロではない。だが、何もしないで失う未来の方が後悔は大きい。少なくとも、俺はそう思う。」
春香はその言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。蓮の目には確かに揺るぎない信念が宿っている。それが彼を冷たく見せているのだと、少しだけ理解した気がした。
「……でも、私は普通でいたいだけなんです。」
春香は消え入りそうな声で呟いた。その声に、蓮は短く息をつき、静かに答えた。
「普通でいるために、戦わなければならないときもある。」
その言葉に返すことができず、春香はただ俯いた。蓮はそれ以上何も言わずにカルテを閉じ、部屋を出て行った。
彼が去った後、春香は病室の静けさに包まれながら考えていた。病気と闘うべきなのか、それとも自分の意志を貫くべきなのか。
「普通でいたいだけなのに……どうしてこんなに難しいの?」
彼女の中にはまだ葛藤が渦巻いていた。蓮の言葉が心の奥底に響きながらも、それを素直に受け入れることはできなかった。